遡及事項
気がつけば岸本はなんだか温かい空間にいた。
体がふわふわとしており不安になって手を動かせば木製のベンチに触れたのでそのまま腰かける。
視線を感じたのでそちらへ目をやれば自分とよく似た、しかし自分ではない人間が岸本を見てにっこりと笑った。
――にーちゃん。
呼ばれて、必死で彼へ手を伸ばそうとするのに体がまったく動かない。
――柚葉!
なにもできなくて、ただ彼の名を――弟の名を叫んだ。
――柚葉、こんなに大きくなったんだな。抱っこしてあげるから、こっちへおいで。
柚葉は悲しげな顔をして、それでも笑った。
――にーちゃん。俺はね、俺だよ。
唐突にこれが夢であることを悟った。岸本の記憶の中の柚葉は聡明な真っ直ぐした目つきをしている。それに、にーちゃんと呼ばれなくなってから久しい。
――柚葉!
怖くて夢から醒めたくなくて呼びかける。柚葉はこちらへ背を向けた。
――にーちゃん、いいんだ。もう、他の人を好きになってもいいんだよ。
ふっと彼の体が掻き消え、目の前が真っ白になり、そして目が覚めた。
「――最悪だ」
汗だくだが、今が夏であることだけが理由ではない。
大きく息を吐いて、目を閉じた。何か、なんでもいいから、考えたい。柚葉のことを頭から追い出したかった。
意識的に瞼を持ち上げる。天井と床の境目で、秋一とのツーショットが目に入りそれに縋った。
秋一が岸本のことを好きだと気づいたのはいつのことだったか。
そしていつまでこの状態が続くんだろう。
今、岸本の部屋は高校学習参考書で足の踏み場もない。睡眠時間を極限まで削って体も心もぼろぼろ。
しかしどんなに疲れていても、勉強をやめるわけにはいかなかった。
――彼を再び失いたくはない。
彼を、どころか自分に関わった人間が姿を消すのを岸本は恐れていた。
――せめて抱いて寝てくれないか。
耳の奥で、彼の呻くような囁きが蘇る。
「秋一……」
自分で招いたこととはいえ、岸本は精神的に相当、追い詰められていた。
常に不機嫌そうに見える瞳。意図的に消された表情。
注意深く観察すれば、彼の瞳が悪戯っぽく輝くのに気がついたのはいつのことだったか。
突如、インターホンが鳴る。
「はい」
一人暮らしをするようになってからは、名乗らないのが基本になり、つくづく嫌な世の中になったと思いながら受話器の向こうの気配を探る。