図書委員の日常
「走るよ」
頷く気配を確認して教室への階段を駆け上がった。
図書室の蝶番に油を注してから数日が経った。
小説スペースで珍しく彼が本を読まずに座っていた。しかも、樋山を真っ直ぐに見つめている。
いつもなら気づかれず隣に座るが今日はどうしたものかと考え、結局定位置に落ち着く。こちらを見ているのに離れて座るのもおかしいだろう。
隣に座ってもなお、彼がじっと見つめているのであれほど彼からの視線を望んでいたものの居心地が悪い。
なぜ彼は本を読んでいないのか。いつもの幼稚な告白がばれたのだろうか。何を言おうか迷っているうちに樋山の口をついたのは当たり障りのない言葉だった。
「……珍しいね」
「ありがとう」
会話が噛みあわない。戸惑っていると彼が更に口を開く。
「油を注してくれたのはお前だろう」
「よくわかったね」
「昨日気づいた。いつもより開けやすかった。ありがとう」
「他の人かもよ」
多少意地悪な気持ちで告げても彼は動じなかった。むしろ呆れたような目をしていて、普段無表情な彼でもこんな表情をするのかと見惚れた。
「いや、お前だ」
「根拠は?」
きっぱりと言い切る彼に悟られないよう表情を押しこめる。でないと顔がにやけてとんでもないことになりそうだからだ。
彼は一瞬眉を吊り上げたが、目を伏せ答えてくれた。
「他の人間は来ないし、ここは掃除区域からも備品の点においては見捨てられている」
用は済んだとばかりに彼は本を取り出し読み始めてしまった。多少ご立腹のようだがそんなことはどうでもよくなって、樋山は膝に顔を埋めた。
礼を言うためだけに待っててくれた。にやけるのを抑えることができなくても誰も責めたりはしないだろう。
「緒方。好きだよ」
膝の隙間から呟く声はどうせ彼には聞こえていないけれど、それでもいい。いつものことじゃないか。返事はないけど、満たされていた。
彼は自分を認識してくれている。
今まで、同じ空間にいても会話すらしたことがなかったのだから、大きな一歩だ。
ほうっと息を吐くと予鈴が鳴った。
彼から本を取り上げて教室へ駆けながら思う。
あとどれくらい時を重ねれば、彼に名前を呼んでもらえるのだろう。
あの日以来、彼は本を読まずに待っていてくれるときがある。何を話すわけでもない。彼はじっと樋山の動きを見つめている。