Chapter 5
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地が震えるような振動に、下宿先の酒場のカウンターで転寝をしていたセルヴ・ノレーイア・トゥルスはまどろみに沈みかけた意識を無理やりに引き揚げた。その振動は地震と呼ぶにはあまりにも不規則で、半地下の酒場の明かり取りをかねている曇り硝子の向こうには、夕暮れの灰色にぼやけた鮮紅のちらつきが見える。
かすかに鼻腔をくすぐる臭いはどこか馴染みのあるもので、それが何であるのかを思い出すと同時、トゥルスは椅子を蹴って階段を駆け上った。途中で擦れ違ったリーザに、絶対に家から出ちゃだめだ、と言い残し、彼はそのまま屋根へと通じる階段を駆け上ってゆく。
派手な音を立てて外界へと繋がる窓を開き、
「何がどうなってる?」
肩で息をしながら、トゥルスは先客に問いかけた。赭の短髪を煤の混じる風に煽られながら、蜜蝋色の目を動かすことでシルウァ族はトゥルスの視線を誘導する。
「見ての通りさ」
トゥルスの深い緑色の目には、黒煙と慟哭を立ち昇らせて炎をちらつかせる、夜の薄闇に沈む帝都の街並みが映っていた。
ティエル第四層――帝都総督府。
緊急と報告された内容に、執務机についていたティエル総督エマニュエル・ガデは組んだ指に口許を隠したまま眉をひそめた。
「帝都第一層にて暴動?」
その日、偶々そこに居合わせた近衛軍帝都駐留部隊副長ヨハン・ラングミュラーが、報告を持ってきた官吏より引き継いだ報告を続ける。
「帝都市民が異民族街に雪崩れこみ、配給された物資を強奪しているものと」
「なぜこのような時に!」
声を荒らげたのは、近衛軍長官ロバート・ベルナール。その傍らの近衛軍帝都駐留部隊隊長エセルバート・ガートナーが小さく溜息をつく。
「このような時だから、だろう?」
「そんなことは解っている!」
「だが、現実的に考えて、鎮圧には向かわねばなるまい」
激昂とは無縁であるかのような冷徹な声音を、帝都警察長官アルノルト・クリーアが響かせた。
「私が出よう」
それまで黙然と腕組みをして壁に背を預けていたオルトヴィーン・ヴァースナーが、一歩、進み出た。
「近衛軍も帝都警察も動かない方がいい。我々から見れば彼らは暴徒だが、一向に下火に向かわず事態が拡大を見せるということから判断して、彼らに帝都市民が共感していることは確か。むしろ彼らの心情を代表しているものともとれる。鎮圧に動いたとなれば彼らからの反感を買うことは必至。帝都という閉鎖空間において彼らが恃みとする貴殿らが動いたとなれば、首の皮一枚で持っている帝都内の均衡は崩れるだろう。それではアクィレイア公爵の思うつぼだ。何のために帝都は数ヶ月に及ぶ籠城を耐えているのか判ったものではない」
「しかし、うまくいくか?」
おどけた調子で、ガートナー。
「なんにせよ、うまくいかせねばなるまい」
ヴァースナーは肩をすくめてみせる。その通りだ、と、ガートナーは苦笑し、
「うまくいけば、帝都内が混乱したと目されるであろうこの出来事ですら、帝都に更なる結束をもたらす苦難に転じるだろうよ」
困窮からは程遠いよく通る声音で、大傭兵の背中を押す。太く苦く笑うオルトヴィーン・ヴァースナーはそれこそ盛大に大外套を翻し、足音も高らかに踵を返した。
ファウストゥス暦423年ヤヌアリウスの月第9日――帝都暴動。市民軍出動により、三日後、沈静化。アウグスト同盟に連なり暴動を招いた者として、十数名の帝都市民が処刑される。
「煽られたか」
耳が痛いほどの静寂の中、枢密院委員ユスキュダル・バニヤスが咽喉を鳴らした。
「だが、火種が外から入ることはあるまい」
屋敷の離れにて豪奢な椅子に座りゆったりと寛ぐバニヤスが手にした煙管から立ち昇る紫煙がゆったりとわだかまり、やがては静寂に霧散してゆく。
「さて、誰の思惑かな」
飴色に艶めく天井を見上げながら、そこに何かを思い描いているかのようにバニヤスは深く笑み、わずかに、目を眇めた。
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