牧くんが契約書を破った日、私はベッドに入っても涙が止まることがなくて、嫌な考えばかりが頭に浮かんでいた。私はもう牧くんの下僕でもなければ、家政婦でも無くなった。つまり、この家にいる理由がなくなってしまったんだ。これからの事もそうだけど、牧くんはまた、別の人を家政婦として雇うんだろうか。私以外の家政婦を牧くんが雇ったとして、その人にも私と同じ様なことをするんだろうか。勝手に想像していったイメージのせいで苦しくなった胸が余計にズキっと痛くなる。牧くんは私のことを本当に下僕、としか思っていなかったことも悲しくて、私の中の牧くんへの想いが、何故だか余計に溢れてきて、喉の奥がグッと苦しくなっていくのと同時に、私の頬を濡らす涙が更に溢れていく。その夜、私は眠る事なんかできなくて、カーテンから溢れる様な朝日がいつも以上に眩しく見えた。




















『牧くん。おはよう』


「あ、あぁ...おはよう」




いつも通りの朝が来たみたいに、私は牧くんの朝食を用意してテーブルに並べていく。途端にリビングの扉が開くと、牧くんが驚いた様な顔をして私を見ていた。私はいつも通り挨拶をしたけど、牧くんは戸惑った様に挨拶を返してくる。すぐに「もう、家政婦じゃないんだからしなくても良いんだぞ」なんて困った様に笑って言って、私はその言葉にズキッと胸を痛めながら『私が勝手にやってるだけだから』と、私も困った様に笑ってみせた。そう、こんな事したって、牧くんの気持ちが変わる事はない。意味がない事はわかってるのに、私はやらずにはいられない。だって、このまま何もしなくなって、私はどうすれば良いのかわからなかった。部屋に閉じこもる?すぐにこの家を出ていく?でも、牧くんは後のことは今日話すって言ったんだ。少しでも、牧くんに私を良く見せたかった。そして、あり得ないとは思うけど、牧くんがまた、私に興味を持ってくれれば良いのに、なんて馬鹿みたいに思ってた。




『牧くん、今後の話...なんだけど』


「悪い、今日朝一で会議がある。帰ってきたら話そう。それと...作ってもらって本当に申し訳ないんだが、食べる時間がないんだ。すまない」


『そう...なんだ...』




『わかった』なんて私が言う前に牧くんがテーブルに置かれてる味噌汁を一口飲んで「今日も美味いな」と、小さく笑うせいで、私の痛んだ胸がまた、痛んだ気がした。「冷蔵庫入れておいてくれ。夜に絶対食べるから。今後のことも、ちゃんと話そう」なんて言った牧くんが腕時計を確認するみたいに手首に視線を移して「いってくる」と、私の見送りの言葉も聞かずに足早に玄関に向かっていったせいで、本当に急いでいるのか、私を避けているのかよくわからなかった。




『牧くんは、ずるいなぁ...』




なんで、今日も美味しいだなんて優しい言葉を言うんだろう。そのせいでまた私の胸が苦しくなるのに、朝食だって、夜食べるメニューじゃないし。こんな苦しくなる様な牧くんへの気持ちを、朝食ごと捨てちゃいたかった。なんて、勿体無いことはできない私はテーブルに並べられたご飯にラップをして、牧くんの言った「もう家政婦じゃないんだから」の言葉をかき消すみたいに買い物に向かっていった。
















買い物から戻った私は、鍵を開けようとして驚いた。あれ?鍵開いてる、私鍵かけ忘れちゃった?なんて思ってスーパーの袋を持ち直して玄関の扉を開けると、玄関には牧くんの革靴と、見慣れない靴が置かれていて、買ったものを全部落としそうになった。だって、玄関に置かれていた靴は、女性もののピンヒールだったから。え?なんで?誰?と、言うか牧くんなんで家に帰ってきてるの?なんて思いながら、私の胸が苦しくなっていくのと同時に思考がどんどん止まっていく。玄関で立ち尽くすみたいに動けなくなった私の耳に、牧くんの声と女性の声が聞こえてきて、牧くんの寝室から牧くんとスーツを着た綺麗な女性が部屋から出てきたのが見えた。途端に「田中」と、私の名前を呼んだ牧くんの声が聞こえて、私の止まった思考が動き出すみたいに頭が熱くなっていって、なんで、誰?その人が、新しい家政婦の人?次に、牧くんが私と同じ様なことをする人なの?なんて思いながら、どんどん胸が押しつぶされるみたいに苦しくなっていく。牧くんの隣に立っていた女性は私と正反対の様な見た目で、仕事ができそうで、もちろん大人の色気もある様な、私とは全く違うタイプの女性だった。朝一で会議、なんて言いながら本当は家政婦探しでもしてたの?私と出会った時みたいにその人にも、コーヒー溢された?なんて、馬鹿みたいな事ばっかり頭に浮かんでいって、私の視界が滲んでいく。『牧くん』と、勝手に口から漏れた自分の言葉に、耐えられないみたいに玄関から飛び出した。もう、家政婦じゃないんだもん私、牧くんに片想いしてる、ただの同級生で、他人だし、関係ないんだ。何、家政婦みたいな馬鹿な事してるんだろう。と、急いでエレベータのボタンを押して、後ろから呼び止める様な牧くんの声が聞こえないみたいに、私はエレベーターの階数表示ランプをじっと見つめた。早く、早く。今、牧くんのこと見ちゃったら、また苦しくなる。なんて思うのに、牧くんが追ってくることを、私は期待してしまった。そんな期待通りのこと、起こるわけないのに、どうしたって牧くんが好きな私は、自分に都合のいい夢を見るみたいに、そんな馬鹿な期待をしてしまう。




「花子!」




「なんで逃げたんだ」なんて、牧くんの声が私の後ろから聞こえた。夢なんかじゃない。牧くんが私を、追いかけてきてくれた。そんな事が酷く嬉しいのに、同時に私の胸はどんどん苦しくなっていくみたいに痛んでいく。そのまま振り向かない私の腕を牧くんが掴んできて、私はそれでも振り向けなかった。溢れそうな私の涙のせいでエレベーターの階数表示すら滲んで見えなくて、「花子?」なんて私の名前を呼んだ牧くんに、さっきは苗字で呼んだくせに、なんで名前で言い直すの?と、馬鹿みたいに変な期待ばかりが私の頭を掠めていく。




『牧くんって、本当にずるい、ね』


「え?」


『なんで牧くんは突き放したくせに、私に優しくするの?なんで、私のこと好きでもないくせに、私の事名前で呼んだりするの?牧くんが、期待なんてさせるから...苦しいの...』






『もうこれ以上...私に、期待させないでよ...牧くん』なんて続けるように言ってから、牧くんの方を振り返ると、牧くんは眉を寄せて、呆れてるみたいにハァなんて小さくため息を漏らした。牧くんの仕草に、溜まった涙が溢れたみたいに私の頬に涙が伝っていって、牧くんの手が私の頬にそっと触れる。『私、期待させないでって言ったよね?』と、私が口から漏らす前に、牧くんが私の唇を塞いでいって、エレベーターホールにチュッと小さなリップ音が響いた。




「花子...」


『ま、牧くん?』


「誰が、好きでもないなんて言ったんだ?」


『...え?だって...』


「...ずっと...好きだったんだ」


『え?ずっと、って...?え?』


「高校の頃から...花子の事ばかり見てた...」





「好きなんだ」なんて、牧くんが信じられない様な言葉を呟いて、私の唇をまた奪っていった。驚いて動けない私は、そのまま牧くんの口付けに応えるみたいに唇から力を抜いていって、頬に当てられた牧くんの手をぎゅっと握りしめる。頬を伝っていく涙がまた溢れてくるみたいに、もう苦しくないはずなのに私の涙は止まらなかった。嘘じゃないよね?夢?じゃ、ない?と、確認したいはずなのに、離れては塞がれる牧くんの口付けに、私の胸が熱くなっていく。離れた拍子に『牧くん』と、声を漏らした私に牧くんが「花子は?」なんて困ったみたいに眉を寄せて、私は牧くんのそんな些細な仕草にも、胸が熱くなっていくみたいだった。




『私も...』


「ん?」


『あの、私も...』


「なんだよ、ちゃんと言えるだろ?」


『わ、私も...牧くんが大好き!』




ギュッと目を瞑りながら思いっきり大声で叫んだ私に、牧くんがあはは、なんて声を出して笑って「嬉しいけど、少し声のボリュームを下げてくれ。住民に聞かれそうで恥ずかしい」なんて言ってから続け様に「俺も、大好きだよ」と、私の耳元で小さく囁いた。うわーん!なんて泣き出した私をギュッと抱きしめる様に私の背中に腕を回した牧くんの後ろからゴホンッと強めの咳払いが聞こえて、私は咳払いの聞こえた方に、視線を移す。そこには、先程牧くんの寝室から出てきた綺麗なスーツの女性が立っていて「社長、業務後にお願いします」なんて言いながら眉を寄せていた。「悪い。今日はもうあがらせてくれ」と、訳がわからない発言をした牧くんとスーツの女性が少しやりとりをした後に、スーツの女性が「ひとつ、貸しですからね」なんて言って、タイミングよく到着したエレベータに乗り込むと「それでは社長、お疲れ様でした」と、お辞儀をして去っていった。




『え?帰っちゃったけど、いいの?』


「ん?なんの心配してるんだ?」


『だって...あの人新しい家政婦の人でしょ?』




そう言ってエレベーターを指差した私に、牧くんが何故かまた笑って「彼女は俺の秘書だよ」なんて言って私の頭をポンっと軽く撫でた。私がホッとしたのも束の間で、牧くんが「なんだ?妬いたのか?」なんて意地悪そうに私の耳元で囁くもんだから、私の顔と頭がカァッと一気に熱くなる。『妬いてない』と眉を寄せながら口を尖らせた私に「そうだな」なんてクスクス笑った牧くんに、私はまたグッと眉を寄せた。






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