Chapter 5


◇◆◇◆◇◆◇

 薄氷がたゆたうのは河の際。霧すら凍る大気に晒される皮膚が覚えるのは、裂傷が走るかのような錯覚。
 鈍重な雲はぼやけた灰色であるにもかかわらず透きとおっていて、清澄さに鼓膜が破れるほどの薄闇が目も眩むほどの陽光に溢れているはずの白昼を覆う。

「実は、とても驚いたのです。シルザ大司教の姿をファリアスに見た時は、本当に驚きました。フィアナ騎士団がヴォルガ河を挟んでカルヴィニア公国と一触即発の状態に在ると聞き知っていましたから、尚更に。よくぞフィアナ騎士団団長がシルザ大司教を外に出したものだ、と」

 河に沿って走る塁を兼ねた城門めいた石造りの堤防の上、穏やかな語り口の老紳士がわずかに目を眇めながら対岸を眺める。
 頭上に厚く蟠る雲より落ちてくる雪はあらゆる音を吸いこんで世界を静寂へと誘い、雪が降り落ちる音と薄氷を軋ませながら流れる水の音だけが奇妙なまでに際立っていた。

「長引く公国との戦い。失われゆくだけのすべてもの。大司教不在の状態で、シルザの人心を教会に留め置くことに、フィアナ騎士団の士気を保つことに、苦労なさったのでは?」

 身体は対岸に、目だけを動かして横を見遣るデルモッド・リアリ。その傍らには、腕を組み、対岸に背を向けて瞼を落とすベルトラン・ダン・マルティンの姿が在る。

「騎士団が大司教猊下を御する謂れなどない」
「ですが、大司教が不在であることの功罪は目に見えていたはずです」
「少なくとも、帝国国教会に属する聖職者には、枢機卿長の命に逆らえる者はおらんよ」
「しかし、難色を示すことくらいはできた」

 あくまで穏やかながらも面白がるような笑みを称えるデルモッドに、ベルトランは苦虫を噛み潰したような表情になる。

「カトゥルス・アクィレイアが陛下に叛旗を翻していなければ、私は大司教不在の状態など生み出すことを許さなかった。尤も、そうであれば、枢機卿長はシャグリウス卿をファリアスに派遣などなさらなかっただろうがな」
「アクィレイア家に連なる者として、公爵とは立場を異にするということを行動で示さなければならなかったということですか」
「そして、枢機卿長としても教会は叛徒と手を結んでいないという表明が必要だった。叛徒の長の肉親たるシャグリウス卿がそれを証明するのなら印象はより鮮烈になる」
「なるほど。確かに、教会としては皇帝に睨まれるわけにはいきませんしね。だからこそのシルザ大司教の派遣ですか。相変わらず、浅ましいながらもよく考えているものです」
「その浅ましさに少なからずの意味を見出してしまったから、私は猊下に何も言えなかったのだがな。我ながらくだらないとは思うが」

 溜息を吐くベルトランに、デルモッドは穏やかに微笑する。

「その浅ましさに少なからずの意味を見出していたからこそ、シルザ大司教は素直にファリアスにおいでになったのですよ。見たところ、大概のことに執着がないだけで、あれでかなりの頑固者なのではないかと」

 これにベルトランは大仰に目を瞠った。

「ご明察だ」

 デルモッドの目許が蕩けるようにやわらかくなる。

「そうでもなければ、あの状況下、ファリアスに足を向けたりしません。切れ者なら尚更、身の危険がない土地へ退避しようとするものです」
「意志が強い、と言えば、聞こえはいいのだがなぁ」

 無意識に空を仰いでしまうベルトランには、何か思い当たる節があるらしかった。

「話は変わるが、驚いたと言えば貴殿がシルザの土を踏んだことにはそれこそ驚愕した」

 さらりと零された言の葉にデルモッドは静かに苦笑する。

「シルザ大司教の、提言ですよ」

 ぱらり、と、雪が舞った。

「私はファリアスを護らなければなりませんから」

 にっこりと、老紳士は笑む。

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