縋って、堕ちて







初めて彼女と会ったのは入学式の日、同じクラスで席が近い彼女は筆箱を忘れた様子で、焦った様に『ごめん、ペン貸してくれないかな?』と俺を見つめていた。俺がペンを貸して、そこから話す様になって、部活のマネージャーになると知った時も『神くん、バスケ部入るんだね!これからよろしく!』と笑った彼女に、俺はいつしか惹かれていたんだ。2年になってクラスが変わっても廊下ですれ違えば少し話しをして、部活の最中にも話しをして、帰りもタイミングがあえば途中まで一緒に帰ったりして、それだけで俺は楽しかった。筈だったんだ。これ以上を望んじゃいけないと思っていたのは、田中さんの好きな人を知っていたからかもしれない。田中さんの好きな人が自分じゃないことに気づくまでに時間はかからなかったし、きっと誰でも、好きな人が誰を見ているかなんて、嫌でも分かってしまうんだ。俺の方がずっと前から見ていたのに、彼女のことを、見つけたのは俺なのに。そんな事ばかりが頭を駆け巡って、自分で自分の気持ちに蓋をしているくせに苦しくて、気持ちを伝える勇気もない俺はただ、今のままの高校生活が、この穏やかな時間が、近すぎず遠すぎずとういう友達のままの距離感と関係が続けばいいと思っていたんだ。














彼女と牧さんが付き合った事を知ったのは、2年になってからすぐの事だった。噂で聞いただけでは確証なんて持てなくて、いや、俺はただ信じたくないだけだったのかもしれない。そこで俺は部活中に「牧さんと、付き合ってるの?」なんて言って田中さんを見つめた。田中さんは顔を赤くさせながら小さく頷いて『そう...なんだけど...秘密ね?』と、少しだけ歯に噛んだ。俺は「良かったね。田中さんずっと好きだったもんね、おめでとう」なんて思ってない事を口にした。悔しいなんて思わなかった。ただ、彼女が幸せならいいと、思ったんだ。それに、本当に彼女は幸せそうだった。好きな人の隣で、笑って、ふざけて、時には膨れっ面をみせて、牧さんと付き合ってどこまで進んでいるのかなんて考えたくもなかった。彼女はどんな風にキスをして、どんな風に愛を囁くのか、どんな風に...牧さんを、愛するのだろうか。考えたくないはずなのに、ふと彼女を考えた時に牧さんの顔まで浮かんでくる。振り払ったって隣にいるのは自分じゃないという事が苦しくて、気持ちを伝えているわけでもないのに馬鹿みたいだ。なんて、自分を嘲笑って、考えなければ、田中さんの事を見なければ、他の子に目を向ければ、他の事に集中すれば、うまくいくだなんて自分を誤魔化す日々が続いた。あの日、合宿の日に、少し熱っぽくて牧さんにその事を伝えると部屋を使ってくれ、とわざわざ個室を貸してくれた牧さんを裏切るだなんて、その時は本当に思っていなかったんだ。














熱っぽくて、汗ばんだせいか洋服が肌に吸い付くような感覚が気持ち悪くて、なのに、誰かが俺の身体を弄っている様な感覚に少しの恐怖を感じて、まさかお化けとかないよな。確かに古い建物だし、こんな真夜中に...。なんて考えていると、『ふふ』なんて、田中さんの声が聞こえてきた様な気がした。幻聴か、妄想か。正直どちらでも良かった。『牧さん』と、聞いたことがない様な彼女の甘える様な声に、俺の胸がザワッと苛立って、頭なんか働かなかった。『牧さん...?』と少し不安になった彼女の声に、匂いに、俺の身体に触れる手に、身体が密着したせいで感じる彼女の体温に、顔に近づいてくる息遣いに、どんどん脈が早くなる。『あ、の...牧さん?』と少し震えた様な声が聞こえて、牧さんじゃなると思うとこうも声色が変わるのか。と頭の中が一瞬カッと熱くなって、「牧さんじゃないけど」なんて、自分でも驚く様な低い声が口から漏れた。俺の声に驚いたのか、布団から出ようと身体を引いた田中さんの腕を掴んで、思わず入れ替わる様にして押し倒した。戸惑った様に『え...?』と不安そうな声を漏らした彼女に「だから牧さんじゃないって」なんてため息混じりに漏らすと、彼女が大きく息を吸い込んだ音が聞こえて反射的に田中さんの口を手で塞いで「シーッ...俺だよ。神」と声をかける。彼女は俺だとわかると強張っていた身体から少しだけ力を抜いて『ん、んん』と口を塞ぐ俺の手を軽く叩いた。「ごめんごめん」なんて彼女の口から手を離して、「さっき具合悪くて牧さんに変わってもらったんだ。驚かしてごめんね?」と自分で言った言葉なのに、牧さんじゃなくてそんなにがっかりするのか。なんて俺の胸が勝手に痛む。『そ、そうなんだ...私の方こそ具合悪いのにごめん...』と気遣う様な素振りと、俺とは言え組み敷かれていることに少しの恐怖を感じているんだろうか... 『手、痛いよ...』と暗がりでボヤッとしか見えない田中さんの顔のシルエットが、俺が掴んでいる自分の手首を見る様に横を向く。正直、身体がだるいし、少し熱っぽくて頭だって回ってない、そのせいで気持ちだって落ち込んでいるだろう。そこに彼女が俺の身体に触れて、牧さんの名前を読んで、それも、俺が聞いた事のない甘えた様な声色で。色んなことが重なって、いつもより頭に血が昇るのが早く感じるし、イライラするし、胸が苦しいし、理性なんかぎりぎりだし、こんな体制で、我慢できる奴いる訳ないと思うんだ。




「...この状況よく分かってないみたいだね」




田中さんを怖がらせる様な言葉を呟いて、反射的に俺の方を見た彼女の唇に自分の唇を軽く押し当てた。柔らかくて、リップでも塗ってるんだろうか。微かに甘い香りがする様な、だけど田中さんの香りがして、もっと、深く、なんて考えていると『嫌っ!』と声を荒げながら顔を逸らした田中さんの歯が俺の唇をかすった。ジワリと口の中に鉄の味を感じて、切れた箇所を探す様に指で自分の唇を拭いながら「...酷いな...口、切れちゃったじゃん...」なんて、酷いことしているのは自分の癖にまるで被害者の様に呟いて、血を拭った指を田中さんの口へ押し込んだ。こんなことして、罪悪感でも、持って欲しいんだろうか。この苦しい気持ちを何処かへぶつけることが出来ないから、だけどこんなことしたって無意味だし、今までの関係が崩れるだけなのに、分かってる癖に、自分じゃ抑えられなくて『やめて』と震えた声が聞こえて指を引き抜いてから、「夜這いしに来たのは田中さんの方でしょ?」なんて恐怖心を煽る様に耳元で囁いた。




『違っ...!』

「でも、浴衣って…やる気満々って感じだけど?」




彼女の浴衣を指でなぞって、指に触れた帯を解くとフワッと香る石鹸の香りにクラクラしそうだった。もし、ここに居るのが俺じゃなくて牧さんだったら...そう考えれば考えるほど胸が苦しくなって、頭の中で考えてしまう田中さんと牧さんの行為を勝手に想像して、余計に苛立っていく。「大声出さないでね」なんて呟きながら田中さんの香りに吸い寄せられる様に首元に寄っていった。そのまま、抑えられない自分の行動に駄目だ、なんて思うのに、止まらない俺の指が、彼女の大事な部分に触れる。熱くて、麻痺する様な匂いに、崩れていく俺の理性がより削れて、『初めてなの...だから...』と絞り出した様な掠れた田中さんの声に、プツッと俺の理性が切れる音が聞こえた気がした。











後悔ばかりが、俺の心を蝕むのに、ほんの少しの優越感があって、なのに苦しくて、なのに嬉しくて、彼女のことを思うたびに狂う様な俺の頭の中が余計に彼女を好きだと自覚させる。おかしいとわかっているのに、嫌われたと分かっている癖に、それでも俺のことを考えてくれていることが嬉しくて、もう近すぎず遠すぎずとういう友達のままの距離感と関係は続けられないと頭では分かっているのに、そのせいで逆に、この関係に縋る事でしか田中さんと一緒にいれる方法がないことに気づいてしまった。




縋って、堕ちて
(誰よりも君が好きなのに)




見てるだけで良いなんて、本当は思ってないんだ。