うさぎは空を飛べない

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鬼囃子

12


 いつもの公園。住宅街にある、小さな公園にやってきた。
 今日もここには誰もおらず、貸切状態だ。
 遠くから犬の鳴き声が聞こえてくる。
 公園の真ん中で突っ立ったまま、俺はどうしようかと思いあぐねていた。
 英は未だ、壊れたおもちゃのように涙を流し続けている。頬には跡がはっきりと残っていて、見ているこちらが悲しくなるほどだ。
 どうしたものか。
 手を握り直す。このままでは話もろくに聞けないだろう。
 キミ兄ちゃん。
 微かに、だがはっきりと聞こえた呼びかけに、短く返事をした。
 それから英と視線を合わせるためにしゃがむ。
 彼の顔が、真正面に見える。水に濡れたガラス球のような瞳。
 なにも映さず反射もせずに、ただ光っているだけの目だった。
 太陽の力強さは、鳴りを潜めている。

「ボク、ここにいる? ちゃんと見えてる?」

 頷き、彼の頭をゆっくり撫でる。
 細い髪が、指に絡みついた。

「誰の世界にもいないのかと思った。キミ兄ちゃんには見えてるんだね」

 もう一度、頷く。
 ずっと泣いていたため疲れたのか、声に抑揚はなく平坦だ。
 それに、未だに英の目に光は宿らない。虚ろで空っぽ、ガラス球のまま。
 そっかそっかと何度か繰り返したのち、英の口が開かれた。

「ここにいるんだよね、見えてるんだよね」
「ああ、見えてるよ」

 頷き返しても安心できないのか、納得できないのか。彼は何度も聞いてくる。
 ボクここにいる? ちゃんと見えている? 触れられるよね。存在しているんだよね。
 ラジオの音飛びのように何度も何度も繰り返される同じ言葉。
 だんだんと不安になってくる。何故ここまで必死になって確認しているのだろうか。もしやまた、なにかあったのかもしれない。
 俺が推測していた通りいじめがあって、それがひどくなったのかもしれない。
 嫌な考えばかりが渦巻いて仕方がない。

「大丈夫だよ。ちゃんと見えているし、触れられるから」

 頭を撫でて手を握り、目線をしっかり合わせても俺の言葉は届かないらしい。
 繰り返し同じ言葉を吐くだけの英に、こちらが苦しくなってくる。
 音が喉に詰まってしまいそうだ。泣きながら訴え続ける彼に、俺はどうしてやればいいのか分からない。
 足音が、耳に入ってきた。
 珍しい。ここで生活音や英の声以外の音を聞くのは初めてだ。
 英の頭をなでたまま、公園の入口の方を向く。
 俺と同じ、学校の制服に身を包んだ男子だ。着崩されている服とふわふわ柔らかそうな金髪がすぐ目に入る。
 悠だ。悠が通りすぎようとしている。
 恐らくこの近くに家があるのだろう。あるいはこの先にある駅に向かうのかもしれない。
 きっと彼ならば、悠ならば俺よりもうまい言葉を英にかけてやれるかもしれない。口がうまいし、なにより彼の笑顔は暖かい。英だって、そんな悠を気に入るはずだ。

「悠!」

 公園の入口あたりで彼の足が止まった。それからゆっくりと悠の顔がこちらに向く。
 貼り付けられた、仮面のような表情が見えた。一瞬にして背筋が凍る。
 かと思ったら見慣れたいつもの、太陽の笑顔が光った。先ほどの仮面は気のせいだったのかと思うほどに、眩しい笑顔だった。
 彼の足はすぐに俺の方へと向けられる。

「君尋じゃないか。どうしたんだよ、こんなところに一人で」

 空気が固まった。息をするのも忘れそうになるほど、体がこわばり動けなくなる。
 それと同時に英の頭を撫でていた手が落ち、握っていた手を強く強く、握り直す。
 細く小さい手を握りつぶしてしまいそうになっても、力を緩めることができなかった。
 嘘だ、なにを言っているんだ、俺は一人じゃない、見えるだろう、ここに英がいるんだ、分かってるんだよな、質の悪い冗談だよな、やめてくれよ、俺は一人じゃない、なんでそんなことを言うんだ、英の気持ちも考えろ、見えないなんて言われてどんな思いだと――。
 頭の中を想いの欠片が浮かんでは沈み、沈んではまた浮かんでの繰り返し。
 なに一つ声には出せず、喉を締めあげられたようだ。苦しくて、辛い。
 俺の様子に全く気がついていないのか、あるいは気にしていないのか、悠は俺の隣にやってきた。
 それから俺と同じようにしゃがみ込む。英の手を握っている俺の手を見つめ、不思議そうに首を傾げながら「なに握ってるんだ?」と問うてくる。
 手を伸ばされ、彼の指が俺の拳に触れた。
 そのとき、悠の腕は英の細い腕を貫通した。
 文字通り、貫通したのだ。
 英の白い白い腕を突き抜けて、悠の腕が交わっている。英の白さがより際立つようだ。
 声も出ず、ただただそれを見つめるばかりで、なにもできない。
 悠が俺の拳を開いた。
 英の手が俺の手の中から抜け落ち、滑り落ちる。
 ぬくもりが消えた。
 交わっていた二人の腕はとかれ、英の腕は力なく垂れ下がる。

「なんだ、なにもないのか。面白いものでもあるのかと思って、期待したんだけどなぁ」

 返事をするどころではない。なにが起こったのか分からず、頭がついていかない。
 俺の様子にやっと気がついたのか、悠の声が止まった。こちらに視線がなげられる。

「どうした、なにかあったのか?」
「どうしたって……。分からなかったのか? 腕が」
「腕? 腕がどうした?」

 悠は自分の腕を見つめながらつぶやいた。
 その言葉を聞き、俺は理解した。理解してしまった。
 悠には英が見えていない。感じることすらできないようだった。
 でも何故、見えないのだろう。ここにいるのに、俺の目の前に英はいるのに。何故悠は触ることも声を聞くことも、見ることすらかなわないのか。
 小さく、英がなにかをつぶやいた。
 ものすごい小声で、よく聞き取れない。

「英、なんて言った?」
「君尋……? どうしたんだよ」

 悠の反応を気にしないように、意識の外に締め出す。
 彼の反応を見ていたら、泣きそうになるほど辛いから。
 もう一度、もう一度英の手を握って話を聞こう。人に助けを求めた俺が間違っていたんだ。
 手を伸ばして、止まる。 
 英と目があったため、動けなくなる。
 その目に涙は浮かんでいなかった。
 なにもなかった。ガラスにすら、なっていない。

「やっぱりボクは、透明、なんだね」

 空っぽの言葉、感情も熱もなにもかもが削ぎ落ちた、小さなつぶやき。
 背筋がひやっと冷える。
 ぴき。卵の殻にひびが入ったときのような擬音が、耳に届く。
 ぴき、ぴきぴき。聞こえてくるのは英の額から。彼の額から小さな白い、象牙のような角が少しずつ顔を出してくる。
 ぴき、ぴしぴき。鬼の角だ。咄嗟に浮かんだ言葉に恐怖を覚え、足に力が入らなくなる。
 そのままバランスを崩し、俺は地面にへたり込んだ。
 悠が驚いたように背中に手を当てて支えてくれたが、それでも尻は地面についた。手のひらに細石が食い込む。

「おい、本当にどうしたんだよ。最近おかしいぞ」

 悠の声は俺の耳を通り過ぎて行く
 今もまだ、英の角はめきめきと音を立てて伸び続けている。
 なんだか、周りの風景も色も音も、全てがぼやけて霞んでいくようだ。
 こぶし大の大きさになったところで、角の成長は止まった。

「君尋ってば。返事ぐら」

 ぷつりと途切れた悠の声。物がぶつかり合う激しい音。金属が、なにかにぶつかる甲高い音と、低く短いうめき声。
 ゆっくりと首を回してみれば、隣にいたはずの悠の姿は消えていた。
 流れのまま振り返れば、鉄製のゴミ箱と一緒に倒れている悠の姿が目に入る。
 ゴミの中に埋もれている金の髪。気を失っているのか、全く動く様子がない。ぐったりと、彼は地面に伸びている。
 視線を前に戻せば、ゆらりと立っている少年の姿が目に入る。
 その手の中には、俺のネクタイと同じ刺繍が施された布が握られていた。悠のネクタイの切れ端だろうか。
 すぐに誰が悠を傷つけたのか、突き飛ばしたのか、理解した。
 だけど、信じたくない。そうなんだって思いたくなかった。ありえるわけない。
 だって英はとても優しくて無邪気で、辛いことも一人で抱え込んでしまうようなやつだ。
 そんなやつが悠を突き飛ばしたなんて、考えられなかった。
 ――考えたくなかった。誰かに嘘だと言って欲しかった。

「英……?」

 返事はない。ただ、ふらりと立っているだけ。

「俺の声、聞こえているよな」

 うう。
 短く唸るだけで、英は言葉を返してくれない。
 なあ、どうしちゃったんだよ。一体なにがあったんだ。その角は一体なんなんだ。なんで悠を突き飛ばした。どうして俺にはなにもしないんだ。どうして、なんで、どうして、どうして――……。

「だから気をつけてって言ったのに!」

 後ろから飛んでくる、絞りだすような叫び声。
 ここ最近俺につきまとい、いやというほど聞いた声だ。
 振り向けばそこには、東藤がいた。彼女は公園の入口に立ち、英を睨みつける。結われた髪が大きくはね、揺れる。

「嫌な予感がしたから来てみれば……」

 隣に転がっている悠を、瞳だけでちらりと見やった。

「小暮くんを傷つけたのは、それだね」

 それ、という言葉に寒気が走る。
 いつだか現れた男性の鬼のことも、そのように呼んでいたことを思い出した。
 いつの間にか東藤の手には、見慣れた銀の短剣が握られていた。その切っ先は、英に向けられている。狙いを定めるように、標準を決めるように切っ先が向けられている。
 そこに迷いやためらいなどはない。全く揺るがない「なにか」だけがあった。

「石槻くん、これで分かったでしょ。鬼は大切な人を傷つける。肩入れも同情も、必要ない!」

 踏み込み、間合いを詰めて東藤は一気に英の元へと走りだす。二歩で俺の横を通り過ぎる。
 そのとき、彼女の表情が見えた。
 一言で表すなら「歓喜」。
 体が震え上がる。大きなムカデが背中を駆けずり回った。
 わずか五歩で英の前まで辿り着いた東藤は、勢いよく短剣を振り下ろした。
 右足を引き、半身を動かして英は避ける。
 彼を追いかけるように短剣が薙ぐ。
 英は後ろに一歩動き避けた。
 まさに紙一重の回避。見ている俺の方が生きた心地がしない。
 いらついたような舌打ちが、東藤から漏れた。
 今度は英の心臓めがけて突きを繰り出す。
 彼は左足を弾いて半身を動かし、避けた。
 英の目の前を通り過ぎて行く東藤の腕。
 それが次の行動に移る前に、英は彼女の手を取る。
 東藤の表情が曇る。
 彼女の手が開かれ、短剣が落ちる。小さく、砂が舞い上がった。
 英の手をとこうと彼女はもがくが、ぴくりとも英の指は動かない。
 ゆっくりと片足を上げ、東藤の腹を蹴り飛ばす英。
 重い重い、肉を打つ音。
 バランスを崩したのか、うめき声とともに、東藤は仰向けに倒れてしまった。
 起き上がろうとする彼女の胸の上に、英が片足を乗せて踏みつける。
 足をどかそうと東藤は暴れるが、英の力が強いのか体重が重いのか、全く逃げ出せない。
 丁度倒れた近くに、彼女の短剣が落ちている。
 それに気づいた東藤は腕を伸ばし、柄を掴もうと必死だ。
 が、無常にも英が短剣を蹴り、遠くに飛ばした。
 彼女の手がぎりぎり届かないところに短剣がいってしまう。
 悔しそうに眉を寄せ、歪んだ表情で東藤は英を睨みつける。

「ねえ、お姉さん」

 ぎちり。東藤に乗せた足に力を込めながら、英がつぶやく。

「ボクのこと、見えてる……?」
「見えてるよ、ガキが」
「ガキかぁ。いいね、今のボクにぴったりだ。餓えた鬼。ね、ボクにぴったり」

 未だに片方の手は英に握られ、胸は英の足によって押しつぶされたまま。見ていて苦しそうだった。
 二人とも、表情が歪んでいる。
 あともう少しで届きそうな剣に向かって、東藤の手は必死に伸ばされている。
 英は自分の体重を使って東藤を押しつぶしていく。
 空気が抜ける音が、息が漏れだす音が聞こえた気がした。
 俺は、一連の出来事をただ地面にへたり込んで見ていた。なにもできず、なにも言えないまま、俺はただ、見つめていた。
 確かに英は鬼だったようだ。東藤が言っていた通り、足が速くて人一人を押し飛ばせるほど力が強い、少年の鬼だった。
 それでも、信じたくないと思ってしまうのは、普通のことだろう?
 彼は大切な大切な、俺の友人だ。信じたくない、否定したいこの気持ちは当たり前のはずだ。
 会って言葉を交わしたのは両手の指で足りるほど。
 だけど、彼がいかに優しくて純粋で繊細なのか、いやってほど知っている。
 そんなに優しい彼が鬼だと思いたくなかった。
 鬼は負の感情の集まりが具現化したもので、相手を傷つけてしまう存在で……。
 そんな、東藤が話すような鬼の姿を、彼に当てはめたくなかった。
 誰か、嘘だと言ってくれまいか。目の前の光景を夢だと笑い飛ばしてくれないか。

「お姉さん、今どんな気分? ボクのことでいっぱいになってる?」
「ええ、そうね。憎くて憎くてたまらないよ」
「本当? うれしいな。あの人も、ボクでいっぱいになってくれると思う?」
「そんなの、知らない……っ!」

 喘ぎながら、息を切らせながら、それでも東藤は言葉を返す。
 それじゃあ、困るんだよ。
 間の抜けた英の声。白い角がきらりと光る。

「確実に覚えて、いっぱいになってくれなきゃ、だめなんだよ。死ぬときまでいーっぱいになってくれなきゃ」
「私がアンタを殺すんだから、関係……ない!」

 ついに東藤の手が、短剣を掴んだ。
 そのまま勢いに任せて振り上げる。切っ先は丁度英の首の下を通った。
 短く声を上げ、ぱっと彼女から離れた英。
 東藤は素早く起き上がると、まだ体勢が崩れている英の足を狙って短剣を突いた。
 少年の右足に、短剣が貫通する。飛び散る黒。呆けた表情の英。
 地面の色が、変わった。
 東藤が短剣を引き抜く。またあふれる黒。
 反動で英は数歩ふらつき、動きが止まる。
 東藤が握っていた短剣の刃は、真っ黒に染め上げられていた。
 怪我をしたのが信じられないのか、英は呆然と自分の足を見つめる。
 その隙を逃してくれる東藤ではなかった。体勢を立て直し、喉を狙って突きを繰り出す。
 が、足の怪我で英がふらついたため、狙いがずれ、少年の首の左側がわずかに切れるだけとなった。
 刃と一緒に、黒が数滴飛ぶ。
 舌打ちする東藤。
 英の口が、ゆっくり開かれる。

「これが、お姉さんの愛し方?」
「ふざけないで。鬼など愛すわけがないっ」
「じゃあ、嫌いでいてくれるんだ。ボクの場所が、心の中にあるんだね」

 嬉しそうに、幸せそうに、だけども今にも泣いてしまいそうな笑顔を浮かべ、英は愛おしそうに東藤を見つめる。
 片足を引きずりながら、それでも英は笑い続ける。
 一瞬、東藤の視線が下げられる。
 が、それは本当に一瞬のこと。短剣を握り直すと、今度は腹部を狙って腕を突き出した。
 先ほどのように英は避けるのだと思っていた。ぎりぎりの、心臓に悪い回避をするんだと思っていた。
 そうであってほしいと、思っていたのに。
 英は両手を広げ微笑んだ。まるで幼子を迎え入れる親のような暖かい笑み。
 走り寄って来る子どもを受け止めるように、大きく手を広げ、その中に東藤を受け入れた。
 そして飛び込んできた彼女を、愛おしそうに抱きしめる。背中に腕を回し、優しく、包み込むように抱きしめたのだ。
 東藤の目が見開かれ、勢いよく英から離れた。
 彼女の制服には、べったりとした黒が染みついていた。
 少年の顔には未だに微笑みが浮かんでいる。

「殺されるって、こんなに幸福なことだったんだね。

 ふざけるな。
 怒気を含んだ東藤の声が、空気を震わせる。
 東藤が黒にまみれた短剣を振り上げると、その先からぴっと液が飛んだ。
 視界の隅にあった街路樹から、青々とした若葉が落ちていくのが見える。
 その様子が全て、一コマ一コマ、映画のワンシーンのように感じられた。全ての色が鮮やかになり、なにもかもが、見えている気がした。
 英が殺される。友人が殺される。
 小さくてよく笑い、よく泣く英が殺される。
 儚く砕け散りそうな、太陽や華のように命あふれる英が殺される。
 守りたいと思った。一緒に、いつまでもいたいと思った。この関係に終わりが来るなんて考えたこともなかった。
 今度、英に会うときがあったら悠を紹介しようと思っていた。二人ともよく笑うし、きっと気が合うだろうと思ったから。
 この間鬼ごっこをしたとき、俺は一度も英を捕まえられなかった。逃げまわり走り回る英を、今度こそ絶対捕まえるのだと約束した。
 その約束を、まだ果たしていない。
 守ってもらわなければ困る!
 体を縛り上げていた糸が、断ち切れた。
 地面を思い切り蹴りあげて、走りだす。東藤と英の間に体を滑り込ませて、自分の体を少年の盾に。
 喉仏の下辺りに、なにか、細く鋭利なものが当たった。
 ひやりとした感覚。生暖かい液が首を伝う。汗か、あるいは――。
 落ちた青い木の葉が、かさりと地面にたどりつく。

「なに、やってるの」
「見て分かりませんか」

 聞き返せば、彼女の瞳が揺れた。
 戸惑い、怒り、悲しみ、憎悪……。様々な感情が浮かんでは消え、消えては出てくる。
 それを幾度か繰り返したのち、東藤の目は鏡になった。

「鬼をかばっているように見えるけど」
「はずれ。友人をかばっているんです」

 後ろから、息を呑む音が聞こえた。
 東藤の鏡が、きらりと光る。

「ねえ、石槻くん。分かってるの? やろうと思えば、私は今、君を殺せるんだよ」
「英を見捨てるぐらいなら、よっぽどいい」
「――頭、大丈夫?」
「ええ、もちろん」
「鬼だよ、それ」
「英は俺の友人です」

 少しだけ、短剣の切っ先が食い込んできた。
 喉にぴりっとした痛みと熱が走る。
 だが、引く気は全くなかった。
 英を守りたい、後悔なんかしたくない。
 しばらく、東藤とのにらみ合いが続いた。
 相手の腹を探ろうと一瞬たりとも視線を外せない。
 感情を遮断した彼女の瞳から、考えを読むことはできず、時間だけが過ぎていく。
 何時間にも感じられた数秒後、彼女はため息とともに短剣をおろした。その手は力なく垂れ下がっている。
 俺は思い切り息を吐きだした。気づかぬうちに、呼吸を詰めていたようだ。

「分かった。初めて私に抵抗した記念ってことにしてあげる。君の好きなようにしな。ただし、それが石槻くんになにかしたときは――」

 短剣を握り直した彼女。刃が、陽を受けて光った。

「斬る」

 頷く。
 それを確認した東藤はこちらを睨んだまま、一歩、二歩……倒れている悠の隣まで下がった。
 それを確認して、俺は英の方を向く。
 英の傷口から流れていた黒が、止まっている。足、腹部、首。怪我はもう、ふさがっていた。
 怯えたように、英の視線はあちこちさまよっている。
 恐らく、俺がなにかすると思っているのだろう。 
 もう額に角はない。俺と変わらない、平らなものになっていた。
 右手をあげ、少年の頭に手を伸ばす。
 ぎゅっと、英がきつく目をつぶった。
 触り心地のよくない髪をすくうように、ゆっくり撫でる。
 英は、俺や他の人と変わらず。温かい温度を宿していた。
 細かく肩を震わせて、少年は身を固くする。
 少し、寂しい。
 左手を、制服のポケットにつっこみ、あるものを探す。目的のものが指先に当たった。
 それを握り、英の手の中に潜ませる。
 英は、恐る恐る目を開き、なにを渡されたのか確認しだした。
 少年の手の中にあったのは、紫色の包み紙に入ったアメだった。色からするとぶどうの味だろう。
 英がきょとんとした目をこちらに向けて、疑問符を飛ばしてくる。

「ぶどう、苦手か?」
「ううん、大好き」

 ありがとうと言ってから、おずおずと包みを破り、アメを口に放り込む。それから英は、ひきつって不自然な笑みを見せてくれた。精一杯、笑おうとしているのだろう。
 今の状況はまさに、英と初めて会ったときと同じだった。
 泣きそうに怯える英の姿だったり、接し方を探してしまう俺の心境だったり、類似するものが多い。
 違うのは後ろに悠と東藤がいること、ただそれだけだ。
 ああ、まだ変わったことがあった。
 あのときは互いに初めましてでぎこちなかったけれど、今はもう、彼は俺の大事な友人になっている。
 英の手を取り、目線を合わせる。不安そうな目とかち合った。ちゃんと、視線がかみあった。
 ガラス球の目じゃない、英自身の強さを映した目に戻っていたことが、とても嬉しかった。
 ブランコの方に歩を進めると、少年は不安そうにしながらついてくる。

「少し、一緒に遊ばないか」
「え、でも……」

 振り返り、英は東藤の様子をうかがっている。
 彼女は近くにあった木製のベンチに悠を寝かせ、介抱していた。悠の頭を己の腿に乗せ、湿らせたハンドタオルを額に当てている。
 英の視線に気づいたのか、ふっと、東藤が顔を上げた。
 悠に向けていた優しく和んでいた目が、一気に刃物のように鋭くなる。
 びくりと、英の肩が跳ね上がった。

「先輩のことは気にしなくていいよ。で、どうする?」
「――遊ぶ。遊びたい」

 数度、彼の頭をなでた。
 わずかにだが、少年の体に緊張が走ったのが分かった。
 ブランコに腰掛けると、隣に英が座る。
 ゆるく、ブランコを漕ぐ。英も小さく地面をけった。世界が揺れる、揺れる。

「風が気持ちいいな」
「うん、気持ちいいね」

 まだ、声は暗い。東藤の視線を気にしているようだ。
 彼女の方に目線を投げる。まだ東藤の手の中には鈍く輝く刀身があった。
 あんなもの見せられていては楽しめなくて当たり前か。
 俺が少し、のんきなのかもしれない。

「キミ兄ちゃん」
「ん、どうした?」

 呼ばれ、意識が戻ってくる。ブランコを止め、英の方に顔を向けた。
 英のブランコはすでに動きを止めている。

「どうして、ボクにかまうの」

 意味が、分からなかった。
 もう一度聞き返す。恐らく聞き間違えだろう。そう思ったが故にだ。
 だけど、何度聞き返しても同じことを繰り返し言われた。
 どうしてボクにかまうの。その言葉を繰り返し、何度も。

「どうしてって、どうして」
「だって、ボクに価値なんてないのに」
「価値?」

 頷く英。
 その表情は、真剣そのものだった。本気で自分には価値がないと思っているのだろう。
 俺は、英の口からそんな言葉が出てきたことに驚いていた。
 人に価値なんてあるわけがない。価値など、付けられるわけがないというのに。

「ボクに価値なんてないんだよ。だって、父さん、一度もぼくを見てくれたことないもん。多分ね、きっとね、価値なんかないの」
「見てくれない? ただの一度もか」
「うん。名前もね、呼んでもらったこと、ないんだ」
 言葉を紡げない。適当な言葉が、見つからない。
「母さんは、いないのか」
「生まれてすぐにね、離婚したんだって。ばあちゃんが言ってた」
「そのばあちゃんは、今どうした」
「死んだ。ボクがもっと小さいときに」

 これはもしや、育児放棄と言われるものではないだろうか。
 身体が細い理由も、服がよれよれなのも、時々出てくる自信がない言動も、全て、英の父のせいなのか。
 少年の育ってきた環境を想像して、言い表せない恐怖と寒気を覚えた。
 俺の、俺の拙い言葉でなにか、伝えられるだろうか。英を、元気づけることはできるのだろうか。言葉を間違わないようにしなければ。
 英と視線を合わせ、ゆるく微笑んでみせる。

「確かに、今の話を聞く限りじゃあ、英の父さんの中にお前はいないように聞こえる。見えないやつの姿を知らないのは当たり前だし、知らない奴の名前を呼べないのも当然だと思う」

 英の手がブランコの鎖を握りしめた。白い腕が細かく震えている。力を入れているせいだろう。
 俺の言葉は確実に、英を傷つけているようだ。
 きつい言葉をかけていることに自覚はある。
 だから、途中でやめてはだめだ。
 力を込め、唇を噛み締めた。ほのかに、鉄の味が口の中に広がる。

「でも、それがなんだって言うんだ?」

 大きなガラス球の目が、こちらを見てきた。
 意味が分からないと言いたげに、まんまるの瞳を俺に見せている。

「それは英の父さんの価値観。世にいる全員の人が同じ基準で周りを見ているわけじゃない。だろう?」

 言葉を区切り、英の様子をうかがう。
 表情はなく、ただ真っ直ぐ俺のことを見つめていた。鏡のような目は、俺の顔を映すが英の感情を映してはくれない。
 どうするか迷った挙句、俺は話を続けることにした。

「例えば、そこの先輩」

 東藤のことを指させば、英は素直にそちらを向いた。
 彼女の鋭い視線が突き刺さる。
 俺も軽く怯んでしまうのだから、少年はきっと俺以上に怯えているだろう。

「彼女にとって英は倒さなくちゃいけない敵で、いちゃいけない存在になっているらしい。じゃあ、俺は? 俺も先輩みたいに英を倒さなくちゃいけないと思っているように感じるか?」

 ふるふると、英は首を振った。髪が揺れ動く。

「つまりそういうことだよ」
「分かんないよ、そんなの」

 英の返答に驚き、言葉が返せなかった。
 うつむき、自分のつま先をじっとにらみ始めた英は、今にも泣き出してしまいそうに見えた。
 どうしよう、説明苦手なんだけれど。どれだけ砕けばいいのだろう。これ以上簡単にできるだろうか。
 そうやって悩みながら次の言葉を探しているときだった。小さい声が聞こえた。

「分かんないよ。今まで周りのことなんか、気にしたことなかったもん」

 どこからか学校のチャイムが聞こえてきた。近くに学校があるようだ。

「だって必要なかったんだもん。周りがボクのことをどう思っていようが関係なくて、ボクがなにをしようが関係ないって思ってた。だから周りからどう思われているかなんて考えたことないよ。ボクがいることすら怪しくて、誰かの中にいるのかすら怪しくて、だから、だから……」

 言葉につまり、声は消え入りそうになる。なにを言うべきか分からず、少々混乱しているようだ。
 強く地を蹴って、俺はブランコを漕ぎだした。世界が揺れる、揺れる。ぱっと、勢いよく英の顔が上がった。突然動いた俺に驚いたのかもしれない。

「もうさ、言いたいこと全部言っちゃえよ。どんなことも聞くし、受け止めるから」

 ブランコを漕ぎながら、東藤たちの方に視線を投げた。
 先ほどと体勢に変わりはない。
 悠はベンチに転がっている。足は乗り切らなかったのだろう。ベンチからはみ出て地面に投げ出されていた。
 東藤は悠を膝枕している。彼女の制服にべっとりとついた黒が、いやに目についた。短剣を握り、眼光で人を殺しそうなほどに英を睨んでいる。
 同じように、英にも視線を投げた。
 英はまたうつむき、地面を見つめていた。ブランコの鎖を強く握りしめ、手のひらに跡がつきそうだ。
 ブランコが前に揺れる。英の表情が見えた。
 迷子のような顔だった。途方に暮れ、親を探している幼子の顔だ。

「ボクの話、聞いてくれる……?」
「ああ、もちろん」
「ぐちゃぐちゃだけど、いい?」
「ああ」
「本当に?」
「本当に」

 軽い足音と、明るい笑い声が近づいてきた。
 今の雰囲気とそれは全くあわない。
 漕ぐのをやめ、地面に戻る。
 舌っ足らずな言葉と声が聞こえてきた。
 先ほどのチャイムは小学校だったようだ。公園の入口に小さい子供の姿が見えた。
 赤と黒のランドセルを背負って、子供たちは通り過ぎて行く。
 視界が、だんだんと低くなって、ついには止まった。足の裏に地面が戻ってくる。

「ボクにとっての世界ってね、父さんのことなんだ。父さんがボクを見てくれないとボクはいつまで経っても存在できないし、人形にもロボットにもなれないの」

 感情の乗らない声で、英は語る。

「最初はね、こんなのじゃなかったんだよ。母さんもいたときは、父さんもボクの名前を呼んでくれてたんだって。英って、ちゃんと呼んでくれてたんだ。だからきっと、全部ボクが悪いんだと思う。父さんが気に入るような子になれない、ボクが悪いんだ」

 無音が訪れる。小学生たちの声も聞こえなくなっていた。
 ブランコに座りなおして、ただ黙って、英の話を聞く。
 それしかできなかった。

「もう一度名前を呼んでもらえるなら、もう一度笑ってくれるならって何度も願った。だからね、父さんの望むようになりたいの。ちゃんと覚えてて欲しいの。居場所がほしいんだよ。ここまでこだわるのもおかしいんだって分かってる。無理だって、諦めたほうがいいって分かってるのに。でもどうしても、どうしても呼んでほしくて……。おかしいよね、笑っちゃう」

 ははっ。英の口から漏れた笑い声。
 嘲笑のようで、どう反応すればいいのか、分からなかった。

「キミ兄ちゃん、覚えてる? 初めて会ったとき」

 はっきり頷く。
 目の前に浮かぶようだ。今と同じようにブランコに腰掛け、英は肩をはねさせて泣いていた。
 アメを渡してやっと笑顔を見せてくれた。それから、名前の話をして……。

「今でも、ボクはヒーローになれると思ってるの?」
「なれる」
「父さんにすら名前、呼んでもらえないのに?」
「絶対、なれる」
「なんで、言い切れるのさ……!」
「英は、英だからだよ」

 分かんないよ。
 かすれた声が聞こえた。
 泣きそうに歪められた顔。
 流れそうになる涙を抑えこむように、英はきつく目をつぶっている。
 強い風がふいて、英の髪がさらわれる。顔が見えなくなった。きつく結ばれた口元だけが目を引く。

「英は、英のままでいれば必ずなれる。絶対、なれる」
「だから、なんでそんなにはっきり……」
「ギリシア神話、知ってるか」

 首を振られた。詳しく知らない、ということだろうか。

「じゃ、有名な二人の英雄の話を少しだけ。ヘラクレスとペルセウスっていうんだけど、聞いたことは?」
「ヘラクレスは知ってる。ディズニーのだよね?」
「そうそう、それのモデル。ヘラクレスは自分の妻と子どもを殺してしまったことを深く後悔し、罪滅ぼしのために様々なことをする。十二の試練ってやつ。結構有名」

 知らない人はとことん知らないのだろうが。
 俺も偶然学校の図書館で見つけた神話を読んで、初めて知ったくらいだ。
 司書さんと話してたまたまギリシア神話が話題になったから読んだに過ぎない。
 そうならなかったら、こんな話をしなかっただろう。

「ヘラクレスは自分なりのやり方でその試練をこなしていった。自分の力と知恵を精一杯使い切ってな。――さて、ここで問題です」

 ぱんと、両の手を打ち鳴らす。音が響いた。
 重い空気がはじけ飛んだ気がした。
 英は小さく声を上げ、東藤はわずかに肩を揺らした。どうやら驚かせたようだ。

「彼は英雄になるつもりで十二の試練を受けていたと思うか?」
 きょとんと、英の小さな目がこちらを見てくる。
 意味が分からなかったのだろうか。だったらどうしよう。
 俺が困っているのが伝わったのかもしれない。しばらく経って、彼はゆっくりと首を振った。

「後悔をしたから罪滅ぼしのためって言ってた。だから、ちがうと思う」
「そうだな。罪滅ぼしがメインで、それをやり遂げたら英雄になってたって感じだろう。ペルセウスもそうだ」

 落ちてきた前髪をかきあげながら、英の方を見やる。
 静かに俺の話を聞いている姿は、紙芝居などに心を奪われている無垢な子どもそのものだ。
 やっぱり彼が鬼だなんて、嘘なのではないかと思ってしまう。
 先ほどの出来事を見ていなかったら、多分信じていないのだろう。

「ペルセウスの母はすごくきれいで、その国の王族が惚れてしまうほどだったんだと。でも王族の誘い方は乱暴で、母はいつもペルセウスに守ってもらっていた。毎回邪魔されて面白くなかった王族は悪知恵を働かせて、宴の席にゴルゴンっていう化け物のの首を持ってこいとペルセウスに命令するわけだ。三姉妹なんだけれど上の二人の姉は不死。末っ子のメデューサしか死なない」
「メデューサって、目を見たら石になっちゃうやつだ!」
「そうそう、それ。よく知ってるな」

 英の頭を数度、軽く撫でる。
 彼は控えめに笑った。
 久しぶりの笑顔だった。

「彼はたくさんの神様の助けを借りて、無事メデューサの首を取ることができた。その途中運に恵まれてアンドロメダ姫を助けて、国に帰ってくる。それに驚いたのは王族だ。邪魔者が戻ってきたんだからな。なんやかんやでペルセウスはその王族を倒してメデューサの首で石にしてしまったわけだけれど。――さて、ここで問題です」

 ぱんと、また手を打った。
 二人とも今度は驚かなかった。
 二回目だし、当たり前か。

「ペルセウスは英雄になりたくて、メデューサの首をとったのか」
「ちがうと思う。早く家に帰りたかっただけなんだ」
「そう、それが結果的に英雄につながっただけ。だからさ、なにが言いたいかっていうとだな」

 一度言葉を切り、大きく息を吸う。
 いざ言葉にするとなると、とたんに恥ずかしくなってくる。でも口にしなければ。彼に伝えなければ。
 短く息を吐きだして、英の目を見る。

「英は英のままでいれば、必ずヒーローになれる。そりゃあさっき出した二人みたいに有名にはなれないかもしれない。それでもお前を好いてくれる人は必ずいるし、お前にしかできないことだって、必ずある。そういうことなんだよ。お前は誰かのヒーローなんだ。英が周りに目を向ければ、クラスのやつや先生や、近所の人が見てくれているに違いないんだ」
「でも、ボクには父さんしかいなくて」
「ちょっとずつでいいんじゃないか? 急に周りを見ろって言われても無理だろうし」

 座りなおして、空を見上げた。
 青い青い空が、どこまでも広がっていくような気がした。
 鳥の鳴き声。風の音。雷。雨の音。
 人の話し声。笑い声、泣き声、怒鳴り声。交わされる言葉たち。
 自分の周囲はこんなにも美しい。それを知らないままなんてもったいない。
 確かに、美しいばかりの世界じゃない。
 俺は父がいないがために小学校では除け者にされ、母が留守がちだったこともすごく恥ずかしかった。
 東藤はなにか暗いものを抱え、強い意志で鬼破者になったようだ。
 英の父だって、パートナーがいなくなったことで大切な部品がなくなってしまったように感じた。
 どうしても醜い争いや、気持ち悪い裏切りも見なければならないときだってくるだろう。
 でも、それと同じくらい――それ以上に幸せな出来事にだって巡り合えるに違いない。

「手始めに、俺を英の世界に入れてくれたら嬉しいけどな」

 え?
 英が声を漏らした。本当に小さくて、空気が流れだしたように聞こえる声だった。
 横目で英の姿を確認する。
 ただ黙って、少年は俺の横顔を見つめていた。大きな目をさらに大きくして、じーっとなにかを待っているようだ。
 気恥ずかしくなって前を向く。視界の隅に悠が映った。
 このあと、念の為に病院に連れて行くべきかもしれない。

「父さんばかりにこだわるボクは、おかしいんだね?」
「そんなことないよ。でもちょっと損だなとは思う。それに、俺には父親ってのが分からないから。英がおかしかどうかなんて、なおのこと分からないさ」

 首をかしげてどうしてと英は尋ねてくる。
 そういえば、彼には俺のことなにも話していなかった。ちょうどいい。話してしまおう。
 そう思って、一つずつゆっくり伝えていく。
 父がいないこと。
 小さいときに交通事故で死んでいること。
 学校ではそれをネタにいじめられていたことがあったこと。
 母も仕事が忙しく、家にあまりいないこと。
 家族というものがよく分からないこと。
 周りには残酷なこと、幸せなことがたくさん転がっていること。

「俺、家族のことそんだけ想える英が羨ましいかな。だから損してほしくない」

 そう話を締めくくり、ブランコから立ち上がって大きく伸びをする。
 ずっと座っていたためか、体が固まっていたようだ。ぱきぽきと背中が音を立てた。
 振り返り、真正面から英の目を見る。
 ガラス球だ鏡だと言っていた彼の目には光が宿り、英の心の内を見せていた。
 目は心の窓とは、よく言ったものだ。

「ちゃんとお前を見てくれる誰かを見つけられたら、いいよな」

 軽く手を添えて、少年の頭を撫でる。ぱさついた髪が、指に絡みついた。
 何度触ってもその感触は変わらない。栄養が行き届いていないことがすぐに分かる髪だ。
 英の髪が、淡く、光った気がした。思わず彼の頭から手を離す。
 英の輪郭をなぞるように淡い光がゆらゆらと揺らめいている。
 暖かく優しい。真珠のような白く柔らかい光。妖精の粉を頭からふりかけたような、優しい光であった。

「なんだかちょっとだけ、すっきりした気がする。キミ兄ちゃんと話せて、よかった」

 ブランコに座ったままふんわりと、英は笑う。
 太陽のように力強い光を瞳にたたえて、英は笑う、笑う。
 英の足が、地面についていた彼の足が、白い粒子に変わりだし、空に昇っていく。
 それは、東藤が短剣で鬼を刺したときの光景と似ていた。
 だけど、昇る粒子の色が白いからだろうか。とても明るく、華やかなものに見える。

「ボクはボクのまま、周りを見ていくよ。やっぱり急にはできないけれど、損なんかしたくないもん」

 光をまとった英の体は、少しずつ消えていった。もう、膝から下が目視できない。
 一体なにが起こっているのだろうか。
 わけも分からず、俺は英の手に自分の手を重ねた。
 ブランコの鎖の温度が、直に伝わってくる。

「ボク、欲張りだったみたい。学校の先生にも友達にも、父さんにも見てもらいたい。おかしい?」
「そんなことない、人に見てもらいたいのは当たり前だ。大丈夫、当然のことだから」

 彼が不安にならないように言い切って。
 俺の気持ちが伝わるように目を見て。
 少年の目は春の日差しのように穏やかで、見ているこちらが泣きたくなってくる。
 すでに英の体は腰のあたりまで消えている。
 白い粒が細い糸のように、途切れることなく空に昇る。昇って溶けていく。どんどん消えていく。
 英が、消えてしまう。彼はにこにこと微笑んでありがとうとつぶやいた。
 俺は、お礼が聞きたかったわけじゃない。

「ボク、名前に負けないようなヒーローになるよ」
「ああ」
「なれたら、まっさきにキミ兄ちゃんに教えるね」
「ああ」
「絶対来るから。ちゃんと待っててくれなきゃ、いやだよ」
「ああ」

 重ねていた小さな手が、粒子になって昇り始めた。
 指の隙間から、さらさらと流れ漏れていく。
 手の中がどんどん、からになる。
 急いで彼の手首を掴むが、それもすぐに消えてしまいそうで、とても頼りなく感じた。なにかを握っている感触がない。

「キミ兄ちゃん、公園に来てね。約束したんだから」
「ああ」
「また一人で遊ぶなんていやだよ」
「ああ」
「鬼ごっこ、またやろうね。そのときはボクが鬼だから。絶対、捕まえるから」
「ああ……!」

 腕が消えた。
 元から儚い雰囲気を持っていた英だったが、実際に向こう側が透けて見えるようになるなんて考えても見なかった。
 比喩でもなんでもなく、今の彼は存在がとても危うい。
 彼の体を通してあちら側の景色が見える。
 緑の茂みの中に、白いハルジオンが咲いていた。すりガラス越しのように、なんとなくぼんやりと見えている。
 たまらず、英の体を抱きしめる。
 触れている感覚がない。熱が感ぜられない。英がここにいるのか、分からない。
 不意に涙がせり上がってきた。泣きたくなかった。
 きつく目をつぶり、腕に力を込め英を抱きとめる。
 それでも、英がここにいるのか分からなかった。

「キミ兄ちゃん」
「なんだ」
「キミ兄ちゃんはボクのヒーローだから」

 反射的に目を開いた。
 目の前にいたはずの少年の姿は、綺麗さっぱり消えている。
 視界に入ったのは、一人で揺れているブランコと、ハルジオンが太陽に向かって咲き誇っている姿のみ。
 白の花弁が、先ほどよりもはっきりと見えた。
 急いで上を見上げれば、白い粒子がまだわずかに、残っていた。
 雲と見間違えてしまいそうなほど白い粒が見える。
 英はもう、完全に消えたのだ。どこを探しても、彼はいない。あの笑顔はもう二度と、見られない。
 少年に触れていたであろう手のひらを握りしめる。
 温度も感触も、なにもかも、感じられなかった。

「ん……うん……?」

 悠のうめき声が聞こえた。
 それから東藤の気遣うような声もかすかに分かる。
 どうやら、悠の意識が戻ったようだ。

「あれ、オレなんで、寝てんだ……?」
「えっと、そのね。君は鬼に」
「急に倒れたんだよ」

 なるべく大きな声を出し、東藤の言葉にかぶせる。
 彼にはなにも、知られたくないと思った。

「急に倒れたんだよ。貧血でも起こしたんじゃないかって言って、先輩心配してたぞ」

 左耳の裏を撫でながら、悠に告げる。
 東藤はなにも言わない。俺が、ごまかそうとしているのが分かったのだろう。
 そもそも本職の鬼破者がごまかそうとしないとはどういうことだ。
 ブランコの方に向いていた体を、ゆっくりと二人の方に向ける。
 東藤に背中を支えられながら、悠はベンチの端に座りなおしていた。
 彼はこめかみを押さえ、渋い顔をして俯いている。頭が痛むのかもしれない。
 東藤はそんな彼を気遣わしげに見ている。
 はたから見ればその様子は、恋人同士に見えなくもない。

「ああ……。すんません、麗夏先輩に迷惑かけるなんて」
「ううん、気にしないで。なんとも内ないようで、安心した」

 そう言って、彼女は苦笑する。口調がぎこちなく感じるのは気のせいではないだろう。
 恐らく俺が、突然割って入ったせいだと思う。
 その証拠にほら、こちらをちらちらと見ては困ったようにまゆを寄せている。
 緩慢な動きで悠が顔を上げた。頭が重いのか、片手で支えるように額を抑えている。
 一瞬、彼の目が大きく開いた。かと思ったらどうしたんだと、なにかあったのかと矢継ぎ早に尋ねてくる。
 それはとても、静かな声だった。

「どうしたって、なにが」
「情けない顔して、泣いてる理由聞いてんだ。どうしたんだよ」

 嫌いなものでも口にしたような苦い表情をして、悠は言い捨てた。
 彼の言葉にやっと自分が泣いていることに気がついた。
 目元と頬を制服で乱暴に拭い、袖を見てみる。
 濡れて色が変わっていた。
 何故俺は、泣いているのだろうか。泣く必要なんかどこにもないのに。
 悠はちゃんと目覚めた。病院に行かないと断言できないけれど、大した怪我もなさそうだ。
 涙を流す要素なんて、どこにもないはずなのに。

「お前が突然、倒れるからだろ。心配させんな」

 左耳の裏から手が離れない。
 この言葉が全てではないと、多分悠は気づいている。あいつはとても聡いから、きっと分かっている。
 だけどどうか、そのまま気づかないふりを続けて欲しい。
 俺は英を消した。彼を殺したも同然のように思えた。
 なにか言われたら今度こそ、泣き崩れてしまいそうだ。

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