Chapter 5




「なんでお前が生きてんだよっ」

 赤銅色に染まるシルザ大司教の執務室。大きな窓と、その向こう側で枝に降り積もった雪に軋む大樹の影。
 襟首を掴み上げられ壁に背を打ち据えられたリラ・コトゥスはわずかに眉をひそめ苦悶の呻きを零す。

「なんで、お前だけ」

 負傷した片腕を吊り、無事な方の腕だけでリラを押さえつけるのは、激情にその身体がはちきれてしまいそうな様のサーレ・ニールセン。彼らから少し離れた扉の前では、カルヴィニア公爵の息子であるリラの――勝利を得たとはいえ同胞の犠牲の悲哀に気が立っている騎士たちからの――護衛も兼ねて扉番として立つダリオ・ファルネーゼが、サーレを止めようと身を乗り出したラシェル・ブランシェをやんわりと制止していた。
 呼吸が困難なまでに首を押さえつけられているリラは、斜陽の銅を潤ませる目を歪め、奥歯を噛み締め、反撃するでも反駁するでもなく、ただ真摯に寄る辺のない虚勢に満ちた目の前の少年を視界に捉えている。

「なんか、言えよっ」

 吐き出される言葉は聞く者の方が悲痛さに打ちひしがれるような声音でばら撒かれ、不意にリラの襟首を放した手は、壁が軋み拳に血が滲むほどの勢いをもって、呆然と立ち尽くすリラの頭の、わずか上方を叩いた。
 菫色の目が己の顔のすぐ横にある相手の腕を見遣り、それから正面に眼を戻す。少年は自分の目線とほぼ同じ高さにサーレの項を見つけ、この年上の少年が自分の肩に顔をうずめているらしいということを知った。
 薄暮の茜に満たされた床に、窓枠の黒々とした影が伸びる。少年たちにとって窓とその周辺は他のシルザの人々のように特別な場所ではなくむしろ慣れ親しんだ場所で、書類整理に飽きた大司教が休憩がてら窓辺で外を眺めていたり、救貧院長に規律違反を見咎められた不良騎士がその追っ手を撒くためにその窓を玄関代わりに避難してきたり、大司教と不良騎士の不毛な言い争いに呆れたカドベリー・カースル族が時間潰しに涼んでいたりする場所だった。

「背伸びはするな、とか。無理はするな、とか。そんなこと言ってるからこういうことになるんですよ」

 背伸びをしなくても、無理をしなくても、なんとかなるものだけが都合よく目の前に立ちはだかってくれるわけじゃない。
 責めるような愚痴るようなそれは、明らかに、リラではない誰かに向けられていて。

「神のために生き延びろって、言ったじゃないですか」

 淡々と、声だけが響く。

「生き残ることを第一に、って、そう言ってたじゃないですか」

 耳許で篭もり鼓膜を震わせる声に、見えないとは判っていても、リラは思わず目だけを傍らに遣ってしまう。

「ひとにはそういうことを言うくせに、どうして」

 かすかに震えを帯びた語尾と。

「どうして、あなたは・・・・・・」

 堰を切るように湧き出た衝動に、言葉であることすら判然としないほど途切れ途切れに不安定に上下する抑揚と。
 壁にめりこみそうなまでに打ち据えられていた拳に、更に力が篭もる。
 窓の外の大樹の、葉の落ちた枝先が風にあおられて窓硝子を叩き、ぱらぱらという雨音めいた音を響かせた。
 壁に背を預けるリラは、ささやかなサーレの変化に気がつく。

「俺、騎士に成るから」

 唐突な宣言は決意を秘め。

「あのひとが誇れるような騎士に成るから。絶対、成ってやるから。だから・・・っ」

 身体の震えを抑えることができなくなったサーレのひくつく咽喉から搾り出される音律のひとつひとつが、大気にその存在を刻み、嗚咽に埋もれる。わずかに目を瞠ったリラは、その背に手を回すことも何か言葉をかけることもできず、必死になってすべての感情を噛み殺しながら握り締めた手に力を籠めていた。
 雲ひとつ無い黄昏の空が窓枠に切り取られ填めこまれている。
 夜の青褐が次第に重なり深まりゆくその時に、斜陽の銅は、ただ静謐に、世界を余すところなく濡らしていた。

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