鬼囃子
(4)
ボクは、世界一の幸せ者だ。
とても素敵な出会いに恵まれた幸福者。
祖母が家からいなくなって、ボクの世界は一気に狭まった。
三人でいたときはあちこち出かけ、様々なものを見ていた。
目に映るもの全部が新鮮で、とにかく毎日楽しく仕方なかった。
けれど、祖母がいなくなってしまってから、ボクの世界は「父」ただ一人になった。
今までの無理が出てきたように、父はどんどん、ぼんやりしていった。
あの人に嫌われたら全て終わりだ。
ボクなんか簡単に死んでしまう。
心も体も、なにもかも死んでしまう。
捨てられたくない。
母さんはボクを捨てた。
おばあちゃんもボクを捨てた。
父にまで捨てられたくない。
嫌われたくない。
ボクはただただあの人に気に入ってほしくて、出来る限りのことをした。
運動、勉強、友達作り、お手伝い。
でも、なにをやってもうまくいく気がしなかった。
父さんはおばあちゃんがいなくなった日から、椅子に座ってぼーっとしていることが多くなった。
もともと、お父さんが一人のときは、写真に写ったお母さんを眺めて微笑んでいたし、おばあちゃんに声をかけられるまでずーっと、いつまでもそうしていられたんだと思う。
だから、あの人の世界にボクがいるのかどうか、とても不安で仕方なかった。
あの人の中には母しかいない。
そう言われたらきっと、納得していたんだと思う。
だから、いつ捨てられるか分からない恐怖が、絶えずボクを締め付けた。
誰からも名前を呼ばれなくなって、父さんは機械的にボクの世話をする。
見ていたくなかった。
そんなにボクのことがどうでもいいなら、いっそ嫌いだと言ってくれればいいのに。
なにも言ってくれないから、ボクは勝手に期待して、勝手に失望して、勝手に求めてしまうんだ。
そんなの父さんだって分かっているはずなのに、それでも父さんはなにも言ってくれなかった。
父さんに気に入られないと死んでしまうって、ずっとずっと信じていた。
間違っていないと思う。
だけど、正解しているとも思えなかった。
曖昧で気持ち悪い感情がくすぶって、ボクはずっと不安定だった。
揺れる気持ちの答えを誰も教えてくれなくて、不安で不安で、怖くて仕方なかった。
もしかしたらこのときから、ボクは変わり始めていたのかもしれない。
だから、キミ兄ちゃんと出会えて、ボクは本当に幸せ者だなって思うんだ。
ボク自身を見てくれた人。
ボクのために怒ってくれた人。
ボクのために悲しんでくれた人。
ボクのことを抱きしめてくれた人。
ボクと遊んでくれた人。
ボクを世界に入れてくれた人。
ボクを「ボク」に戻してくれた人。
いっぱいいっぱい感謝しても、まだまだ足りない。
ボクはあの人のためにいるんじゃないって気づかせてくれた。
大切な人だ。
ボクの狭い世界を、広げてくれようとしてくれた人だ。
ボクはボクのためにあるんだって、キミ兄ちゃんは言ってくれた、言い切ってくれた。
だから、ほんの少しだけすっきりしたの。
なんだか心の中にあった余計なものが、落ちていったみたいに軽くなった。
「ボク」を父さんだけでいっぱいにしちゃうのは、もったいないことだったんだと思う。
だって同じクラスの大輝くんは絵を描くのが上手で、隣の席の菜々ちゃんはピアノを弾くのが上手。
沙羅ちゃんはお話上手だし、空太くんは聞き上手。
みんなおんなじなのに、こんなに違う。
みんな見ているものが違うなら、なにを見ているか知りたくなるじゃない。ボクはたくさんのことを見てみたいんだ。
「ボク」を父さんのためだけに使うのは、もったいないってちゃんと知ったから。
きっと今のボクに魅力が少ないから、あの人は見てくれないのかもしれない。
たくさんの人と話して、知って、見て、触れて。それでボクは「ボク」をつくっていきたい。
この世界を、ボクはめいっぱい楽しんでくるよ。
たくさんの人と話して、たくさんの景色を見て、いっぱいいろんなこと勉強する。
それで、キミ兄ちゃんにも教えてあげるんだ。
ボクが見てきたこと感じてきたことを、ボクの言葉で教えてあげる。
上手に話せないかもしれないけれど、キミ兄ちゃんならきっと、最後まで聞いてくれるから大丈夫だよね。
相変わらず、お気楽なやつ。
懐かしい、もう一人のボクの声。
そうやって別の人のところに逃げるんだ。弱虫。
うん、弱虫だよ。でも逃げるんじゃなくって、選んだの。
ただ言い方変えただけのくせに。
そうかもしれない。だけど、ボクは父さんに見てもらうことを諦めたわけじゃないんだよ。ボクはボクを、もっと素敵なものにするって決めたの。
そうやって逃げている間に、忘れられるのがオチなんじゃないの、それ。
そのときは、最初から覚えてもらえばいいんだ。何度だって繰り返してやる。ボクの名前を呼んでくれるまで。
――好きにしなよ、物好き。
それきり声は止んだ。
きっともう、ボクはもう一人のボクの声を聞くことはなくなるはずだ。
こうやってボクが変われたのは、キミ兄ちゃんのおかげだよ。
ボクは必ずヒーローになるから。
だから待っていてください。
ボクの大好きなヒーロー。
[mokuji]
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