うさぎは空を飛べない

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鬼囃子

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 麗夏にとって彼女は、まさに憧れの存在であった。
 優しく、誰にでも別け隔てなく接し、常に穏やかで暖かな笑みを浮かべている。同性から見てもそれは限りなく魅惑的で、魅了されるには充分であった。
 また、彼女は麗夏の憧れであると同時に、全学年――否、中学校全体の期待の星でもあった。彼女は陸上部に所属しているのだが、上級生を差し置いて短距離長距離ともに市内一番の記録を持っていた。簡単に言ってしまえば、誰よりも足が早かったわけだ。
 そんな彼女を麗夏は友人として誇らしく、また純粋な憧れと尊敬の念を抱きつつ、共に日々を過ごしていた。
 もちろん、彼女にいい感情を抱いていない人も存在していた。後輩のタイムを抜けないと嫉妬の念を禁じ得ない部活の先輩は必ずいたし、目立つ彼女を快く思わない同輩が悪口陰口を叩くなど日常茶飯事であった。彼女は毎日のようにそれらの悪意にさらされながら、笑顔を絶やさなかったのである。どこにいても、彼女はあらゆる意味でいろんな人に注目されていたというわけだ。
 そんな日々が壊されたのは、ある一つのイレギュラーが原因だった。
 事が起こったのはいつだったか。麗夏は出された課題が終わらずに、放課後残ってそれを完成させることを教師と約束をした。その旨を彼女に伝え、遅くなると悪いから、先に帰っていて欲しいと言えば、彼女は笑顔で首を振った。

「できることなら一緒に帰りたいな。待ってるからさ」

 そう言われても、なにもせずにぼんやり待っているのは暇であろうと心配すれば、グラウンドで走っているから問題ないと彼女ははっきりと口にした。なにを言われても彼女は麗夏を待つつもりらしい。

「分かった。じゃあ、課題終わったら迎えに行くよ。遅くなったらゴメンネ」
「そうしたら今度お菓子買ってもらうから問題ありませーん」

 彼女はくすくすと笑い、手を振ってグラウンドへと向かう。麗夏もそれを見送り教室でせっせと課題に取り組んだ。
 課題が終わる頃にはすでに外は真っ暗になっていた。最終下校間際だ。遅くなってしまったことに申し訳無さを感じつつ、早足で校舎を出てグラウンドに向かう。まだ待っていてくれているのだろうかと少し心配ではあったが、これだけ遅くなっているのであれば、先に帰ってしまっているかもしれない。
 確認のため麗夏はグラウンドに降りてみた。が、そこには人の姿などどこにもない。隅の方にはしっかりと彼女の荷物が置いてあるので、先に帰ったというわけではなさそうなのだが、ぐるっと周囲を見回してもそれらしい姿など見つからなかった。
 そのとき、体育倉庫の裏側から、なにか音が聞こえた気がした。グラウンドの奥にあるそれに向かって、麗夏は足を進めていく。彼女の名前を呼びながら、そこにいるのかと声をかけながら、体育倉庫まで歩を進めた。月明かりに照らされた倉庫は、別世界への入り口のようにも見えて、麗夏は不思議な気分になった。
 裏側を覗きこんだとき、麗夏は戦慄した。彼女が、人型のなにかに、たかられ、襲われていた。
 鋭い爪をもった人型が、彼女の足を裂いている。鋭い牙を持った人型が、彼女の足を噛み砕いている。周囲には血液が飛び散って赤黒く、鉄臭い。人型はみな一様に額に角があり、爛々と金の目を輝かせながら、一心不乱に彼女の足だけを狙って、執拗に傷つけていく。彼女はやめてやめてと泣きながら必死に抵抗している。――わけではなかった。
 確かに瞳からは涙を流し、裂かれ噛み砕かれるたび悲痛な悲鳴を上げているものの、彼女は確かに笑っていたのだ。至極愉快そうに満足そうに頬をあげ、抗うこともせずにその人型らに足を投げ出している。まるで、どうぞもっとやってくださいとでも言いたげに、無防備に四肢を晒して、愉悦を含んだ笑みを浮かべて、笑っていた。
 麗夏はただ恐ろしく、その場で震え上がることしかできなかった。人を呼ばなければとか、人型を追い払わなきゃとか、頭の中では確かにそれらの命令が自分の体にくだされているのだが、麗夏の体は全くいうことを聞いてくれなかった。それどころか、体から力は抜けていき、その場でへたり込み座り込んでしまう始末。
 人型が勢いよく彼女の足をえぐりとった。肉が飛ぶ。血が、麗夏の方に飛んできた。頬に付着したものは、まだ彼女の体温を宿していた。
 たえきれなかった。ついに麗夏の口から絶叫が溢れでた。這うように後ずさって逃げ出そうとするも、体が思うように動いてくれない。ざりざりと周辺の砂を蹴散らすだけだ。彼女は悲鳴混じりの笑い声を上げ、至極楽しそうである。麗夏はもう、なにも見たくなかった。

「おうおう、おうおう。随分派手にやってるねえ。こりゃ狩り甲斐がありそうだ」

 突然麗夏の背後から聞こえてきた声は弾んでいて、明るい雰囲気を持っていた。
 振り返るとそこには、見知らぬ男性が立っていた。ぼさーっと無造作に伸ばされた髪は縦横無尽に暴れており、伸びきった前髪のお陰で目は全く見えない。猫背で丸まった背中と、よれた服に泥に汚れたジーンズ。へらへらとした笑いを口元にたたえており、はっきり言えばその風貌は不審者以外の何者でもなかった。
 しかし、今の麗夏にとっては別だ。誰か、自分以外の人がここにいる。もしかしたら助けてくれるかもしれない。すがるような思いで見上げれば、男性はにやっと口角を上げて麗夏のことを乱暴に撫でる。

「お嬢ちゃんも泣いてないで楽しもうや」

 男性はどこからか工具のレンチを出して両手に持ち、彼女に群がる人型に走りよった。高々と笑い声をあげ、嬉しそうに叫びながら、男性はレンチを振り回す。
 爪が鋭い人型に対して、腕に何度も工具を振り下ろしてみたり。
 牙が鋭い人型に対して、顔が分からなくなるくらい思い切り殴りつけてみたり。
 抵抗する人型に対して、容赦なく蹴りつけ踏みつけてみたり。
 まるで鬼のような人だった。鬼神と表現したほうがいいのかもしれない。狂気と歓喜を顔に宿し、男性は人型を打ち倒していく。
 その場を充たすのは彼女の血液の香りと、人型が発する苦しげな悲鳴、男性の凶行、麗夏の涙に友人の笑顔。なんとも混沌としている。
 打ち倒された人型は黒いインクをあたりに散らし、黒の粒子となって空に昇り消える。最終的には金眼に角を生やした人型は全て姿を消し、恍惚とした表情を浮かべレンチをもてあそぶ男性と、地面に転がりくすくすと笑い続ける彼女。未だ力が入らずに座り込んでいる麗夏の三人だけとなった。あたりに静寂が満ちる。月が妖しく笑っていた。

「お嬢ちゃんや」

 不意に男性が麗夏に声をかけてきた。大げさなほどに自身の肩が跳ねるのが分かった。

「病院にはもう連絡を入れた。あと……そうだな」

 自分の右手を上げて、男性は腕時計を確認する。

「あと五分もすりゃ、救急車がくんだろ。それまで、その子のこと、よく見とくんだぞ」

 細かく何度も頷く。もう麗夏の瞳から涙の一片も浮かんでこない。男性は麗夏の前までやってきたかと思うと、視線を合わせるようにしゃがみこんだ。やはりぼさぼさの髪に隠されて、直接目を見ることはかなわなかった。

「さっきなにが友達を襲ったのか知りたきゃ、ここに連絡しろ。んで、俺の名前を出せ。あんたにその気があるってんなら、教えてやっから」
「あなたの、名前は……?」
「無方だ。無方輝允。偉い人だから。よろー」

 軽い雰囲気とともに、さらっと手をふられる。感覚が麻痺しきっていたのだろう、麗夏も釣られるように軽く手を振り返した。それを確認すると無方は満足そうに頷いて、立ち上がる。彼の向こう側では、未だぐったりと彼女が横たわっていた。
 無方は用は終わったとでも言いたげに、さっさと立ち去っていく。と、なにか思い出したのか振り返り、麗夏の方を見て。

「嬢ちゃん、教職員に俺のこと不審者とかで報告すんなよ。面倒だから」

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