Chapter 5
「泳いでください」
総督府を預かる男の唇から放たれた言葉に官吏は瞠目する。
「このところキィルータではとある噂がまことしやかに囁かれていました。トリノウァンテス族はアレス王国と水面下でつながっていた、という噂です。最初の会戦はそれゆえの敗北である、と。ですが、第二次アルバグラード会戦が始まる少し前あたりからですかね。それが耳につくようになったのは。丁度、貴方がキィルータに入るか入らないかといった頃です。そして、最近になって、また別の噂が流れ始めました。会戦に勝利したその軍を陛下が脅威と見なすようになり、この軍に加わった諸侯を粛清するであろう、という、そういう噂です」
にこやかに、カールトンは続ける。
「お見事ですよ。流言の内容は根拠も薄弱な稚拙なものでしかないですが、現在の帝国が置かれているこの状況、人々の間に滲透するには充分な内容です。足場が不安定であればあるほど、先が見えなければ見えないほど、あってもおかしくないことは自然に心に落ちる。過去に似たような経験をしていれば尚更、その警戒心から、信じたくもなるでしょう」
トリノウァンテス族自治領に対するかつての冷酷帝の侵攻。その口実は、真偽など定かではない、隣国とのつながり。
「再び踏み躙られるかもしれないというトリノウァンテス族の不安を煽り、内務卿フローレンス・キャンティロンの一件がまだ記憶に新しい諸侯の感情を誘導した。その結果出てきたのがデシェルト総督を皇帝と戴こうという噂。ですが、これは無視することができないほどに、真実味を帯びた噂として語られるようになった。それだけ望まれていたということかもしれませんが、総督はそれに応じる気など更々ない。だからこそ、総督は自らを担ぎ出されることを回避するために何か行動を起こさねばならなくなった」
僭称とは即ち皇帝への造反。帝都が包囲されているこの状況、その隙をついての動きと捉えられることは何ら不自然ではない。そして、デシェルト総督がアクィレイア家の者であるということもそれに信憑性を与える。アクィレイア公爵カトゥルスの異母弟たるウォルセヌス・アクィレイア。この二者が手を結び帝都を挟撃するとしたら――――。
「ひとというものは、信じたいものを、信じるものですからね」
曖昧なまま放っておくよりも、どこかそれらしいところに落としてしまった方が安心できる。思考停止による安穏はひどく魅力的だ。
「そう信じられることを払拭するためにも、総督は何か行動を起こさねばならなかった。それが帝都への反転です。しかし、陛下からの命はない。ですが、だからこそ、印象としては鮮烈に残る」
わずかに、官吏の手から力が抜けた。
「帝都への援軍が必要なことは誰の目にも明らか。しかし、その行動がどう取られるかは賭けでしかない。ですから、総督は、私を含め、自らの兵のほとんどをキィルータに残した」
目的地への道程で自領に戻れる余地のある諸侯のみを率い、ところどころで小競り合いを繰り返しながら、デシェルト総督は帝都へと進んでいる。
「貴方が何をどのように伝えているのかは知りませんが、総督は自らが僭称したと報告されていることを見越して動いておられるのでしょうね。自分の行動のすべては独断で皆は巻きこまれたにすぎない、と、あの方なら状況によってはそのくらいのことは平然と言ってのけるでしょう」
そこでカールトンは息を吐いた。澄み切った蒼穹に鳩の姿は見えない。
「僕をどうするつもりですか?」
獲物を収める素振りはなくとも完全に力だけは抜けている官吏の手首を下ろしながら、カールトンはゆるくかぶりを振った。
「今まで通りに泳いでください。私が貴方に望むのはそれだけです」
逸らすことができないでいる目に精一杯の虚勢を覗かせながら、官吏は口を開く。
「ですが、あることないこと貴方がたが不利となるような嘘を報告するかもしれませんよ」
「その程度のことならばあちらも想定しているでしょうし、こちらも想定済みです。ですが、あえて味方を不利に追いやるようなそういった報告をするほど、貴方が愚かとも思えませんが」
使える嘘ならば、別ですがね。
先に続く言葉を呑みこんで、カールトンは疲れたように瞼を落とす。
「ご安心を。帝都が解放されるその時まで、貴方の命は私が保障します」
色を失う官吏に、再び瞼を持ち上げたカールトンは常と変わらない調子で朗らかに笑いかける。
「あの方が馳せ参じるのならば、おそらくは、帝都は最悪の事態にだけはならないでしょう。本当に、貴方にはいくら感謝してもし足りない」
その御礼ですよ、と、カールトンは同僚からの温厚という評にふさわしい空気で官吏の手から短剣を取り去る。そして何事もなかったのようにのんびりとその場を後にした。
燦燦と降り注ぐ陽光を弾く透き通った氷の煌きが目に眩しい。蒼穹の下に広がる凍てついた丹砂の赤は、その彩りに艶やかさをすら孕む。
どうということのないカールトンの物言いに自らに監視のついたこと――おそらくは、生殺しにされるということ――を察した官吏の肩に一羽の鳩が舞い降りる。だが、それに気づいた様子もなく、しばらくの間、官吏はその場に立ち尽くしていた。
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