Chapter 3
「ヴァースナーには悪いが、しばらくは標的になっていてもらうとするか。姉は馬で遠乗りしたりするのが好きなひとでね。外出できないので苛立ちやすくなっているのだろうな。テアには姉の世話まで頼んでしまっていて申し訳ない。無理な要求をされたら遠慮なく私に密告してくれ」
テアを庇うようにして、ヴェイセルは角を曲がった。
「うちに来てひと月は経つけど、ちょっとは慣れたかな?」
眼鏡越しのやわらかな蒼の目を上目遣いに見つめて、テアは頷いた。
雪を孕んだ鈍重な雲は、綿菓子のようなそれと混ざり合い、斑の陰影をもって天に横たわっていた。冷気の腕を受け流しながら、ヴェイセルは歩を進める。小走りになりかけたテアに気づき、青年は歩調をゆるめた。
「エメリは本が好きなのかな。よく教会から借りているのかい?」
「はい。わたしがエメリさまに仕えるようになってからのことしか知らないんですが、レドルンドのお屋敷にいる頃からずっとです」
「テアも、本が好きかい?」
「わたしは、まだ、好きなのかどうかもよくわからなくて」
困惑から平静さを欠いたテアに、ヴェイセルが首を傾げる。
「わたし、今、助祭さまに字を習っているところなんです。まだエメリさまみたいには読めなくて。でも、でも、読めるものが増えていったりするの、とても嬉しくて」
輝く目をもって見上げてくる少女に触発されてか、屈託の無い微笑が青年の唇を彩った。
「じゃあ、返却ついでに今日も字を習ってくるんだね」
「はい。助祭さまにお時間があれば、ですけど」
道の両端に聳え立つ家々の影に染まりながら、青年と少女は進んでいく。影が薄まるにつれ、人通りが多くなり、先の広場から喧騒が流れこんでくる。石造の壁が拓け、気まぐれに冷気が駆け巡り、灰色の空が頭上を埋め尽くした。
青年は身を屈め、少女の目を覗きこみながら本を手渡す。
「リカルドゥスによろしく」
「はい!」
笑顔を弾けさせ、踵を返して駆け出したテアを、青年は見送る。抱いた雪を手放しかけている空の下で、教会を目指すちいさな背中は、間断なく渦を巻く雑踏に紛れていった。
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