Chapter 5


 冷え切った床と冷え切った書架。冷え切った壁と冷え切った机。その机で片腕を枕に横顔を曝し、力無く傾いだ上体にひきずられた片腕はそのゆるく丸めた指先を床につけている。かろうじて椅子に座している壮年のその男は、それこそ、これから先の季節に、窓の外、分厚い緞帳の向こうに広がるであろう雪原のごとく、燐光が湧き上がるような不可思議な透明感を湛えた白銀をその身に秘めていた。

「演じてみせますよ」

 と、男は言った。
 現在と過去。この二点において生じた出来事はその表面だけを見れば酷似している。だが、その内実が異なるがゆえに、その期間は全く異なっていた。過去のそれは一月ほど、そして、現在のそれはあと一月もすれば半年となる。

「短期では終わらぬ」

 と、男の兄はこの戦いの初めからそう予想していて、彼にとって――そしてほぼ大多数の者にとって――外れてほしいであろうその予想は現実のものとなっている。
 かつてのヴォルガ河防衛戦が比較的早期に解決した要因は、フィアナ騎士団には帝国軍という援軍が、カルヴィニア公国にはアレス軍という援軍が、各々ついたからに他ならない。ちなみに、一見奇妙に映るフィアナ騎士団への帝国からの支援は帝国皇帝が人事権をもって帝国国教会を呑んでいる――事実上、帝国と教会が同化している――ということもあってか、さほど違和感なく受容されている。
 ヴォルガ河とは権益面と権威面における帝国圏とアレス圏の境界であるが、帝国もアレスも衝突した際に相手と拮抗できる程度の最低限の兵力をそこに置いていた。要するに、ヴォルガ河を挟んで対峙する彼らに期待されている役割は本隊が到着するまでの時間稼ぎであり、それゆえに――例えばこの度のアレスのように――彼らの上層が攻撃の意思を有さない場合、ないしは――例えばこの度の帝国のように――彼らの上層に援軍を派遣する余力がない場合は、長期戦になることだけが明白となる。 
 だが、そこまで見えていても、アレスの存在を無視できない公国は帝国と対峙せざるをえなかった。
 長期に亘る帝国との対峙は消耗戦でしかなく、ほどなく疲弊は顕著となったが、それでも公国は持ち堪えた。

「崩しては、ならぬよ」

 温和で知られる男のその兄は、男よりもさらに温厚な人柄で。

「崩れることだけは」

 厚い唇に淡く笑みのようなものを浮かべながら、穏やかなその佇まいにさえ悲痛さを覚えてしまうほどに、願うように祈るようにそう繰り返していた。
 公国が崩れれば、帝国かアレスが公国領の取り合いをするだろう。その後、属州とされるか占領されるか、それは判らない。だが、その騒乱をいったいどれほどの公国民が生き延びられるというのだろうか。
 男の兄――カルヴィニア公爵グリエルモ。
 かつてのヴォルガ河防衛戦の敗北によってアレス王国に留学していた子を亡くしたこの公爵は、帝国とアレス王国に弟の子を留学させながら、大陸に名立たる大国と大国の間で舵取りをしながら公国を生き永らえさせてきた。
 カルヴィニア公国を愛し、自らの役割を見定め、それゆえに帝国とアレスとの間を優柔不断と非難されるほどに揺れ動き、そのような批判などどこ吹く風と平然としていたその公爵が、今、男の目の前で机に突っ伏している。

「見ていてください」

 と、男は言った。
 長期に亘る戦いはカルヴィニア公国内にひとつの潮流を生み出していた。それはこの戦いの長期化の要因を公爵個人の力量に求めるものであり、ならば、公国の頭を挿げ替えてしまえばよいのではないか、といういささか短絡的な潮流である。だが、疲弊と緊張と恐怖とで極限状態に在る公国にとって、それは一筋の光明にも似たひどく現実的な解決策と認識され始めていた。そして、彼らが挿げ替えようとしている頭の候補とは、他ならぬ、男自身。

「踊ってみせますよ。これからの五日間で、民を欺き、臣を呑みこみ、舞台をつくりあげ――――簒奪者として、それこそ滑稽に踊ってみせます」

 今、公国はアレスに弱味を見せないこと以上に、動揺するわけにはいかない。内部崩壊に繋がりかねないそのような事態だけは、断じて避けなければならない。となれば、重臣ですら無視できないほどに世論を誘導し、根回しをし、お膳立てを整えた後に大多数が望むような簒奪者を演じ、兄が遺した公国を無傷のまま引き継ぐしかない。

「まったく、やっかい事を押しつけてくれたものです」

 眠るような横顔を曝す公爵を男は見下ろした。

「ずるいですよ、貴方は」

 わずかに細められた菫色の目が微かに揺れ、搾り出される気配を帯びた震える一歩手前の声が微笑のかたちだけをつくる唇から零れる。

「口汚く罵ることくらい、許してください」

 冷え切った室内と、そこを満たす昏さ。許されるということも、それどころか鼓膜を震わせるかもしれないこの声を自ら毒を飲んだ兄が聞くということなどもはやないということを解っていてすら、何かを語ることをやめられない。
 ファウストゥス暦422年、秋の終わりと冬の始まりの狭間。
 これが、第二次ヴォルガ河防衛戦の渦中におけるカルヴィニア公国における簒奪劇の真実。

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