悪夢よどうか醒めないで 後編





牧さんと別れてから2週間ほど経った頃に、部活を終えて部員も帰ったし私もそろそろ、なんて帰ろうとすると酷い土砂降りで、傘持ってないや、としばらく雨が止むのを部室内で待っていたけれど、中々止まない雨に耐えきれずにビショ濡れ覚悟で駅方面へ駆け出した。少しでも濡れない様にスクールバッグを頭上に抱えながら走ってみたけど顔や目に雨粒が入ってくるし、走ったせいで水溜りの水が跳ね返りながら靴下が濡れていく。ローファーの中にも水が入ってくる感覚に嫌気がさして、どこかで雨宿りしようかな、なんて辺りをキョロキョロ見渡すも、屋根のある店先にはちらほら人が立っていてその間に入るのもなんだか、と更に駆け出した足が駅へと近づく。駅に近づくにつれて増えていく人混みの波をかき分けながら走って駅の入口まで急いだ。駅の入口に着くと雨を凌ぎながらふぅ、と一息つくようにスクールバッグを頭上から下ろして制服に着いた雨粒をパッパッと手で払ってみても既に染み込んでしまった雨が払われる事もなく、ただ、ポタリと雫になって落ちていくだけで意味なんてまるでない。随分濡れたな。と思って鞄の中からジャージを探すも、どうやら着替えたまま部室に忘れてきてしまった様だ。濡れた髪の毛が気持ち悪くて、髪を束にしてギュッと絞る様に手で握った瞬間「あれ?田中さん?」と声が聞こえて声のする方へと顔を向けると、傘を閉じた神くんがちょうど駅の入口に入るところだった。驚いた様に神くんを見つめて『じ、んくん...』と名前を呼んだ瞬間に、ギュッと胸が苦しくなって、何故だか喉の奥が苦しくなる。返す様に見つめていた神くんの瞳が一瞬揺らいで「なに?新しいプレイでもしてるの?」なんて以前の様に意地悪そうな声が聞こえた。私は反論しようと『ちがっ...か、傘、持ってなかっただけで...』と下を向きながら声を漏らすも、濁す様に声が小さくなって激しく降り続いている雨の音に消えていく。パサッと急に私の肩に何かが掛かって『?』と肩に掛かった何かを見ると、ジャージが私の肩に掛かけられていた。神くんのであろうジャージを片手でギュッと掴んで神くんを見つめると「そのままで帰ったら風邪引くよ」と神くんはチラリと私の制服へ視線を落としてから「牧さんのジャージの方が良かった?」なんて眉を寄せて小さく笑う。その仕草が酷く懐かしくて、何故だか胸が押しつぶされる様に苦しくなると同時に喉の奥がぎゅっと締まった。『ぶ、部長のジャージは...さすがに烏滸がましいかな...』なんて目を泳がせながら締まった喉から振り絞る様に言葉を漏らすと、神くんは「は?」なんて言ってほんの一瞬私を見つめる。神くんがすぐに私から瞳を逸らしたのが横目で見えて「それって...」と何かを言いかけて口をつぐんだ。少しの間、沈黙が私達を包んで耐えきれずに肩にかけられた神くんのジャージに袖を通していく。沈黙を破ったのは神くんで「別れたの?」と少し震えた様な声でポツリと漏らすと、眉を寄せながら私を見つめた。





『え...?』

「牧さんと...別れたの?」

『う、うん...』

「なんで?」

『え、な、なんでって...そんなの...』

「それって、俺のせい?」

『...』




神くんの問いかけに何も言えなくて、私は否定する様に無言のまま首を左右に振ってみせた。違う。神くんのせいなんかじゃない。牧さんと別れたのは私のせいで、私の気持ちが牧さんから、離れただけで、私がただ、酷い人間で、と頭の中で浮かんでくる言葉を飲み込んだ。神くんに説明しても意味なんかないし、説明したって別に何も起こらないし、何も変わらないんだから。「いや、俺のせいでしょ...」なんて言いながら瞼に力を入れて少し細まった神くんの瞳から目が逸らせなくて、私は袖を通したジャージの袖口をギュッと握りしめた。再び私達の間に沈黙が流れて、神くんが自分の前髪をくしゃっと握りしめてから「俺そんなつもりじゃ...ごめん」と思いもよらなかった謝罪に何故だか私の視界が揺らいだ。まるで、今までの出来事を無かった事にされた様な気がして、酷い事を沢山、された筈なのに。なのに、それなのに今までの事を否定されるのが嫌だった。その瞬間に頬を伝っていく滴は、雨に濡れた髪の毛から滴った滴が私の瞳に当たったせいなのか何なのか、よく分からなかったし、知りたくも無かった。私はギュッと更にジャージの袖口を強く握って『じ、んくんの...神くんのせいじゃないの...』と口から漏らした瞬間に、私の視界が滲んでいく。だから、謝らないで。と言いたいのに喉に何かが詰まった様に言葉が出て来なくなって、鼻先がツンっと痛くなる。何でなのか分からない。だけど、神くんに謝られた事が、凄く、悲しくて。「田中さん、ごめん...」と神くんが再び言葉にした途端に私の涙が溢れ出てきて、止めたくても止まらない。握っていた袖口を目に当てて『ごめん、違うの...ごめん』と自分のしたい事が分からなくなって、ごめん、と呟きながら必死でジャージの袖を目に押し当てた。違う、こんな事言いたいんじゃなくて、泣きたいわけでもなくて、なんて頭の中がぐちゃぐちゃになって、目に押し当てたジャージの袖がジワリと沁みを作っていく。「...田中さん。ちょっと、場所移そうか」なんて神くんの言葉にコクリと頷いて鼻を啜ると、神くんは「俺の家の方が近いし、俺の家でいい?タオルも貸すから。ついでに制服乾かそうよ」と宥める様な優しい声に再びコクリと頷いた。"俺の家"なんて言葉にきゅうっと胸が苦しくなって、下唇を噛みながら目に当てたジャージで目を擦ると、神くんは「そんな事したら赤くなるよ」なんて注意をしながら「使ってないやつだから、これで拭いて?」と私の手にタオルを握らせる。手渡されたタオルに顔を埋めていると「歩ける?」と頭上から声がして、コクリと頷いてから顔を上げると、神くんが「ごめんね」なんて眉を寄せながら私を見つめた。私は首を左右に振って鼻を啜ると、歩き出した神くんの後を追う様に改札の方面へ足を進めた。














電車の中で私達は、一言も話さなかった。私は電車の扉にもたれかかりながら、窓に当たって落ちていく雨粒をただただ見つめて、時折神くんが貸してくれたタオルで落ちてきそうな涙を拭う。少し私から間を開けて立っていた神くんも何も言わずに、時たまに私の方を見ては窓の外へ視線を落としていた。静かな電車内に響くガタンッと揺れる電車の音が霞んだ様に遠くなる。たった一駅。たった一駅の距離が凄く遠く感じるのは、神くんと私の間にある距離と似ていた。近くて遠い。遠いのに近くに感じる。窓に反射した自分の顔が少しだけ映って目を逸らすと、窓に映っている神くんの瞳が私を捉えた。泣き顔を見られている事が恥ずかしくなってすぐに目を逸らしてから再び雨粒を見つめていると、目的の駅に到着するアナウンスが鳴り響くと同時に電車が停車して、音を立てて扉が開いた。「大丈夫?」と一緒に電車から降りた私を心配する様な神くんの声が頭上から聞こえる。私は何も言えないままコクリと頷いて、おずおずと神くんを見上げた。ドキドキ早くなる自分の心臓の音が鳴り響いて、眩暈を起こしそうになる。「心配しなくても、何もしないから」なんて、私の考えを読み取った様に神くんが呟くと、私は目を泳がせながら『分かってる...』と震えた声で言葉を返して、再び込み上げてくる感情と涙を拭う様にタオルを押し当てた。














「どうぞ」

『お、邪魔します...』




神くんの家に着くと「タオル持ってくるから待ってて」と玄関に私を立たせたまま、神くんが家の奥へと進んでいく。1度しか来たことが無いのに神くんの家の香りが何故だか懐かしくて、心地よかった。玄関を見渡していると、パタパタとスリッパの音が聞こえて、神くんがタオルと着替えを手にして「これ使って」と玄関先の床に置いていく。『ありがとう...』と涙が染み込んだタオルで再び顔を拭いていると「入るの嫌じゃ無かったら...そこで洋服着替えて。玄関で着替えるの嫌でしょ?」なんて神くんが気まずそうにタオルを持ってきたであろう場所を指差した。『う、ん...』と立ちながら濡れた靴下と靴を脱いで『お邪魔します...』なんて床に置かれたタオルと着替えを持ち上げる。神くんは「まっすぐ行って2つ目のドアだから。終わったら呼んで」と私と一定の距離を保ちながらリビングだかどこかに歩いて行ってしまって、私はソロソロと泥棒の様な足取りで目的の場所を目指した。神くんに言われた通りに2つ目の扉を開けると脱衣所で、扉を閉めて神くんから借りたジャージを脱いで、濡れた制服も一緒に脱いでいく。神くんが持ってきてくれた少し大きめの服に袖を通すと、フワッと神くんの匂いに包まれる。神くんの、匂い。と懐かしい様な不思議な感覚に胸がギュッと痛くなって、下唇を噛みながら濡れた制服を畳んで扉を開けると『じ、神くん...?』と顔を出して小さく声を出すと、パタパタとスリッパの音が聞こえて「終わった?」と神くんが「制服、ドライヤーで乾かすから貸して」なんて私の掌を向けてくる。なんだか、以前の、あの関係を持つ前の神くんと話している様な感覚に戸惑って『あ、ありがとう...』と神くんに制服を手渡した。知っている神くんなのに、知らない人みたいで、まるで、距離を取られているみたいで、私の胸が再び込み上げてくる何かに潰されそうになっていく。「適当に座ってていいよ」と言われて『うん』と返すけれど、神くんが私の横を通ってドライヤーを出している姿を見つめていると、何故だか足が動かなかった。神くんが手渡された制服を敷いたタオルの上に置きながらドライヤーのスイッチを入れると、ドライヤー特有の煩めの音が部屋に響く。『じ、んくん』と確かめる様に声を出すけど、ドライヤーの音で聞こえないのか神くんは何も言わなくて、少しホッとしながら続ける様に『牧さんと別れたのはね』とボソッと呟いた。




『神くんのせいなんかじゃなくて...私のせいで別れたの。だから...』





『さっき言えなかったけど、神くんは何も悪く無いんだ...』とドライヤーの風に当てられている制服に視線を落としながら呟くと神くんがドライヤーのスイッチを切って「ごめん、何か言ってた?」と私を見下げる。私は『ううん。何も言ってない。見てるだけ』と首を左右に振ると、神くんは「そう?」と言って再びドライヤーのスイッチを入れ直した。『私、本当は神くんのこと...』と、言いながら制服に落とした視線を神くんの方へあげると、神くんの横顔にギュッと苦しくなる胸が痛くて、何故だかもう、見ていられなくて、その場から離れ様と足を持ち上げる。途端にガシッと腕が掴まれて振り返ると、神くんがドライヤーのスイッチを切ってから「私のせいで別れたって、何?」と私を見つめる瞳に、胸が余計に苦しくなった。『聞こえて、たの...?』なんて驚いた声を出すと神くんは「田中さんって、馬鹿なの?」と眉を寄せながらため息まじりに呟いてドライヤーを近くの棚に置いてから「...本当は俺のこと、何?」なんて、問いかけてくる神くんの声が頭に響く。神くんが瞬きをして、その光景がスローモーションに見えて、『あ...』と声を出したいのに出せなくて、言葉を飲み込む。あんなに酷いことをされたのに、あんなに、嫌だと思っていたのに、神くんの事を目で追う回数が増えるたびに苦しくて、だけど、頭の中で思い浮かぶのは神くんの事ばかりだった。ドキドキと響く心臓の音が、期待している様に早くなって、乾いた口を潤そうとゴクリと唾を飲み込むのに、余計に私の口の中が乾いていく。その言葉を言ったら、終わってしまう気がして、だけど、終わらせたくて。




『神くんの事が...す、き...なの』




ポツリと私の口から漏れた言葉が静かな部屋に響いて、吸い込まれる様に消えていった。何も言わない神くんは私を見つめたままで、私も答えを聞きたくて神くんを見つめてる。時間の流れが遅くなって、神くんに掴まれた手が、火傷しそうな程に熱くて、言葉にしたせいなのか沸騰しそうな頭の中の思考が止まった。静寂が私たちを包んで、激しく降り続いている雨粒が窓を何度も叩く音が反響した様に部屋に響く。「本気に、してもいいの?」と不意に聞こえた神くんの声にコクリと頷いてそのまま足元を見つめた。徐々に視界に見えてくる神くんの足を見つめて、ゴクン。と生唾を飲み込んだ音さえも響いている様な気がして、恥ずかしくて瞼を閉じながらギュッと手で拳を作って力を込める。神くんが私の真正面に立っている、と瞼を閉じているのにそんな気がして、私の腰に手が回ると同時に掴まれた腕が引かれる様に持ち上げられる。「本気に、するから」と少し掠れた様な神くんの声がして、ふわっと神くんの匂いが鼻先を掠めた。瞼をゆっくりと持ち上げて顔を上へ向けると、目の前には神くんが立っていて「田中さんが、悪いんだよ」と屈みながら呟いて顔を近づける。揺れる瞳が、熱くなった頬が、乾いた唇が、神くんに引きつけられる様に私も神くんの顔に近づいて、触れるだけのキスを1度だけ。ちゅっと小さく響いたリップ音が部屋に響いて「もう一回、言ってよ」と何故だか泣き出しそうなほどに潤んだ神くんの瞳が私を捕らえて、私の腕を引っ張り上げる。引かれる手をそのまま神くんの首に巻き付けて、両手を首へと回しながら『好き、神くん』と小さく呟いた。再び触れるだけのキスをしてから、離れるたびに『好き』と囁く。「俺も、田中さんが好きだよ」と離れた口の隙間から神くんが漏らして、私の胸が何故だか余計に苦しくなった。見つめた神くんの瞳からポロッと涙が溢れて驚いていると「...ッ...ごめん。ずっと、好きだったんだ...ごめん...」と神くんが謝りながら私をぎゅっと抱きしめて、顔を私の肩に埋めていく。「ずっと...ごめん...」と、絞り出す様に出た神くんの声に私の胸も余計に苦しくなって、神くんの首に回した腕に力を込めた。





悪夢よどうか醒めないで
(悪夢の様な愛を、ずっと)



しばらくしてから神くんが私の肩から顔を上げて私を見つめながら「好きだよ」と困った様に小さく笑う。私を見つめる神くん瞳は泣いていたせいで潤んでいて、何故だか私も泣きそうになった。私は鼻を啜りながら『うん、私も...』と釣られた様に小さく笑って再び瞼を閉じて神くんの唇へ唇を寄せていく。首に回した腕に力を込めて、離れた口と共に瞼を持ち上げると神くんは変わらず泣きそうな瞳で私を見つめていた。




fin.