仕事でクタクタになって家に帰ったのは23時過ぎ、返事が返ってくるはずもないのに『ただいま』と呟いた。玄関の鍵を閉めた後、リビングへ足を運んで電気のスイッチを入れると「おかえり」と横から声が聞こえてビクッと体を強張らせながら横を向くと、壁から顔を出した男がこちらを見ていた。朝、隣の部屋に越してきた、と挨拶してきた...確かせん...なんとかとか言っていたかも。まさかまた幻覚を見るなんて...いや、仕事しすぎていつ帰って寝たのか覚えてないんだ。それか帰りの電車で気づかないうちに寝落ちしちゃったんだ...。と思いながら怖くなって男から距離を取る様に後退りをする。男は困った様に笑って「ごめん、驚かせちゃった?」なんて悪びれる様子もなくそう言って、壁を通り抜けて私の部屋に勝手に足を踏み入れた。え?どうしよう、こんなこと現実にあるわけがない。朝は寝ぼけてたから、きっと忙しい毎日に疲れてたんだ。と思っていた。いや、もちろん今も疲れてる。だからこんな夢見てるんだ。なんて自分に言い聞かせて、朝と同じ様に自分の頬を強くつねった。やっぱり痛い。夢じゃないのかも...。と考えていた矢先、男が私との距離を詰める様に足を進めて「やっぱり突然入ったら怖がらせちゃうかな?」なんて言って眉を寄せながらニコッと笑った。その後すぐにグギョギョギョと凄まじい音が聞こえて男が自分のお腹をさすりながら「実は全然飯食えてなくて...あはは...」なんて笑うもんだから、戸惑いつつも『あ...ご飯...食べたら帰ってくれます?』と確認する様に私の口から言葉が漏れる。そうだ、お腹が空いて奇行に走っているのかも。でも壁を通り抜けられるわけじゃない。あ、そうだ幽霊なんだ。お腹空いてるから成仏できないのかも。と今までそう言った類のものを見た事があるわけでもないのに1人で変に納得して、その男を見つめていく。男は「優しいね。じゃあお言葉に甘えちゃおうかな」なんて呟いて少しだけ目を細めた。





『あ、あの...着替えてからご飯作るので...』


「ん?」


『...その...着替えてる間は外に出てもらえますか?」






私がそう言うと、男は「あ...あはは、そっかー。ごめんごめん」なんて平謝りでまた壁を通り抜けていった。私はと言うと、男が通り抜けた壁をしばらく見つめて、目をゴシゴシと擦ってから確認する様に壁に触れていく。別に何の変哲もない普通の壁なんだけどな...。と不思議そうにしばらく壁を見ていると、突然また壁から男が顔を出して「言い忘れてたんだけど、終わったら壁叩いてくれる?」なんて言うもんだから、私は驚きつつ『は、はい...』とうわずった声を出して返事をした。「じゃ、また後で」なんて再び壁に消えていく男の姿を見て、腰が抜けた様にへたりとその場に座り込んだ。


















とりあえず着替えて、適当にご飯を作り終わってから壁をコンコンと叩いて『ご飯...出来ましたけど...』と呟いた。何回かコンコンと叩いても返事がなくて、壁に向かって『あの...』と投げかけて何してるんだろう、と考えて壁から手を離していく。疲れてて本当に幻覚でも見えてしまったんだろうか...。なんて思っていたらピンポーンとチャイムの音が部屋に響いて、こんな時間に誰?と玄関の扉を開けると「壁からだと驚いちゃうかなって思ってさ」なんて先ほど壁に消えた彼が意地悪そうに小さく笑う姿があった。




『え、あの...夜中ですしどっちにしても驚きますよ...』


「あはは、そっか。ごめんね」





「入ってもいいかな?」と首を少し傾げた彼に『どうぞ』と小さく呟いた。普段こんなことは絶対にしない。知らない人だし、なんなら男性だし...。でも、どうせ断っても壁から入って来れちゃうんだから仕方ない。と自分に言い聞かせながら彼を部屋へ招き入れる。机に並んだ出来合いの夕ご飯を見るなりまた彼のお腹の音が部屋に響いて少し笑ってしまった。「美味しそうなご飯が目の前にあるから」なんて言って笑った彼の顔に、懐かしさを覚えたのは何故なのか、全く分からなかった。



知らないはずの、謎の男
(胸が何故だか苦しくなる)



「美味い!」

『ありがとう...ございます...えっと...』

「ん?あぁ...朝一応名前言ったんだけど...覚えてない?」

『すみません...壁通り抜けられる人を見るの、初めてだったから驚いちゃってて...』

「そっか。俺は...仙道、仙道彰だよ。よろしくね、お隣さん」

『...田中...』

「ん?なに?」

『田中、花子です...』

「...そっか、よろしくね花子ちゃん」




この日から私と彰の不思議な関係が始まった。









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