「おかえり」


『ただいま...じゃないですよ!なんで勝手に入ってるんですか!』







その日は金曜日の深夜0時を過ぎたところ、終電にギリギリの所で間に合った私は、週末なのに予定もないし、と駅前のスーパーで週末分の買い物を終えて普段通り家に帰った。玄関の扉を開けてリビングの明かりが微かに目に入った瞬間、当たり前のように居座っている彰にムムムと眉間に皺を寄せながらリビングへと足を進めて声を荒げる。彰は「いつもより遅かったから彼氏のところにお泊まりかな、なんて心配しちゃった」なんて眉を寄せながら小さく笑った。私はその言葉にさらにムッとしながら『彼氏なんて居ないって、言ったじゃないですか...』と口を尖らせる。彰は「そーだっけ?」なんて私から目を逸らして広げていた漫画に視線を戻した。私が漫画の表紙を覗こうと顔を傾けると、彰が手にしていたのは私のお気に入りの少女漫画で『勝手に読んでる!!』とさらに声を荒げると、彰は「昨日一応許可取ったよ?」なんてしれっとした顔をして小さく笑う。私はあれ?そーだっけ?なら良いのかな?なんて仕事で疲れていたためこれ以上頭を回転させることをやめた。だけど例え漫画を読む許可を取っていたとしても勝手に部屋に入って良い。とは言っていない筈だ。私が何も言えずに突っ立っていると彰は漫画を置いて私の手にかかっていたレジ袋を受け取って「今日もお疲れ様」なんて言いながらレジ袋から缶ビールを渡してくるもんだから『それ、私が買ったんですけど...』と口を尖らせながら缶ビールを受け取った。「うん、そーだね」なんて私の頭にぽんぽんと軽く手を置いて「疲れてるんだし座っときなよ」と私を半ば無理やり座らせるとレジ袋を持って冷蔵庫へと足を進める。人の家の冷蔵庫を...友達でも彼氏でもないのに勝手に開ける心理とは...。なんて横目で彰を見つつ、私は缶ビールを開けてグイッと口の中へビールを流し込んだ。














あの日、彰にご飯をご馳走してからというもの、何かにつけて部屋に入ってくる彰に、変な人に好かれた...と肩を落としつつもこの関係性を不思議に思っていた。社畜の私は友人とも時間がなかなか合わずだし、こんな生活しているもんだから恋人なんて何年前に別れたのかもう忘れたくらいだったしで、人と話す事自体が最初は楽しかった。だけど彰が現れてからその...夢に彰が出てきてしまうのだ。しかも彰が出てくる夢は出会った日の様な破廉恥な夢で、実はあの出来事も夢だったのかもしれない。欲求不満だから?それとも頻繁に彰と話しているから?と夢に出てくるのは願望だったりするとか言うし、彰を意識しないなんて出来る筈もなかった。しかし彰のことをほとんど何も知らない。なんの仕事をしているのか、とか、私が仕事している間何をしている、だとか、年齢、交友関係、趣味、考えれば考えるほど彰のことを知らなさすぎる。私が知っていることなんて、名前と隣の部屋に住んでいることくらいだ。それに壁も通り抜けられるし、この世に存在すらしない幽霊かもしれない。人間にすら恋できないなんて、不毛な人生だ。なんて馬鹿なことを考えて、またビールをゴクリと勢いよく胃に流し込んでいく。空きっ腹にお酒を流し込んだからだろうか、それともクタクタに疲れた金曜日だからか、いつもよりも酔いが回るのが早い気がした。彰は「あれ?乾杯しようとしたのに、もう飲み終わっちゃったの?」なんて自分のビールを机に置くと、空になったビールの缶を私の手から受け取っていく。『それ、私が買った...』んですけど、と私が続ける前に彰が人差し指を私の唇へそっと置いて「あはは、これ、俺が買ったんですけど」なんて眉を寄せて小さく笑った。私はその言葉に『あ、し、失礼しました...』と口にしてから、俺が買ったのはいいけど、人の家の冷蔵庫に勝手に物を入れるな、とツッコミを入れたかったのに、唇に触れた彰の指の体温を感じてカアアッと顔が熱くなって何も言えなくなる。彰は「花子ちゃんのお酒も取ってくるから、良い子で待ってるんだよ」なんて少しだけ目を細めて笑うから、余計に顔が熱くなってこくりと静かに頷くことしかできなかった。と、言うか冷蔵庫とここまでの距離で良い子にしてろなんて初めて言われたし、かっこいいし、ドキドキするし、心臓破裂するし。なんて、彰を意識しているからなのか、私の唇に触れた彰の指の熱のせいか、それともお酒のせいなのか、私の心臓はドキドキと脈打ってうるさかった。私は誤魔化す様に、先ほど彰が読んでいた漫画を拾い上げて適当なページをパラパラめくって気持ちを落ち着ける様に漫画へと視線をずらしていく。なのに全然落ち着かないし、内容なんか入ってこないし、彰はすぐにこっちに戻ってきちゃうしで軽く1人でパニックを起こしていたら、彰が横から漫画のワンシーンを指差して「こう言うことされたいの?」と私の耳に息がかかる距離で言うもんだから私の頭は爆発寸前だった。しかも彰が指さした漫画のワンシーンはヒロインが不意打ちでキスされるシーンで余計にパニックになって、『い、良いから!お酒飲んじゃおう!』なんて半ばやけくそに彰の手にあったお酒の缶を強引に奪い取って勢いよくゴクゴク、と飲み込んでいった。
















『彰って結局何者なんですか?』


「んー?」





お酒が進んでいくうちに気分が良くなって、気持ちも大きくなった気がする。お酒って本当にすごい。そんなこと思った矢先、お酒の力もあってついに聞きたかった言葉を、ゴクゴクとお酒を流し込んでいる彰に向かって問いかけた。お酒の力を借りなければ聞けないことだって世の中にはあるのだ。彰はしばらく私を見つめた後に「驚かない?」と冗談まじりに笑って、また私を見つめた。私は『た、たぶん』と、やはり幽霊説は正しかったのかも、なんて思いながら彰の言葉を待つ様に生唾をごくりと飲み込んだ。







「淫魔だよ」


『インマ?』






酔っていたこともあって回らない頭で色々と頭を駆け巡って出た答えは、彰は日本人ではなくインマ、とか言う国?民族?か、何かなのかな?と思って『へー、そんな民族が世界のどこかにはいるんですね?ほー、知らなかったー』なんて馬鹿なことを言ってる私を見つめていた彰がブハッと吹き出して「あはは、要は悪魔だよ」なんて言うもんだから、私の頭は余計に混乱してしまった。と、言うか自分を悪魔とか言う奴にろくな奴は多分いない。そして厨二である。お酒を飲んでいるんだから成人しているわけであって、成人してるんだからそろそろ卒業して欲しいところだ。と、言うかヤバいやつに絡まれているんじゃないか?なんて改めて冷静に思って『あー、あ、そうだ!そろそろ夜も遅いし...か、かいさーん!』と、下手くそすぎる誤魔化しを入れた私を見て彰が小さく笑った。途端に自分の手首を自分の爪で血が出るほど強く引っ掻くんだから驚いて何も言えなくなってしまって、こいつマジでやばいやつだ。とお酒で酔った頭も冷静になり、スーッとアルコールが体内で急速に消化されていく気がした。自分に何か危害を加える前に諭そうと『う、うん悪魔は分かったから!』なんて彰をチラリと見ようとすると、彰が片手で私の両頬を掴んで無理やり唇を押し当ててくる。え?え?なんで?と、混乱する時間もくれないまま彰の熱い舌が私の口の隙間からヌルリと滑り込んで、私の舌を器用に絡めとりながらジュルっと音を立てて私の唾液だかなんだかを吸い上げていく。何度か軽いリップ音がした後に、まだするの?と思うほどに長い時間が過ぎた気がした。冷静になった筈の頭がまたお酒に酔った時のようにフワフワと浮ついて、身体も頭も熱っていく。彰の片手で私の背中を優しくなぞられると、ゾクゾクッと私の背筋に何かが走って、口の隙間から私の甘い吐息が小さく漏れた。ちゅっと音が聞こえたかと思えばまた口内に入ってくる彰の舌に翻弄される様に身体中に電気が走る。ビクッと腰が揺れた途端に離れた彰の唇が、自分の唾液なんだか彰の唾液なんだかわからないけど艶めいているのが目に焼きついたように離れなくて恥ずかしくて仕方なかった。乱れた呼吸と蕩けたような頭を落ち着ける様に、『なんで...』急にこんな事したんですか...なんて私が全部口にする前に彰の人差し指が私の唇に優しく触れる。彰は小さく笑って「花子ちゃんのおかげで治ったよ」と先程自分で引っ掻いた手首を私に見せつけた。治ったってなにが...?と、頭にハテナを浮かべつつ視線を送ると本当に傷なんか跡形もなくなっていて、私は彰の手首をガシッと掴んでマジマジと見つめてしまう。なんだこのマジック、女を落とすためのテクなんだろうか。なんて不思議に思いつつも、キスだけで傷が治るなんて悪魔らしくない...なんて悪魔のことなんか一つも知らないのに首を傾げると、彰は私の唇から指を離してツンツンした自分の髪の毛をガシガシっと荒っぽく乱してから、彰の手首を掴んでいた私の手を引っ張って自分の頭へと誘導していく。私は何が何だかわからなくて、誘導されたってことは、触ってって事だろうか?と思った途端に乱れた髪の中に埋もれた石のような何かが指の先に当たって思わず『え?』と声が漏れてしまった。それが何なのか分からなくて、指で確かめる様におずおず進めていって、掴める太さだと気付くと、掴んで思いっきり引っ張ってみる。その瞬間に、彰が「いてて、引っ張るのはやめて欲しいな」と困ったように笑いながら私の手首から手を離して、私が掴んだナニかを見せつける様に髪をかき分けた。そこにあったのは人間にはないツノのような何かで、私はびっくりしてツノから手を離すと、彰は「俺が悪魔だって、信じた?」と、上目遣いで私を見て小さく笑った。






淫魔...とは?
(悪魔、え?誰が?)



『え?あ...えぇ...?』


「怖い?」


『こ、怖いって言うか...その、悪魔って...え?』


「あはは、大丈夫。人肉とかは食べないから。普通に花子ちゃんと一緒にご飯食べてるでしょ?」


『そ、そうだけど...え?じゃあ人間とどう違うの?』


『精気を食べる、とかかな?」


『せ、精気?それって魂吸ったりするアレ?』


「似てるけどちょっと違う...えっちなことして、体液を少しもらうだけ、例えば夢の中とかで」


『え?夢...え?』




情報量が多くて追いつかなくて呆気に取られている私を他所に、彰はまた私の唇を軽く奪って「また、食べさせてね」と出会った日と夢の中で必ず言う言葉を口にした。つまり夢だと思っていたアレは、夢ではなかったのだ。と知って思わず顔が熱くなって、壁に消えていく彰に向かって近くのクッションを投げつけた。









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