図書委員の日常
途端に、緊張の糸が解けたのか激痛が体を襲った。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。
授業に出なきゃ、と必死で足を動かす自分を我ながら真面目だと嘲り、叱咤して入口に辿りつく。
樋山は、ひとりだった。
そこから先の記憶があまりない。帰宅したら足首に湿布が貼ってあったからきっと保健室に行ったのだろうと思う。
***
朝起きたら、激しい頭痛に襲われた。学校を休みたい気分だったが本来の真面目な性格でサボる気にもなれなかったため体を引きずりながら登校する。
窓から高校校舎を見る。中学校舎の教室からは高校校舎の教室がよく見える。逆もまた然り。
昨日のワインレッドの男。特徴のない男でもいい。学年を掴んだら名前も学年の中での位置関係も芋づる式でわかる。
昼休みになってもずっと窓の外を見続けている樋山を友人たちは半分心配そうに、そして半分は教室に留まっていることを喜ぶように構い続けた。
それらを内心苛立ちつつ、表面上優しくあしらいながら目線だけはずっと高校校舎に固定。
「――っ!」
一瞬、こちらを見た高校生と目が合った。ワインレッドの眼鏡の男。
もう一度よく見ようとしたとき、彼の雰囲気ごと霧散してしまった。
高2の階、あの付近は6組だけどトイレの方向だからそれだけでは断定できない。
「ごめん、みんな」
それだけ言い置いて教室を飛び出す。後ろから着いてくる音を引き離そうとして速度を上げる。
階段を駆け上り高校校舎への連絡通路を抜けようとして後ろから抱きとめられた。
「放せよ」
「うん。恭介が落ち着いたらね」
誰か、なんて振り向かなくてもわかる。瑞樹だ。昨日、いてほしいときに居てくれなかったくせにと子どものような怒りと共に彼を睨みつけたら瑞樹もまた睨み返す。
「恭介のことは、止めない……。止められるわけがないでしょう」
「随分と弱気だね」
「だって、行くなと言ったらやめるかい?」
「愚問だね」
「俺らにとって大事なのは恭介だけ。わかるだろう」
「わかりたくない。昨日何があったかも知らないくせに!」
頬を張られても痛くなかったのは、きっと打った瑞樹の方がショックを受けた顔をしていたから。
「いい加減にしてよ恭介」
弱々しく絞り出された声を聞きたくなくて耳を覆う。それでも瑞樹の声は入ってくる。
「人生ね、すべてがうまくいくわけがないよ。でもそれが必要なことでしょう。恭介にとって緒方のことは譲れないことなら、恭介にとって必要なことなら俺らは見守るだけだ」
「干渉してきたくせに」
「するよ。恭介が大事だから」
「なあ、何が起こってるんだよ」
「――中学のちびちゃんたちはうるさいねー」
瑞樹に詰め寄り肩を掴んだところで引き剥がされた。
誰かを見ようと振り返れば特徴のない男が芝居がかった仕草で耳を覆っていた。
「自分たちに知らないこともあるって知った方がいいよー」
警戒心をむき出しにした瑞樹が樋山の腕を引き一歩引いた。
「やだなあそんなに怯えないでよ。学内で乱闘なんてできるわけないでしょう?」
昨日俺に暴行を加えたのは恐らくあなたの友人なのですが、と言いたいのを堪えて俯く。
「あなたは、緒方と関係あるんですか?」
樋山の様子から何かを勘づいたらしい瑞樹が男へ訊ねると例によって特徴のない笑みを浮かべ首を傾げた。
「さあ……。『緒方』は知ってるけどね」
「なんでわざわざこちらまで来てくださったんですか?高校校舎はあちらですが」
「君、うっとうしいなあ。樋山くん見習っておとなしくしておいたら?」
名前を知られている。驚いて顔を上げても相手の様子は変わらない。
「ヒントあげるよ。あの子は僕にとってもかわいい弟のような存在だからね。まあ、実際になんとかするのはあの子だけど」
持って回った言い方に焦れていると通路の奥に、ワインレッドの眼鏡が見えた。何もしていないのにこちらを威圧できるのはすごい。
「ああ、あいつ来ちゃったか。堪え性がないなあ。――何が好きで、そうではないか考えてみたらどうかな。溺れてみるのもまた一興」
わけのわからない言葉を呟き、男は樋山と瑞樹に背を向けた。
「僕が誰かを調べてみるのもおもしろいかもね」
男の消えた先を見つめても追う気になれなくて連絡通路をとぼとぼと戻る。
「あの人、見たことがある気がする」
「どこにでもいる顔でしょう」
瑞樹が記憶を手繰ってくれているが樋山自身は結局何にも辿りつけなかった苛立ちで刺々しく言ってしまう。それにも反応することなく考え込んでいた瑞樹は小走りにロッカーへ向かう。