Chapter 5


「貴女になら、どうにかすることできる、と?」

 天空を透かす雲の流れる天鏡の、照り輝く深く澄んだ湖面の静謐さを纏い、女を正面からその蒼の目に映して宰相が問う。ふたりの遣り取りを前にしている枢機卿長が、宰相の女帝への物言いに眉根を寄せた。

「結論から述べるなら、貴方が望むようなことは――――アウグスト同盟に連なる諸侯たちが望んでいるようなことは、私にはできないわ。だけど、それは誰が皇帝として即位したとしても、おそらくは変わらない。私にできることがあるとするのなら、それは彼らが望むものとは別のかたちを取るでしょうね」
「かたちは違えど目的ならば果たせる、と?」

 宰相のどこまでも静謐な蒼の目と、

「それならば可能かもしれない、と、私はそう言っているだけよ。やってもいないことの結果など、誰にも判らないわ」

 女帝のどこまでも澄み切った蒼の目が、閃光の白で満ち満ちるその場所で出会う。

「教会でも使うおつもりですか?」

 軽く息を吐く宰相と、小さく微笑う女帝。

「人聞きの悪い言い方ね。それに、枢機卿長の提言を断ったことを鑑みるに、貴方にはその気はないようだけれど?」
「やはり枢機卿長のあの突拍子もない発言には貴女が一枚噛んでいましたか。教皇を生み出すなどとは、まったく、心臓に悪い」

 横目で宰相に一瞥された枢機卿長は、微塵も表情を変えずに、ほんの少しだけ肩をすくめてみせた。
 どことなく鉄の香を孕んだ風が、晴れ渡った蒼穹に吹き上がる。

「だけど、目的を果たしたと対外的に表明する結果としての形式は必要でしょう? 多くの人々によって成されているものであればあるほど、多くの人々に知らしめねばならないものであればあるほど、それは判りやすいものでなければならない。手段を問われぬほどのかたちを、盟約を果たしたという証を、アウグスト同盟の盟主たるカトゥルス・アクィレイアは同盟者にも帝国民にも、それこそ世界にも、示さなければならない。私と彼とでは、目的を果たすための手段も、その果てに構築するであろうかたちも違う。帝国が帝国として求められるものを実現しようとしていることでは同じかもしれないけれど、その手段においては、おそらくは間逆に位置するのでしょうね」

 そして、貴方とも。
 陽光に艶めく女帝の朱唇が言葉を紡ぐ。

「それが、私を告発する理由ですか?」

 正面から女帝の眼を絡め取り、やわらかに宰相が問うた。

「アウグスト同盟の隠れた主要人物。内務卿と共謀し、帝国内に漣を立て、同盟が動きやすいようアレス宮廷とつながり帝国を陥れたこと。それでも不足だと言うのなら、更に理由を並べましょうか」

 小振りな朱唇が描くのは、硬質で透きとおっているだけの微笑。

「ヤヌアリウスの月の第九日における帝都暴動の首謀者として、貴方を逮捕するわ」

 宰相の背後、紅に現れた黒。無言のまま厳然たる無感動をもって、帝都警察長官アルノルト・クリーアがその場に控える。

「連れていきなさい」

 透明で耳にまろやかな声がひとつの命を下し、その声に振り返ることも動じることもなく、ただ静かに、女帝を見据えたままの宰相の蒼の目が鋭くなる。

「貴女には、他でもないこの帝国の置かれている状況が見えていましたか?」

 宰相のその眼の先では、女帝が風にその身を遊ばせながら佇んでいる。

「少なくとも、アルバグラード会戦における反帝国を掲げる勢力の筆頭たるアレス王国第一王位継承者リシャールの失脚がなければ、今頃、内情不安定に陥っている帝国は北東の国境付近の領土をアレスに奪われることを覚悟しなければならなかったことくらいは、理解しているわ」

 踵を返しながら淡く苦笑する宰相の両脇を帝都警察の黒が固め、その後に近衛の紅が続く。

「皇帝の意に背いた者ではなく帝都の治安を乱した者として、メルキオルレ・マデルノは裁かれるということですか」

 その場に残されたふたりの人物の片割れである枢機卿長のその眼の先で、女帝はどこか苦い微笑を零した。

「彼を拘束する理由として何を採用するか、それだけの違いよ。最初の段階で連行できたのなら近衛兵が動いた。これはただそれだけの話」
「確たる証拠は?」
「証人が、キィルータに」

 女帝の言に、この小娘は皇帝の裁量権を存分に発揮するつもりらしい、と、枢機卿長はひとつの結論に達する。目を眇めてしまうほどに眩い白が満ち溢れるその場所を、冷えた風が吹き抜ける。
 不意に、女帝が唇を持ち上げた。

「帝国が帝国として求められるもの。それを実現するためには帝国が帝国として存在しえない事態を避けることが肝要で、ゆえに帝国を護ろうと、メルキオルレ・マデルノは宰相として当然のことをしただけ。メルキオルレ・マデルノも、カトゥルス・アクィレイアも、フローレンス・キャンティロンも、目的を果たすまでの経過における自らの役割を果たそうとしているにすぎない。それでも皇帝が彼らを是認するわけにはいかないのは――――」

 わずかに女帝の目許がゆるみ、水底で流動する光の網を髣髴とさせるひんやりとした印象はそのままに、その纏う雰囲気がやわらかくなる。

「くだらないわね」

 と、女が言った。漆黒を纏うその女は、瞼を落とし、ゆるくかぶりを振る。

「くだらないわ、本当にくだらない」

 ほのかな苦笑と、ほのかな疲弊。無意味さの中に意味を見出してしまっているがゆえの、それを主張するしかない責務と諦観と。

「だけど、万人のすべてが意味を見出せるようなものごとなんて、いったいどれほどあるというの?」

 女は首を擡げ、薄く瞼を持ち上げた。燦燦と降り注ぐ陽光に曝されて、擡げられた女の首筋の、その白さと儚さが目映く映える。清澄にして凛冽たる蒼穹そのものを映す女の目は天空を見つめ、どことなく潤んだまろやかな触感の風がその華奢な身体を弄った。
 風に乗って空高く舞い上がる鳩のその白さが、光彩を煌かせる鋭利な閃光となって地上に降り注ぐ。

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