Chapter 5




 ファウストゥス暦422年のヴォルガ河を挟んだフィアナ騎士団とカルヴィニア公国の睨み合い――別の見方をするならば、シュタウフェン帝国とアレス王国の睨み合い――は、四年前のそれと当事者を同じにしながらも、その意味合いにおいては少々異なる。418年のそれが純然たるアレス王国の帝国侵攻の足がかりであったことに対し、422年のそれは王座争いで不安定なアレス王国にしてみれば帝国に干渉されないための牽制に等しい。それゆえに、王位争いの渦中にあったアレス第一王子リシャールがアルバグラード山脈にてウォルセヌス・アクィレイアに敗北して後、アレス王国が背後についているはずの公国がヴォルガ河での睨み合いから遠ざからないことに疑問が呈されていた。要するに、そこで主に着目されているのはアレス王国側のことに他ならない。
 だが、公国にも公国の事情があった。

「相変わらず人の悪い」

 幾重にも蒼の薄闇を重ねた昏さに身を沈める男の、泰然とした中に微かな苛立ちのようなものを秘めた菫色の目が兄であったそれを見下した。その場に満ちる空気は倦み疲れ滞留しているにもかかわらず、容赦なく体温を奪ってゆくほどに澄み切って肌を貫く。

「洩れたか?」

 身動きひとつしないまま、背後に控えているであろう初老の侍従長に落ち着き払った様の男は問う。いえ、と、まずは否定を意味する受け答えをして、侍従長は続けた。

「おそらくは私が最初に目にしたものと。その後、すぐに公爵の命として人払いを施しました」
「しかし、物事に絶対はありえない」

 まったく困ったものだ、といった調子で男はかぶりを振った。侍従長からは壮年に足を踏み入れかけている男の秀麗な後姿しか見ることはできない。

「緘口令を?」
「いや、あえて事を大きくすることもないだろう」

 そこで男は言葉を切り、少しの間だけ、思索に耽った。そして鷹揚に身体を反転させて、闇の中、侍従長に向き直る。

「五日」

 男が持ち出したのは、男が判断した、男が必要とする時間。男の炯眼を正面から受け止めたまま、侍従長は黙して動かない。 

「五日だ。どんな理由を使ってもいい。五日間、隠し通せ」

 闇に慣れた目には、人肌の白さがぼんやりと浮かび上がって見えた。
 侍従長の眼が一瞬だけ男から逸れ、戻る。そして、悠然と佇む男をじっと見据えた後、それ以上は何も聞かずに深く一礼し、

「御意」

 それ以上は何も言わずに退室した。
 侍従長が去ったことを確認し、男はゆったりと踵を返す。暗く冷え切ったそこは公爵と呼ばれる者の私室であり、書斎でもあった。

「貴方のすべきことはまだ終わっていないというのに、よくもまぁ、やってくれましたね」

 室内であるにもかかわらず、男の吐いた息が白くぼやけた。

「中途半端とは感心できない。処理途中のやっかいごとを貴方が投げてしまうのなら、私が受け取らないわけにはいかないじゃないですか」

 怒っているような拗ねているような、そんな表情がそこには在った。細身ではあっても威風堂々としているはずの男が、どこか幼さを覗かせる頼りない表情でそこに立ち尽くしている。

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