はやくその毒をください 前編









「花子…」





牧さんの家で、牧さんの部屋で、私の名前を囁く様に口から漏らした牧さんの声を聞きながら、牧さんと何度目かの唇を重ねた。唇を重ねた後、小さなリップ音を響かせながらゆっくりと離れた牧さんの唇を更に求める様に空気を食む。私がそんな厭らしい行動をとった事を牧さんはきっと、知らない。一度瞼を持ち上げて目の前の光景を確認するのに、牧さんと視線が重なって再び唇が触れる。触れるだけの口づけ、だけどそれだけじゃ足りないと思っている自分が確かにいて、神くんだったらこの後、こじ開ける様に私の口の中に舌を入れてきて、私の口内を確かめる様になぞって、舌を絡め取って、なんて嫌悪している筈の神くんとの行為を頭の中で浮かべてしまった自分に気づいて、牧さんの胸をドンっと強く押しながら唇を離した。私が『あ…』と声を漏らした後、少しの沈黙が私と牧さんを包んだ。私、なにしてるの。と思いながら、私の心臓が跳ねる音だけが私の耳に響く。幸せで、ずっと待っていた筈の口づけを、拒んでしまった。変に思われるかもしれない。ドキドキ早くなる私の心拍数と、冷や汗が私の手をじわりと湿らせる。牧さんは「すまない…急ぎすぎたな」と困った様に笑って胸を押した私の手を優しく握りしめてくれるのに、私はそれだけじゃ、物足りないと...不意に思ってしまった。





『牧さんのせいじゃないんです…』

「いや、無理はさせたくない。花子が先に進もうと思った時でいいんだ」

『ごめんなさい私…ッ…』

「いいんだ。大丈夫だから」





私を見つめて優しく微笑んだ牧さんが私の手をギュッと握りしめる。だけど私はどうしても握り返すことが出来なかった。酷い自己嫌悪と、牧さんといるのに神くんを思い出してしまった罪悪感と、牧さんを裏切っている事実を直視したくなくて、『ごめんなさい』と小さく呟くことしか出来なかった。



















「なに?」

『もう…やめたい…』




もう恒例になりかけている朝の行為が始まる前に神くんに向かってそう言った。自分の意志が揺らがない様に、神くんに恐怖を感じたって逃げない様に、ギュッと下唇を噛み締めながら、自分の手で拳を作って必死で指に力を込める。もう、終わりにしたい。私は...神くんにもう、抱かれたくない。これ以上、牧さんを裏切るわけにも、傷つけるわけにもいかない。睨みつける様に神くんを見つめると、神くんは小さく笑って私の手を取る。どうせ引き留められるに決まっている。神くんがあっさり関係を終わらせるわけがない。そう、思っていたのに。神くんは「それを決めるのは田中さんじゃないって分かってるんだろうけど…確かに...そろそろ止めようか」と驚くことを口にした。私は驚いて『え…?』と神くんの瞳を見つめた。ドキドキ早くなる心臓の音が、この関係が終わりにできる喜びで起きているのか、別の理由で起きているのか分からなくて、神くんの手に引かれた自分の手が熱くなる理由も分からないまま、私の瞳が微かに揺れる。「田中さんが自分で言ったのに、なんでそんなに驚くの?」と私を見つめながら笑った神くんの気持ちが読み取れなくて、私は思わず神くんから目を逸らした。





『そうじゃ…ないけど…』

「もうすぐテスト期間になって部活が休みに入るから、土曜日学校が終わったら俺の家に来てくれる?その日で最後にしてあげるよ」

『今日じゃ…ないの?』

「今日が良いの?」





「俺は別に今日部活が終わったらでもいいけど?」と私の指に指を絡めた神くんの手が、何故だかいつもより熱く感じる。絡められた神くんの指を握り返すこともしない、でも払いのけることも出来ない私は『分かった…じゃあ土曜日に行く』と合意の言葉を返すしかなかった。





















「いらっしゃい。本当に来たんだ?」

『来てって行ったの神くんのくせに…』




土曜の放課後、学校が終わって神くんに言われた住所に足を運んで、”神”と書かれた表札の家の呼び鈴を鳴らした。玄関の扉を開いたのは神くん本人で私を見て少し驚いた様な、困った様な顔をして微笑んだ。私を部屋に招き入れてから「その辺座って。何か飲む?」と神くんは普段通りの接し方の筈なのに、私は神くんの匂いがするこの部屋でこれからされる事を期待しているのか、これで終わりと言う緊張感からなのか、喉が渇いて口の中がカラカラな気がした。だけど『飲み物なんかいらない。早く終わらせよう』とどこかに腰を下ろす前にそう言って神くんを見つめると、神くんは「最後なんだから、焦らなくてもいいんじゃない?」と少しだけ目を細めて笑った。





『そう...だけど...』

「何?今更牧さんに悪いって?」

『違っ...!私は...』

「じゃあ何?牧さんに悪いとは思ってないって事?」

『そんなんじゃ...ッ...』





ごくんっと喉を鳴らして飲み込んだ生唾が、私の口内を潤すどころか更に乾かして、私は何も言えなくなる。牧さんに悪い事してるって、ずっと...思っている筈なのに。私の口からは何の言葉も出てこなくて、神くんの反応を伺う様に一瞬だけ神くんを見つめてから、何故だか神くんの瞳を見つめられずにすぐに目を逸らした。神くんが「...田中さんってさ、自分で思ってるより分かりやすいよね」と溜め息まじりに呟いてから「じゃあ、田中さんが言う通り、早くやる事やろうか」と、自分のワイシャツのボタンに手をかける。「田中さんも脱いで」と催促する様に呟いた神くんの言葉に何か言い返そうと口を開いたけど、言うことなんて何もないのだ。終わらせたい。この関係を...だから私は神くんの言葉に従う様に自分のワイシャツのボタンに手をかけて、神くんの視線を感じながらゆっくりとボタンを外していった。『見ないで』と下唇を噛んだ歯に力を込めながら、ボタンを外していく私の手を神くんの手が遮った事に驚いて思わず神くんの顔を見つめるのに、神くんはいつもの様に澄ました顔をして「最後なんだから、ゆっくり脱いで」なんて囁く様に呟いて、私の口を塞いでいく。触れるだけのキスなのに、牧さんの時とは違う、身体が熱くなって、ジワリと私の何かが溢れる。嫌なのに、瞬きをして誤魔化すこの気持ちを自分の頭で理解できないのに、熱くなった身体が勝手に"もっと"と求めてしまう。空気を食んだ事に自分が気づく前に神くんが「何?もっとして欲しいの?」と吐息まじりの声で囁いた事で初めて自分のしている行動に気がついた。フルっと顔を左右に小さく振って否定してみても、神くんがそんな事を信じるわけもなくて「否定しなくてもいいよ。知ってるよ?田中さんは自分が思ってるよりも、悪い子なんだから」なんて意地悪そうな笑みを含んだ声でそう言って、私の口を再び塞いだ。私の口をこじ開ける様に入り込んでくる神くんの熱い舌が、部屋に響く水音が、神くんに掴まれた私の手が、私の瞳に映り込んでくる神くんの瞳が、勝手に漏れる私の甘い声が、私の身体を熱くさせる。違う。私は、こんな事自ら望んだわけじゃない。牧さんに、知られたくなくて、私が清らかな身体じゃないって、こんなにも、自分が厭らしい女だって、知られたくないだけなのに。頭でどんなに言い訳を並べたって、神くんに舌を絡め取られた瞬間に私の言葉なんてすぐに消えていく。それが悲しくて苦しいのに、背徳感が私の背中へ駆け巡る快感に変わっていくだけで、私の掴んでいた手を退かしながらワイシャツのボタンを器用に外していく神くんに抵抗なんて出来ないまま、私は神くんに身を任せる様に口から甘い声を小さく漏らした。





「目」

『...え?』

「目、潤んできてるね...田中さんが欲情してるって顔」





「その顔...まだ俺しか知らないんだよね」と笑みを含んだ声で言った神くんの言葉に私の顔と頭が一気に熱くなって、『違う』と否定するのに、再び口を塞がれる。雪崩れ込む様に神くんのベッドに押し倒されて、私の周りを神くんの匂いが包んでいく。それだけ、それだけの事なのに、私の中から何かが溢れる。ゾクゾクするこの感覚が何を意味しているのかなんて、本当は自分でわかっているのに知りたくなくて、ドキドキと早くなる心臓の音が、ただ、この関係が終わる事の安堵の音だと、信じたかった。