「もうやめへん?」




出張があった次の週の金曜日、俺は田中を家に呼んだ。田中が俺の部屋に入って、ソファーに座ったのを確認すると、俺はそう言ってポツリと呟く。俺の言葉に田中が『え?』なんて固まったみたいに俺を見つめてきて、聞こえてへんかったわけやないやろ?なんて思いながら、俺はそのまま田中を見つめて「やから、もうやめへん?」と、もう一度田中に確認するみたいに問いかける。瞬間に田中が俺から目を逸らして『私に、飽きちゃいました?』なんて悲しげな表情で呟いた。ちゃう、飽きたんはお前やろ。俺以外にも、相手がおるやん。部長とか。なんて言葉は俺の口からは出てこなくて「仕事に支障きたす前に、やめとこうや」と、当たり障りのない言葉を呟いた。田中はしばらく黙って、赤くなったような瞳で俺に視線を戻すと『わかりました』なんて小さく呟く。俺は「ほな、今日は部下と上司として、宅飲みでも」と、切り替えるみたいに言った言葉を『今日で、最後にしますから』なんて遮るように田中が呟いて、ソファーから立ち上がると同時に俺の唇を奪っていった。なんで、そんな顔すんねん。俺と離れたくないみたいやんか。頭で考えてる俺の期待を掻き消すみたいに田中の口づけに応えていって、俺は田中の口内に舌を滑り込ませていく。俺の舌を迎えるように絡んできた田中の舌が、溶けてしまいそうな程に熱かった。同時に俺の胸は苦しくなっていって、田中を抱きしめるみたいに腕を背中に回していく。なんで俺、こいつの事好きやねん。変なやつやったやん。顔が淳子に似てるだけ、せやから余計に胸が苦しくなるんやろ。そんなことを心の中で呟いて、俺は唇を離すと「ほんまに、最後やからな」なんて自分に言い聞かせるようにため息まじりに呟いた。そうだ、田中は俺のことなんて本当は好きじゃない。俺に気があるフリして、他の男にもそうやって気があるフリしとるんやろ?自分で勝手に想像したくせになんだか妙にイラついて、同時に田中を強引にソファーに押し倒した。




『あの、ベッドに...』


「ええわ、ここで」




言いながら田中に覆いかぶさって、また唇を重ねていくと、隙間から漏れ出ていく田中の甘い声が俺の身体を熱くさせていく。田中のブラウスのボタンを徐々に外して、田中の唇から離れて田中の首に顔を埋めていくと、小さく漏れ出る田中の甘い声が俺の耳に届いた。それと同時に他のやつにも聞かせてるんだと思うと俺の中でどす黒い感情がどんどん溢れていくみたいに、田中の首筋をいつもよりも強く吸い上げる。唇を離してチラリと田中の首を見ると、かすかに赤い痕が俺の視界に映って、まるで、俺だけの印をつけてるみたいだった。同時に馬鹿みたいなことをしているって気がついて、俺は田中の身体から離れていく。




『南主任...?』


「あかんわ」


『え?』


「抱かれへん」




今抱いたら、酷い抱き方をしてしまいそうだった。そうでなくても既に出張中に酔っただなんて言い訳して、強引に抱いてしまったんだ。今日は酒を一滴も飲んでないし、酔ってるだなんて言い訳は通用しない。「田中...」俺だけやったあかんの?と、言おうとした俺の言葉を遮るみたいに田中が『私じゃ...やっぱり、無理でした?』なんて震えた声で呟いた。




『私じゃ、忘れさせるなんて、無理でしたよね』


「は?何言うてんの?」


『忘れられない人がいるって言ってたじゃないですか...まだ忘れてないんですよね?』


「...お前...なんで、知ってんねん」


『やっぱり、覚えてないですよね...』




言いながら田中が俺から離れていって、自分の鞄をガサゴソ探るみたいに手を伸ばす。様子を伺っているみたいに視線を送った俺に、田中が差し出してきたのは黄ばんだような名刺一枚で、その名刺には俺の名前が書かれていた。続けるように田中が『前に、会った事あるって言ってたの覚えてます?』なんて涙まじりの声で呟いて、俺は初めて田中を抱いた時の田中の言葉を思い出すみたいに静かに頷く。




『5年くらい前、私が高校生の頃です。南主任は...酔ってて...覚えて、ないですよね...』




言いながら俺の事を見ない田中が、俺の言葉を待ってるみたいに下唇を噛んでいるのが見えた。俺は昔のことを思い出すみたいに目をギュッと瞑って、頭の中を整理するみたいに奥歯を噛み締めた。記憶を辿っていったって、一瞬で思い出せるわけなんかなくて、俺は「覚えてへん」と、瞼を持ち上げて田中を見つめる。俺の視線の先にいた田中は酷く悲しそうな顔をしていて、俺の胸はどんどん苦しくなっていく。俺は過去に、何言ったんや。何言って、田中にこんな顔させてるん。なんで俺は、過去になんて囚われてるみたいに、田中を抱きしめられへんのや。






『南主任は、私を抱いてる時...少しでも私のこと、想ってくれてましたか?』





言った瞬間に田中の瞳から涙がこぼれ落ちていって、俺の言葉を聞く前に『ごめんなさい。ちゃんと、しますから』なんて言って鞄とジャケットを手に持って、帰る準備をしているみたいだった。「田中、待ってって」と、田中の手首を掴むと田中は『なんで、期待させるようなことするんですか』なんて言ってさらに涙を溢れさせる。俺は、それはお前の方やろ。と、言葉にしたかったのに、田中が俺の手を払い除けて『ちゃんと...部下と上司に戻りますから』なんて俺でもわかるくらいに無理矢理笑顔を作って見せた。パシッと軽く払い除けられた俺の手が痛いはずないのに酷く痛んだ気がして、俺の胸が余計に苦しくなっていく。同時に俺の中に疑問が生まれていって、俺のこと好きやなかったんちゃうの?俺の一方通行なんやろ?俺以外にも相手がおるんやろ?と、玄関に向かう田中の手に腕を伸ばした。田中、意味わかれへんわ。俺の事、なんとも思ってないのはお前の方やろ?どんどん自惚れていく俺の感情が溢れ出ていって、溢れた感情に耐えるみたいに俺の喉の奥が苦しくなっていく。同時に掴んだ田中の手首が、弱々しく震えているような気がして、俺は掴んだ田中の手首を強く握りしめた。





『...辛くて、わけわかんないんです』


「...田中?」


『南主任を好きな事が、辛いです』





『もう、全部やめたい』なんて言った田中の頬に流れた涙がポロポロと伝って、玄関の床に落ちていくのが見えた。俺は何にも言えなくて、ただ、田中が俺を好きっと言った言葉だけが頭に残っているみたいに、何度も何度も頭の中でグルグル回っていく。俺のこと、好きなくせに...何で他の男に抱かれてんねん。嬉しいはずの言葉なのに、その言葉が信じられないみたいに胸がどんどん苦しくなっていくのと同時に喉の奥が苦しくて、焼ける様に熱くなる。自分の気持ちを言ってしまえば楽になるのに、田中が言っていた5年前の出来事も思い出せないし、他の男に抱かれてるくせに田中が俺を好き、と言うことが俺には許せなかった。ギュッと握った田中の手首を更に強く握りしめて、「俺のこと好きなん?」と確認するみたいに問いかける。俺の言葉に田中が俺から顔を逸らしていって、『だったら、何か変わりますか?』なんて俺の手を払い除けるみたいに田中が腕に力を込めていく。それと同時に俺の胸が更に苦しくなっていって、他にも男がおるくせに、なんで期待させてくんねん。アホか。全世界の男は私のもの、とでも思っとる魔性の女か、アホ。と、心の中で思いながら、俺は田中の首に顔を埋めていって自分の唇を寄せていく。舌を這わせた後に強く吸い上げると『やめて、くださ...私なんか、抱けないんじゃ...やッ...』なんて田中がモゴモゴ言いながら、小さく甘い声を漏らしていく事に満足したみたいに俺は唇を離した。俺の唇を当てた田中の首に、また、俺だけの印をつけたみたいに赤くなった痕が見えて、痕がついた部分を指でなぞる。田中が他の男に抱かれた時に、この痕を見られて少しは焦ればええんや。なんて眉を寄せる。こんなしょうもない独占欲、今のこの状況で田中に向けたって意味ないのに、田中の言葉でどんどん自惚れていって、馬鹿みたいだって思うのに、俺の心臓はどうしたって早くなる。瞬間に田中の手によって俺の頬が痛んでいって、一瞬何が起こったのか分からなかった。横目で田中が怒ったように涙を更に溢れさせていって『好きじゃないならこんな事...しないでくださいよ!』なんて怒鳴るように吐き捨てて、俺の部屋から勢いよく出ていく音が聞こえるのに、俺はその場から暫く動けないまま、ヒリヒリと痛むような自分の頬に手を当てた。







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