鬼囃子
(3)
一人でいるのも、求める虚しさにもすっかり慣れてしまったボクは、家の近くにある公園によく足を運ぶようになった。
あまり広くなくて、でも遊具はたくさんある。
人は殆どいない、そんな公園だ。
でもボクは、それらの遊具で遊ぶ気にはなれなかった。
一人ではしゃぐのもアホらしい。
誰にも見えない透明なボクは、おとなしく、邪魔にならないように眺めてなければいけないんだ。
ブランコに腰掛けて、下を向く。
地面とつま先が見えた。
不安定なこの座った感じ、今のボクにそっくりなんじゃないかな。
揺れて、揺られて、揺らされて。
ひもが切れたら地面に落ちて、使い物にならなくなる。
乗っている人がいなくなれば、力尽きるまで一人で動き続けて空回り。
考えていたら、なんだか悲しくなってきた。
だって、本当にその通りだって思ったから。
ボクは飽きられて、乗り捨てられたブランコだ。
ボクを支えている二本のひも。
一本は切れかかっていて、もう一本は限りなく細い。
切れかかっている方は、きっともうすぐ役目を終えてしまうのだろう。
ボクは一体、どうなるのだろうか。
ブランコの鎖をいっぱい握って、落ちないようにすがる。
誰にも見えてないボクが、どうなるもなにもないに決まっている。
自然と目の前が歪んで、なにかが落ちた。
慌てて目元を拭う。
呼吸が、落ち着かない。
息が上がって声が出そう。
泣くのは弱い証拠だって、あの人は絶えず言っていた。
強くならなくちゃいけないんだって。
ああ、ほら。こうやってあの人の望むようなボクになれていない。
泣いてしまうほど弱いボクなんて、きっとあの人はいらないって言うに違いない。
だからきっと、あの人の視界に入れてすらもらえないんだ。
ギーッと、隣に誰かが座った。
鎖が、嫌な音を立てる。
音につられて横を見ると、目つきが悪い男の人がいた。
とっても怖くて、不機嫌そうな顔。
怖くて、ボクはすぐに目をそらした。
男の人はゆるく、ブランコを漕ぎだした。
そしてボクにも漕ぐように促してきた。
そういえば、ブランコなんて久しぶり。
いつも座って鎖を握るだけで終わっていたから。
そろそろと、ゆっくり漕いでみれば、もっと思い切り漕げと、男の人に言われてしまった。
言われた通り、目一杯体を使って漕いでいく。
ぐんぐん、ぐんぐん体は上に登って空が近くなって。
あの雲をつかめるんじゃないかな、なんて思うくらい、目の前いっぱいに青い空が広がる。
風が気持ち良い。
頬を風が撫でる。
冷たい、涼しい。
涙が通った跡が、乾いていく。
「どうだー、気持ちいいだろー」
「気持ちい〜!」
本当に、気持ちが良かった。
全部全部、暗い気持ち全部空に飛んでってしまったんじゃないかって思うほど、胸の中は軽い。
先ほどまで考えていたこと全部吹っ飛んで、ただ空気の優しい衣が、体ごと全て、包んでくれるような、不思議な感じ。
楽しくてたまらない。
こんな気持ちは、いつ以来なんだろう。
高いところに登るたび、大きな声をあげた。
この感情を、周りの人にも分けたくなってくる。
この声に気持ちが乗っかって、聞いた人みんなが、ボクと同じような気持ちになってくれればいいのに。
男の人も、ボクと一緒に声を上げる。
それに釣られるようにボクも更に大きな声を出して。
その繰り返し。
男の人は少しずつ漕ぐのをやめて、ブランコの高さを低くし始めた。
ボクも同じように漕ぐのをやめる。
空が遠くなる。
青以外の余計なものまで、視界に入ってくる。
地面に引き戻されているような、羽をむしられ落ちていく鳥になったような、嫌な気分。
足の裏に地面が触れた。
ふと隣を見ると、男の人と目があってしまった。
なんとなく恥ずかしいのと、鋭い視線が怖くて、うっすらと笑ってみる。
ボクに声を書けてくれた人は久しぶりだから、不快にさせないようにしないと。
ふわっと、男の人の表情が柔らかくなった気がした。
眉間のシワが薄くなり、目が細められる。
唐突に男の人は自分の服のポケットに手を突っ込み、こちらになにか投げてきた。
ぱっと手を出して、それを受け取る。
手の中をゆっくり覗いて、受け取ったものを確かめてみる。
ぶどうのアメだった。
「ぶどう、苦手か?」
「ううん、大好き!」
男の人はこのアメを、ボクにくれるつもりらしい。
ボクのこと、見えただけでも驚いたのに、なんて物好きなんだろう。
素直に口に含めば、甘いぶどうの香りがした。
心なしか、今まで食べたどのアメよりも、ずっと美味しく感じた。
そこからの記憶は曖昧。
でも、とてもうれしくて幸せだったのは覚えている。
男の人――キミ兄ちゃんは、ボクにたくさん優しくしてくれた。
怒ってくれた。
悲しんでくれた。
大切な人のために、ボクが行動しなくちゃだめだって、怒ってくれた。
怒っている間、ずっと苦しそうに表情を歪めてくれた。
ボクのことを見て、まっすぐに言葉を投げられたのなんか久しぶりで、すごく暖かくて、優しい気分になった。
遊び疲れて、日が暮れてきたことも相まって、ボクたちは家に帰ることになった。
家まで送るというキミ兄ちゃんの言葉を断って、ボクは今、一人家の玄関の前で座っている。
優しかった。
暖かかった。
あの感覚とぬくもりを、まだはっきりと思い出せる。
とても怖い見た目の人だったけれど、不器用にボクのことを想ってくれる人だった。
抱きしめてくれた。
たくさんの言葉をボクに渡してくれた。
ああ、ボクが求めていたのはこういうことだったのかな。
あの人に求めていたものは、こういうものだったのかな。
ボクの心は今、とても満たされている。
これ以上ないくらい、溢れそうなくらいの気持ちで、満たされている。
満足しているって、このことなのかもしれない。
自然と、頬が上に上がる。
単純なやつ。
耳の奥からまた、声が聞こえてきた。
あのとき以来だ。
もう一人の「ボク」が現れた。
本当に、単純なやつ。優しくされればそれでいいんだ。その程度の思いしかなかったんだね。
違うよ、そういうことじゃない。優しくされれば誰だって嬉しいじゃないか。ボクはなにも、おかしなことなんかしていない。
あの人に求めていたものが手に入ったって、さっきまで喜んでいたくせに。
それは……。だって、だって久しぶりだったから。魔が差したっていうか、ふと、思ってしまっただけで。
それだけで充分裏切り行為だよ。見てくれないから、諦めるんだ? 弱っちいね。そんなんだから見てもらえないし、気に入ってもらえないんだよ。自分で分かっているんでしょ。だって、自分のこと、よく見てるしね。
嬉しいって、そう思うくらいいいじゃないか。ボクはずっと、あの人を見てなきゃいけないの? それこそ本当に人形みたいだよ。それじゃあ、だめだ。ボクでいる必要がなくなっちゃう。
一体なにがだめだっていうのさ。人形になりたかったんでしょう? あの人に見てもらえるような人形になりたいって言ってたじゃない。じゃあ、ちょうどいいじゃん。人形になるんだからさ。認めちゃいなよ。
でも、そうだけど。確かにその通りなんだけど……。
ただ自分を捨てるのが怖いんでしょ。人形になりたい、ロボットになりたいって言っているくせに、いざそうなるとそれはだめって、おかしいじゃん。意気地なし。
だってそれじゃあ、見てもらえたって嬉しくないよ。なにも、感じなくなっちゃうじゃないか。
唐突に声はやんだ。
なんだか、胸を鋭いナイフでえぐられた気分だ。
そうだ、一体ボクは、なんで浮かれていたんだろう。
自分のなかがぐちゃぐちゃしてくる。
ここまで一人の人に見てほしいと望むのも、どこかおかしい気がするし、抱きしめられて話ができるのを嬉しいと感じるのも当たり前のはずなのに、どうしてここまで、ぐるぐるしなければいけないのだろうか。
家の中に入る誰もいない、暗い部屋の中。
まっすぐに自分の部屋に向かって扉を閉める。
静かな部屋の中。
窓から差し込んでくる月明かり。
なにもない、自分の部屋。
壁に体を預けて小さく眠る「ボク」の姿があった。
ボクの主は先に帰ってきていたらしい。
ボクは寝具に体を投げ出した。
ぼすっと、布団が音をたてる。
疲れた。
全てに疲れた。
何故だろう。
先ほどまで満たされていたのに、器を逆さまにして、全て流されてしまったような感覚を覚えて仕方ない。
寝返りをうち、天井の方を向く。
一気に全てが面倒に思えてきた。
考えること、想うこと、景色を見ること、音を聞くこと、息を続けること。本当に、全てが嫌になる。
なにも見たくなくて目を閉じた。
それでもなにか、とても怖いものが見えてきそうで、ボクは両手で目を抑えた。
これで本当に、なにも見えなくなっていればいいのに。
次の日の朝も、いつも通りの今日が始まった。
学校に行って授業を受けて、放課後まっすぐに家に帰る。
そんな「ボク」の後ろ姿を、ボクはただ黙って見つめていた。
面白いくらいに、笑えるくらいに、ボクは誰からも相手にされていないことがよく分かる。
家の扉に手をかける。
少し深く息を吐きだす。
「ボク」は緊張しているようだった。
自分の家に帰るときが一番怖いんだ。
分かるよ、震えて泣きそうになるよね。
「ただいま」
家の中に入って、なるべく大きな声で「ボク」は呼びかける。
返事はない。
なんだか急に、ここにいるのがいたたまれなくなって、ボクは「ボク」のことを置き去りにして。
家を飛び出した。
駆けだした勢いそのままに、公園を目指す。
体が冷えるというか、凍っていくような感覚が恐ろしかった。
じわじわと熱が外に流れ出して、温度が全てなくなって、凍えて死んでしまうのではないかと思った。
あの人の中に、本当にボクはいないのかもしれない。
目頭がものすごく熱くなったけれど、涙なんて出てこなかった。
きっとさっき、凍りついてしまったんだ。
公園について、ボクはすぐにブランコに腰掛けた。
体の力が一気に抜けていく。
ガタガタと、足から震えが上がってきて、止まらない。
むしろ震えはどんどん強くなる一方だった。
寒いの?
すごく寒いよ。
怖いの?
すごく怖いよ。
緊張しているの?
緊張なんて言葉じゃ表せない。
自分の弱さが情けなくて、こみ上げてくる嗚咽を抑えこむ。
うつむけば、視界に映るのはぼろぼろで汚い自分の靴。
誰かが、ボクの名前を呼んだ。
英と、小さく短く、だけどはっきりと呼んでくれた。
ぱっと顔を上げれば公園の入口にキミ兄ちゃんが立って、こちらを見ている。
学校の帰りみたいで、制服を着ていた。
気がついたときには、ボクはブランコから飛び降りて、彼のもとに走りだしていた。
キミ兄ちゃんはしゃがんで、走ってきたぼくを受け止め、抱きしめてくれる。
暖かい。
優しい。
泣きそうになる。
「キミ兄ちゃんおかえりー!」
「ここは俺の家じゃないぞ」
「それでもおかえりー!」
ボクもキミ兄ちゃんの首に手を回して精一杯抱きしめる。
せめてものお礼に、ボクができることをしたくて。
名前を呼んでくれた、約束を守って会いに来てくれたお礼をしたかった。
ずっとくっついているのも恥ずかしくなって、ごまかすために遊ぼうと声をかける。
きっと断られる。
だからそのとき、笑いながら「残念」って言って離れようと思っていた。
だけど、キミ兄ちゃんは「ああ、もちろん。英はなにして遊びたい?」って。
すごく、びっくりした。
全然考えていなかったから。
誰かが、ボクの相手をしてくれるなんて、思ったこともなかったから。
また胸の中に、暖かい光が灯る。
ボクの提案で鬼ごっこを一緒に、たくさんやった。
すごく楽しかったけれど、胸の中は苦しくて仕方なかった。
キミ兄ちゃんは、すごく優しい。
優しくて暖かくて、ボクのことをいっぱい見てくれる人だ。
あの人に望んでいたことを、全部スラっとやってくれるすごい人だ。
すごく嬉しいし、幸せだし、満足して満たされている。
そのはずなのに、それでも心が違うって叫んでいる。
この人じゃないって、叫んでいる。
ごめんなさい、ごめんなさい。
裏切り者でごめんなさい。
どうしてボクは、キミ兄ちゃんのこと、素直に見られないんだろう。
ごめんなさい、ごめんなさい。
ひねくれていてごめんなさい。
キミ兄ちゃんの目はものすごく真っ直ぐで、射抜かれそうなほどまっすぐで、ボクの心なんか簡単に見抜いてしまいそうだった。
ボクはとにかく逃げまわった。
あの人の代わりとして見ている悪い子なボクを見つけて欲しくなくて、精一杯逃げまわった。
でもお願い。
どうか、ボクのことを嫌いにならないでほしい。
ぼくのこと、ちゃんと見ていて欲しい。
最後まで、見捨てないでほしい。
どうか、どうかお願い。
ボクのことを忘れないでほしい。
嫌いになってくれて構わないから、憎んでいてもいいから、だからどうか、ずっと覚えていて欲しいんだ。
[mokuji]
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