Chapter 5
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陽の高い時刻にあってなお闇が満ちるその場所に満ちる、心なしか饐えた空気がわずかにゆらいだ。窓がなく、蝋燭の芯の焦げる香がわだかまるその場所は、簡素ながらも調和の取れた調度品がしつらえられ、狭くはあってもひとひとりが生活するには充分過ぎるほどの部屋だった。
フィアナ騎士団本拠の、その一角。
蝋燭の灯がゆらぐ鮮烈ながらも頼りないその軌跡を菫色の目に映し、椅子に座していた虜囚――カルヴィニア公爵アロルドは、細く長く、次第に扉のかたちを成して湧き零れる光に目を眇めた。
「失礼」
響いたのは、やわらかく耳に心地よい声音。続いて、いくつかの人影が室に足を踏み入れる。その中に数年来に会う息子の顔を見出し、シルザの長と騎士団の長に息子に面会したい旨を伝えていた公爵は、その傍らにシルザ大司教を見つけ、胸中で得心した。大司教に促され、少年が足を踏み出す。
先の戦いで負傷した脚は未だ思い通りに動かず、椅子に座ったままの公爵が、その前に進み出た息子を見上げた。
「どうして自害しなかった」
父の口から放たれたそれに、リラの身がびくりと硬直する。
「どうして公国のためにその命を捧げなかった。お前が帝国にいることの意味を、それによって祖国が板挟みになるということを、祖国の枷になるということを、お前は理解できなかったのか? それとも、公国に生まれた誇りをすら忘れて、帝国に骨抜きにされたか?」
淡々と、責めるでも嘲るでもなく流れ消える言葉。しかし、次の瞬間――――。
ぽたり、と、血の滴が床に落ちた。
「先生っ」
リラと公爵の間に回りこみ、公爵が繰り出した短剣の刃を握ってその動きを抑え、シャグリウスは無表情に公爵を見下ろす。
「私には、この子を、庇護する義務がある」
目の前の青年の行動に驚いて呆然とそのつくりもののような面を見上げる公爵の手から、シャグリウスに一歩先を越されてしまったダリオ・ファルネーゼが、それ以上主の手を傷つけぬよう慎重に短剣を抜き取る。公爵を眺めたままのシャグリウスの手から滴り落ちた血がみるみるうちに床に血溜まりをつくっていった。
少年の頃から一緒に育ってきたダリオが声をかけることを躊躇うほど、シャグリウスには常の万人を受容するような穏やかな雰囲気など見る影もない。唯一感情の覗く淡い藍の目はわずかに細められ、鋭利で怜悧な炯眼だけが公爵を射抜く。
「この子が帝国に身を置く限り、その庇護者はこの私。いくら貴方といえど、私の許可なしにこの子を害することは許されない」
淡々と紡がれる声音は常と変わらず耳に心地よい玲瓏なそれだったが、その纏う空気は、砕け散った硝子の断面のような、どこまでも苛烈で透明で果てしなく冷ややかな、触れれば創傷を得てしまいそうなほどに研ぎ澄まされたもので。
あまりにも冷徹に過ぎて感情の残滓すら覗かせないその声音に、青年の華奢な背中に守られている少年はこれ以上もない激情を汲み取る。
このひとは、何を、怒っているのだろうか。
視界に広がるゆるい巻き癖のあるプラチナブロンドを前に、リラは困惑する。
少年と青年の付き合いは、たった数年来のものにすぎない。だが、その数年の間にあってすら、穏やかにやんわりと自らの感情を表すことはあっても、こんなに直情的に相手をねじ伏せるかのように自らの感情を露わにしたことなどかつてない。
「ファルネーゼ」
と、大司教は従者の名を呼ぶ。
「リラを連れて退室してくれ」
無感動な横顔を見据えながら、
「猊下は?」
と、珍しく従者は拝命を踏みとどまった。だが、背後の少年にも従者にも目を遣ることなく、大司教はその眼を公爵に据えたまま微動だにしない。身体の脇に垂らされている指先からは絶えることなく血が滴り落ちていて、かたちのよいその唇には持ち上げられる気配すらなかった。
小さく溜息をつき、
「後で、その手の治療はさせてくださいね」
ささやかに釘を刺しながら、ファルネーゼは狼狽しながらもこの場を動きたくないことをその目で語りながら自分と大司教と父に眼を配っているリラをやんわりと促しながら退室する。誰かのしあわせは願えるくせに自分のことに関しては極端なまでに無頓着なこの主は、おそらく、放っておいたら普通のひとは忘れないであろうことすら思いつかない。
ゆらり、と、空気の流動に蝋燭の炎が艶やかな軌跡を描いた。
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