図書室の主 | ナノ

図書委員の日常

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 瑞樹が樋山のことを名字で呼ぶのは公のときだけ。樋山のことだけでなくみんなのことを平等に名字で呼ぶから、それが彼の人気に繋がっていることもわかるけれど心が弱りかけているときには少し堪える。

 四十二人の名をすべて呼び終わった頃、担任がやってくる。
 一限の数学の宿題をやっていないことを思い出して、この短時間でやりおおせない量ではなかったけれどなんだか馬鹿馬鹿しく感じられて意味もなくシャーペンの芯を叩いた。

 休み時間のたびに2Cへ飛び出そうとしてクラスメイトたちに阻まれ、待ちに待った昼休みは背後に瑞樹の視線を感じて、ご飯も食べずに心の中で謝りながら図書室へと駆けた。

 わかりたい。知りたい。解決方法なんてわからないから、ただ彼の傍に居たい。

 小説スペースのカーペットで膝を抱えて、彼を待った。

 いつも緒方は樋山より先にいる。どんな気持ちでここで本を読み、そして時々樋山を待っていてくれたのだろう。

 昨日、彼は樋山のいない間にここに来たのか。そっと本の背表紙に触れ、静かに流れる時にまどろみそうにそうになったとき、耳が扉の外の騒ぎを捉えた。

 ――緒方と揉めてるのか、それともいじめっこたち?

 入口へ向かおうとしたとき複数の声の中に幼馴染の声が含まれているのがわかって笑みが零れた。ここに留まって、待とう。自分が守られている前提でしか人を好きになれない自分が卑怯者だとわかってはいるけれど恐怖感は拭えない。

 ギィと扉の開く音がする。正座をして、突破口になるであろう誰かを待った。


***

 ぱたり、と上履きが床を滑る音がして、小説スペースの前で止まる。


「てめえか」


 いきなり吐き捨てたその男を樋山は知らない。

 制服をきっちりと着こなした一見優等生風の男。一見、というのはその男からなにやら物騒な空気を纏っているから。

 同じ学年だとしたら外部生、違う学年だとしても内部生同士ならある程度小学校で顔を合わせてなんとなく憶えているから、どちらにせよ外部生、そもそも夏扇はおっとりしているからこんな危険な男はいないはず――そんなどうでもいいことを考えているうちに男はワインレッド細い縁の眼鏡の奥から鋭く樋山を射抜き、律義に上履きを脱いでこちらへ近づいてくる。

 やばいと思うのに逃げられない。そんな樋山を嘲笑うように男は口端をあげた。


「なっさけねなァ? 来い」


 容赦なく腕を引かれそのまま何も敷いていない床へ放り出された。体中を衝撃と痛みが襲い空気が吐きだされ息を吸えない。

 そのまま襟元を掴まれ、腹を蹴られた。ああ、靴を脱いだのは靴跡がつかないようにするためか、なんてどこか冷静に考える。

 樋山は運動神経がいいだけで喧嘩が強いわけではない。それでもわかる。

 この男が狙っている場所。

 人から確実に見えないところ。痛いところ。服が乱れないところ。

 計算して蹴っているのがわかる。そのくせ動きに乱れがない。これは相当慣れていそうだ。うっかり殺されることもないが痛いものは痛い。

 蹴り返そうとしたらその脚をもっていかれて足首を捻った。

 昼休みのチャイムが鳴るまでの我慢だ。呻き声すら聞かせたくなくてただ唇を噛みしめた。

 彼がここにいなくてよかった、と思う自分は偽善者だと思った。その強がりも数分も経たないうちに消える。

「瑞樹っ……」


 思わず幼馴染の名を零したらより強く蹴られた。都合のよさに我ながら呆れてしまったが助けを求めようとするのはどうしようもない。


「誰も来ねえよ。鍵はきっちりかけたからなァ」


 楽しんでいるようにさえ聞こえるその男の声。ずっと運動――そう、恐らく運動程度だこの男にとっては――しているにも関わらずまったく息が乱れていない。

 ふいに暴行が止んだ。首も動かせなくて視線だけ男の方へ向ければなにやらもうひとつ人影がある。


「よかった、生きてる」

「殺すようなへまはしない」

「あのね、万一ってものがあるの」


 溜め息混じりの声は、やはり樋山が知らないものだった。


「君を犯罪者にしたくない一心で頑張ってるあの子の努力、無駄にするつもり?」

「その前にお前が犯罪者になるぞ」

「ひどいなあ。鍵はちゃーんと使えるよ。壊したわけじゃないから大丈夫」


 樋山そっちのけで繰り広げられる会話。痛みが和らいできたのでそっと体を起こすとふたりがこちらを見た。


「よかったねー、君、僕が来て」

「あなたは誰ですか」


 返事は来ない。新しく来た男は特徴がないのが特徴、夏扇の典型みたいな人間だった。けれどその顔に見覚えはない。

「ああ、僕のこと見たことがないから混乱してるのかな? ――君たち内部生は内部と外部意識しすぎだよ。それに情報なんていくらでも掴む方法がある。精進したまえ」


 内心を見抜かれどきりとした。同時に、見た目通りの男ではないことを直感して、しかし他にできることもないのでただ警戒心を強める。


「お前、しゃべりすぎだ」

「ごめんごめん怒らないで。じゃーねー」


 ワインレッドの眼鏡の男を軽くいなして、ふたりは図書室を去っていった。



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