Chapter 5


◇◆◇◆◇◆◇

 帝都の東、ラズ河の畔――アウグスト同盟を掲げる諸侯連合軍の陣営。凍てつく夜の闇に、風に遊ばれる薪の炎が艶やかな残像を残す。

「何を待っておられる」

 水音を隔てる陣幕の中、地図が広げられている机の片隅に置かれた燭台では視界をもたらす蝋燭の灯がやわらかに不安定にゆらいでいて、ささやかな灯が照らし出すさざめく橙の視界にて机上に眼を落としていた体格のよい栗色の髪の青年が、机の傍らに立つその姿勢を変えることもなく陣幕に入ってきた壮年の傭兵を見遣った。
 重厚な威厳をもって何人も無視しえない存在感を放つ青年――カトゥルス・アクィレイアの蒼の目に映るのは、鍛え上げられた体躯と機知を武器に大陸を渡り歩く白いものが混ざり始めた鳶色の髪の傭兵隊長――イングベルト・ヴァースナーの、若造を試しているようなからかっているような年長者の笑み。
 入り口近くに留まる傭兵隊長に、ゆっくりと、カトゥルスは向き直った。

「帝都の開城を。流血が少ないに越したことはない上に、できることならば無傷で手に入れたい」
「帝都を? それとも皇帝を?」
「権威を、だ。それと、帝都に集い住まう者たちと帝国を構成する者たちからの、我々への同意と承認」

 淡々と応じるカトゥルス。イングベルトの目に愉しむような嘲るような色が浮かぶ。

「これはこれは、下賤の者のご機嫌取りをしようなど、帝国において比類ない権力を有する公爵とは思えぬようなことをおっしゃいますな」

 そんな面倒ことをせずとも、有り余る力でごり押しすればよいではないですか。
 そういった意味のことを言外に漂わせるイングベルトに、それこそ嘲弄でしかない色を、黙したままのカトゥルスはその目に宿した。
 その比類なき権力とやらは、いったいどこから派生するものだと思っているのだろうか。 

「その根源を見失ってしまっては、一時の権勢を謳歌することはともかく、公爵として立つことは困難になるな」

 軽く肩をすくめたカトゥルスと、

「それゆえに、皇帝に叛旗を翻した、と?」

 面白がるように問いを投げてくる傭兵。

「皇帝に成り代わってやろう、と、考えたことは?」

 カトゥルスの目がにわかに剣呑な色を帯びた。
 高らかに満足そうに傭兵は笑い、冗談ですよ、と、公爵を宥める。
 間断なく響く水音はどこかくぐもっていて、あたたかなはずの蝋燭の灯はどこか冷ややかに光景をゆらめかせた。

「なに、気の短い傭兵どもが焦っておりましてな。とっとと帝都を落としてしまわねば、最悪の場合、ウォルセヌス・アクィレイアだけでなく帝国二大騎士団すら同時に相手することになるかもしれない、と、心配しているわけです」

 黙したままのカトゥルスはその炯眼を傭兵に据えたまま微動だにしない。鷹揚に咽喉を鳴らし、イングベルトは踵を返す。
 幕に手をかけた傭兵隊長が、ふと、その動きを停めた。

「フォルトゥナートは役に立ちましたかな?」

 公爵に背を向けたまま、イングベルトは問う。須臾の間、押し黙り、

「無論だ」

 と、カトゥルスは答えた。

「ならば、よかった」

 呟きに似たその声音は、凍てつく大気に滲透してゆく。
 大気が外界とつながったことで大きくなった水音と、吹きこんでくる肌を刺す空気の流れ。
 肩越しに振り返り、傭兵隊長はにんまりと笑む。

「報酬は弾んでください。期待しておりますよ」

 ひとひとりを通して翻った布は、暫く忙しなくゆらいだ後、次第にその波を穏やかなものへと変えてやがては静止する。
 澄んだ橙の熱に片頬を濡らされながら、カトゥルス・アクィレイアは片手を机に置き、傭兵の去ったその場所を黙然と眺めていた。
 フォルトゥナート・ヴァースナーが請けていた依頼は、メルヴィルを通して受けたフィアナ騎士団を援護するというものと、アレス王国に通じるアウグスト同盟より受けたフィアナ騎士団の弱体化というふたつ。前者について詳細をカトゥルスが知ることはなかったが、そのふたつの依頼を受けフォルトゥナートに流した張本人であるイングベルトにとって、第二次ヴォルガ河防衛戦がもたらした結果はまったく予想できないものではなかったのだろう。
 帝国を護る依頼と、フィアナ騎士団と公国との勢力均衡を目的とする依頼。
 結果としてフォルトゥナートはその両方を成立させたわけだが、依頼の完遂は当人の生存を伴うものではなかった。そして、同盟とは敵と目されるフィアナ騎士団への援軍をカトゥルスが黙認したそもそもの理由は、フィアナ騎士団の勝利とカトゥルス・アクィレイアの目的が一致していたからに他ならない。

「帝国というものが無意味ではない、と、そう思いたいだけかもしれないがな」

 帝国の防衛線が破られることは、畢竟、帝国の機能低下を助長する。帝国たるものの存在意義をそこに見出し、それゆえに帝都を包囲するに至っているカトゥルス・アクィレイアにとって、一見矛盾するようなこの判断は、至って整合性を有していた。
 だが、と、カトゥルスは思う。
 皇帝という存在を失えば、おそらく、皇帝をして帝国を可視化している帝国民は、自らの寄る辺を失くすだろう。
 それはアウグスト同盟に属する諸侯も例外ではなく、それゆえ、皇帝の坐す帝都には迂闊に手を出すことはできないとカトゥルスは判断する。それこそ、皇帝の挿げ替えを図らなければ、たとえ女帝を廃することが叶ったとしても確実に帝国は安定しない。それはカトゥルスの望むものではなかった。むしろ、最悪の事態と言ってもいい。嵐の後の凪こそを、彼は切望しているのだから。
 だからこそ。

「いつになったら、帝都は開城する?」

 このまま籠城を続けるのならば、焦らずとも、帝都は確実に陥落する。だが、できることならば、自発的な降伏をこそ手にしたい。
 皇帝が降伏したとなれば、臣民は自ずとその相手に従うだろう。

「いつになれば」

 ほのかに何者かに期待しているような調子のその声は、凍てついた大気に沈む水音に、静かにゆるやかに紛れていった。

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