図書委員の日常
彼の背に飛び乗って首筋に頬をすりよせると彼はくすぐったそうに笑っておもしろくなってきて肩甲骨に頭をぐりぐりと押しつける。
「痛い、痛いってば。降りろ」
「嫌だ。3週間も我慢した。緒方不足で俺、壊れちゃうよー」
「そうか。軟弱だな」
「ガラスのハートなの」
スルーされた。今度こそハートが砕けそう、と思いながら彼の体温を手放す。
「さて、先に手続きしてくれないか」
「もちろん」
久しぶりのカウンター。先程逃げ帰った図書室をぐるりと見渡し、返却印を撫でていると緒方に小突かれた。
ひとりでは怖かった場所が、今では彼と秘密を共有する場所のようでぞくぞくした。
***
――おかしいと感じたのは、彼の制服が湿っていたから。
7月に入って初めての雨の日、昼休みの図書室。
飛び乗ったあの日、彼に拒否されなかったので、隣に座り彼の横顔を眺めるだけでは物足りなくなってきた樋山は堂々と背後から彼に抱きついて一緒に本を読んでいる。
その位置に落ち着いて一週間が経っていた。
天気予報は昨日から雨を告げていたから傘を持っていたはずなのに、彼のカッターシャツはじっとりと濡れていた。普段から抱きついていなければ気づかなかったかも知れない。
本に集中している彼をじっくり観察する。記憶を手繰りよせ、先程彼が返却した本はまったく濡れていなかったことを思い出す。
昼休み終了には早いけれど彼から本を取り上げる。明るい茶色の瞳が腕時計へ走り、まだ時間があると知ると不満げに細められた。
「待って、緒方。怒りたいのは俺の方だよ。なんで緒方のシャツ、濡れてんの」
「登校中に傘が折れた」
「なんで本は濡れてないの」
「体育があったから、タオルで包んできた」
あらかじめ用意してあったようにすらすらと答えられるが、それに訝しむよりも本が無事な理由がなんとも彼らしくて呆気にとられてしまった。
「もう……風邪ひくよ」
「夏風邪は馬鹿がひくんだ。そして俺は馬鹿じゃない」
「すごい自信だね。まずは自分を大事にしなよ」
亮介の姿が彼に被り苦笑するとむっとしたように肩を叩かれた。タイミング良くチャイムが鳴る。ふっとどちらからともなく笑いだして、緒方は初めて本を借りなかった。
***
図書室の扉が開かない。
そんな日もあるだろうと思いつつとぼとぼと教室への階段を上り未練がましく2Cの教室を覗けば彼がいない。
「緒方? あれ、恭のところじゃないの?」
寛樹と亮介が一緒に弁当を食べていたから教室に入り込んで亮介に訊くと、寛樹が首を傾げて続けた。
「恭介の顔が見たくなくなったんじゃない?」
あんまりと言えばあんまりな言葉にどう返事していいかわからず戸惑っていたら、亮介が寛樹を軽く叩き樋山に向き直った。
「ヒロ、黙って。――そんな日もあるよ。ゆっくりと待てばいい」
穏やかだが何かを隠しているような響き。口を割らないとわかっていても訊ねようとしたそのとき予鈴が鳴ってしまった。
教室の扉が開き、入ってきた彼と目が合ったのち逸らされた。
緒方は目が悪いくせに授業中以外は眼鏡を掛けない。至近距離ですれ違っても滅多に気づかない。
だから目が合うこと自体珍しいし、いつも樋山から声を掛けるのだけど、今日はどこか違った。
あえて樋山を無視しているような。
「緒方、っ」
「恭介、帰りな」
彼の迫力に圧されて、彼がすぐ傍を通り過ぎてもぼーっとしたままで慌ててその背を追おうとしたら亮介に止められ教室の外に追い出された。
初めて彼から悪意を感じた。ショックで、2Cの扉の前から動けない。
授業開始のチャイムが鳴っても「邪魔だよ」と寛樹に追い返されるまで立ち尽くしていた。
教室に戻ればまだ教師は来ていなくて、友人たちが不安そうに樋山の様子を窺っている。
遠回しな心配と、隠し切れていない好奇心に苛立ちながらも樋山は笑った。
「あーもうみんなごめんねー。ちょい寝不足なんだ」
少し赤い瞳を指差し笑えば近づいてきた瑞樹がそっと背中を擦ってくれて、漏れそうになる嗚咽を喉の奥で噛み殺した。
***
放課後の図書室も開かなかった。 彼の下足箱を確認したら、外靴が残っていて、もしかして昼も内側から鍵を掛けられていたのかもしれないと思い当たる。
これ以上、傷ついたら立ち直れなくなりそうで自分を守るために真っ直ぐに帰った。
バスに乗り霞みそうになる思考の中、必死でここ数日の彼との会話を思い返すが身に覚えがない。
帰宅して真っ先に、震える指で彼にメールを打つ。
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To:緒方
Subject:
夏休み、一緒に遊ぼうよ。
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数学の問題集を片手に、樋山は一晩待った。
返事はなかった。それが彼の答えなのだろう。
ケータイ片手に笑いが止まらなかった。眦を零れるものを拭い、笑い続けた。
昨日言ったことが本当になってしまったな、なんて思いつつ寝不足なまま学校へ向かう。
樋山の隈を見て幼馴染の瑞樹はぎょっとしたように目を見開いた。
大丈夫だからと軽く手を振れば何か言いたげな顔をして、でも結局何も言わずに溜め息をひとつ落としていった。