Chapter 5




 吹き上がる風には軋み煌く細やかな氷のさざめき。蒼穹を透かすどこか潤んだ大気に立ち現れるのは光の粒子のきらきらしい乱舞。

「面白いことを、おっしゃる」

 柔和な微笑みを浮かべる純白の老人が、少しだけ離れた正面に立つ漆黒の女を見つめる。

「そうね。面白くて、愉快で滑稽で。そしてこれ以上もなく、くだらない」

 風に弄られる漆黒は、やわらかく目映い光の中においては明らかに異質。

「すべての鳩が託された文書を目的の人物に届けられるわけではないわ」

 なるほど、と、一度だけ頷き、老人は穏やかな微笑をたたえたまま女を見遣る。

「しかし、それはいささか乱暴な。慎重と理知をもって廷臣を意のままに踊らせる貴女らしくもない」

 かすかに、本当にかすかに、わずかに顎を引いた女の小振りな朱唇が微笑をたゆたわせ、冴えた印象だけが浮かんでいた目許が緩められる。

「貴方こそ、らしくないわよ。土に染み渡る雨水のように音もなく策謀の糸を張り巡らせて帝国を操る貴方が、どこでそんな粗雑さを覚えてしまったの?」

 静かに穏やかにそこにわだかまる感情は、裏切りへの赫怒ではなく、むしろ、相手への尊敬と思慕のようなものだった。
 穏やかに微笑し黙したままの宰相と、冴えた月明かりめいた透明な微笑を含む女帝と。

「フローレンス・キャンティロンが種火を熾したとするのなら、その種火を燃え盛らせるのがカトゥルス・アクィレイア。そして、その火種が消えないで燃え盛れるよう育んでゆくのが貴方の役目だった。貴方は宰相というアレスと接触することが当然である立場。貴方がその気であったのならどんな手を使ってでもアルバグラード会戦やヴォルガ河防衛戦を回避したと――いえ、回避できたと、私は思ってる」

 その程度には貴方のことを買っているのよ、と、女帝は微笑う。

「だから、私はこう考えたの。貴方が自らの権限の及ぶ領域でありとあらゆる手段を用いてそれらを回避しなかったのはなぜか、と」

 わずかに、女帝を見つめたままの宰相の目線が上がった。その蒼に映るのは、透きとおる白んだ陽光の中、口許に微笑をたゆたわせたまま静かに目を伏せる緑髪の女。

「フローレンス・キャンティロンが感じていたように、カトゥルス・アクィレイアが掲げるように。多くの諸侯が彼に同調するように、彼らが多くの賛同を得るように。貴方も理解しているのではないかしら?」

 宰相の蒼の目が少しだけ細められた。

「理解、とは?」

 この問いに女帝は答えない。

「その見解は間違っていない、と、私も同意するわ。だけど、彼らが採った手段については同意できない。それがもたらすのは一時的な安定であり――その意義を否定するつもりはないし永続などそれこそ夢物語でしかないけれど――――動乱期の再来を予見するに充分なほどの一時凌ぎにしかならない。カトゥルス・アクィレイアを皇帝に据えるもいいでしょう。だけど、それでは同じことを繰り返すだけよ。不毛の地に帝国の礎を築き繁栄への道を拓いた初代皇帝アウグスト・シュテルンハイムのようには、彼は成れない。彼に力量がないわけではないの。ただ、齟齬があるだけ。アウグスト同盟が回帰を目指すのはかつての帝国黄金期の姿。だけど、とある土地における物の生産と循環が成立当初の帝国におけるひとびとの営みの目に見えるかたちであったとするのなら、黄金期を経てひとの営みのすべてにおいて成長を遂げ、循環の枠組み自体が帝国全体に広がってしまった現在においては、ひとそのものが生きていくためには流動せざるをえない。そして、貨幣の所有量が権限と発言力に比例するとするなら、その面においても帝国黄金期には存在しなかった者たちが存在する。この状態でカトゥルス・アクィレイアが戴冠したとて、遅かれ早かれ理想とはちぐはぐな現実の前に瓦解するだけ。彼自身は巧く順応するかもしれないけれど、そんなことをしたら後ろ盾でもあるアウグスト同盟の同志を失うのは目に見えているわ。ユスキュダル・バニヤスやウィリアム・アリンガムといった帝国内の有産階級は味方にできるかもしれないけれど、彼は生粋の帝国貴族だから」

 その信念がどこにあるのかと問われれば、迷うことはないでしょうね。
 伏せ目がちなまま、苦笑気味に懐かしむように微笑うラヴェンナの緑髪を、まろく潤んだ風が散らした。

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