図書委員の日常
1階の6号室。庭に回り込んでリビングらしきところに電気がついているのを確かめた。
エントランスに入り、インターホンを押す。
『――はい』
女性の声。母親だろうか。緊張してカメラを睨みつけてしまった。声が上擦る。
「朝早くに申し訳ありません。樋山恭介と申します。中学校で真司くんと親しくさせていただいている者です。真司くんは御在宅でしょうか」
『あら、樋山くん。ちょっと待っててね』
拒否されるかと思えば明るい声で応対され戸惑っていると電子錠が開いた。
『入ってらっしゃいな』
「あ、はい……」
もしかして罠かと思ってしまう自分が嫌だ。罠だとしても彼に会いたい。樋山は一歩踏み出した。
「こっちよ、こっち」
きょろきょろしていると緒方とよく似た女性がこちらへ手を振っていて慌てて会釈する。
「朝早くに申し訳ありません」
「いいのよ、あの子もお友達が来て喜ぶわ」
「そうだといいんですけど……お邪魔します」
「お母さん! なんでこいつがここにいるの!」
聞き覚えのある声。樋山があまり聞きたくない声。
緒方怜司が眼鏡の奥からこちらを鋭く射抜いていた。
「怜、真の友達なんだからそんなこと言わない」
「こんな奴、友達じゃないよ!」
「それはあなたが決めることじゃないでしょう」
さすがに親の前では言葉遣いが綺麗になるらしいと現実逃避しつつ駅前で買ってきたケーキの箱を渡すタイミングを窺っていると視界の隅に懐かしい姿が映り込んだ。
「あ、真の部屋はあそこよ。入っていってね」
「えー、あー。勝手に入っていいんですか?」
「いいのいいの。あなたが来るって言ったら隠れちゃってね」
にこにこと笑う緒方のお母様に面食らいつつ、ケーキの箱を渡す。
「粗末なものですが」
「あー、気を遣わせちゃったのねごめんなさい。こんなことしなくていいのよ、いつでも遊びにいらっしゃいな」
「ありがとうございます」
「お母さん待ってよ真司の部屋は俺の部屋でもあるんだよ!」
「じゃああなた、リビングにいなさい」
「なんで!」
言ってみたい。おたくの息子さんに先日暴行を受けましたと言ってみたい。実際には言わなかったけれども。
「ごめんなさいね。この子、弟が大好きで。真が中学にあがってから家で樋山くんの話ばかりをするものだから怜ってば寂しかったのよね」
「誤解されるようなこと言わないで!」
「あら、事実でしょう」
まだまだ続きそうな親子のぷち攻防に一礼し廊下へ出て緒方の部屋をノック。
「樋山恭介です。入っていい?」
無言。躊躇っていると中で彼が動く気配がした。ドアが開く。
「入れ」
久々に見た彼はやつれていて、樋山は掛けようと思っていた言葉が吹き飛んでしまった。
背後で扉が閉まる。ついでに鍵も掛けていた。
「今は怜に入ってきてほしくないから」
柔らかく笑う彼に胸が痛む。「久しぶり」も、「会いたかった」も今の彼には言ってはいけない気がして唇を噛んだら背中を擦られた。
「お前がそんな顔をするな。調子が狂う」
「緒方、俺は」
「いい。何も言うな」
なんでこんなに優しいんだよ。もうわけがわからない。彼の腕をそっと外して綺麗な明るい茶色の瞳を覗きこむ。どこまでも澄んでいてずっと見つめていたくなる彼の瞳に樋山の方がうろたえてしまった。
「緒方、俺、察しはついてる。でも、本当のことは知らない。知りたい。今日は急に来て悪かった。教えてほしい」
俯き彼に告げると溜め息が聞こえて体が強張ると抱き締められた。
「樋山が気に病む必要はない」
「なんで? 俺は緒方が」
好きだよと言おうとして喉が凍った。彼に何度も告げた言葉、でも樋山の好きは彼にとっては違うかもしれない。今まで考えないようにしていたことが樋山に圧し掛かってとうとう言えなかった。
「緒方。ねえ、緒方」
ぽんぽんと背中を叩かれる。密着する彼の体温。図書室とは逆だなあと思って彼の肩口に顔を埋めた。
名残惜しかったけれど彼から離れる。
嫌われてもいい。やっぱり今、言わなきゃいけない。
「緒方」
彼の瞳を見つめて、精一杯誠実にこの自己満足な気持ちを伝える。