Chapter 5


 本人は否定するだろうが総督府を操るその人の、ゆっくりと落とされる視線のその先には、早朝の身を切るような清々しい大気に光る、丹砂を透かす融けかけた氷の煌き。この発言だけを切り取ってみれば猜疑心の塊と捉えられても仕方のないカールトンのその口許に――常にすべてを受容しているようなやんわりとした空気を纏っているこの男には珍しく――嘲笑のような何かが揺れる。

「ゆえに、私たちは、せめてこのキィルータだけでも繁栄を謳歌させねばならないのです。力で押し潰された経験を持つ彼らに、帝国につくことの利点を、目に見える判りやすいかたちで提示しなければならない」

 そして、そうしなければ、この地勢から彼らが水面下でアレス王国に懐柔されるであろうことは目に見えている。たとえ刃を交えることに意味が無いような情勢であっても、帝国とアレス王国の関係は、その意味において良好なものとは言いがたい。しかし、その関係こそがこの二国間の均衡を保ってきたということも、否定はできなかった。

「だから異民族のご機嫌取りをしている、というわけですか」

 どこか気のない調子の官吏に、カールトンはおかしそうに微笑う。

「帝国官吏ともあろう方がなかなかに愉快なことを。ここで肝要なことは期待される役割を果たすこと。間違っても私たち帝国民の矜持を護ることではありませんから。それらが両立するのなら言うことはないのでしょうがね」
「しかし、それらが両立しているように見せる必要はある」

 感情のゆらめきというものを感じさせない声音が、起伏する熱も冷ややかさも取り払った平坦な声音が、淡々と持論だけを紡ぐ。わずかな首の動きで背後を覗ったカールトンの、その目に映るのは蒼穹を背に立つ存在感の希薄な表情の無い青年。常ならばどことなく掴みどころのない軽薄さを醸し出していた青年の、水底に忘れ去られた苔生す輝石のようなささやかではあっても決して無視することのできない重さに、カールトンはかすかに口の端を持ち上げる。

「ですから、貴方には感謝していますよ」

 大気を叩くように響く羽音は高く高い空に散じてゆく。

「あの会戦の後、諸侯はこのキィルータで兵を休めざるをえなかった。それは当然のことですし、それに適う規模と生産力を有するような都市はこの周辺ではここキィルータしかない。ですが、所詮は一地方都市。限界はあります」

 どこか愉快そうな薄い笑みを貼りつけるカールトンは、ゆったりと身体を返す。

「そして、帝国軍がキィルータに滞在するということには、もうひとつの問題が浮上する。かつての冷酷帝の北方異民族自治領進攻は、当然、流血と略奪とを伴った。彼らにとって、帝国軍とは侵略者を指す名詞でしかない。総督府と彼らが表面上円満で在れるのは、なんのことはない、利害が一致しているからです。となれば、吸い上げられた税が自らに還元されないにもかかわらず、あまつさえそれをもって過去に自らを蹂躙した侵略者を養っているというこの状況。彼らはどう感じるでしょうね」

 笑みのかたちを崩さない口許と、やわらかく穏やかであるはずの蒼の目に棲む酷薄さ。対峙する官吏は無表情のまま正面からそれを受け止める。

「どれだけの人間がこのキィルータにはいますか?」

 この唐突な問いに、官吏はわずかに顎を擡げた。

「どれだけの人間が、北方異民族自治領には潜んでいるのです?」

 目が痛くなるほどの鮮烈な蒼穹を背に、アレン・カールトンは微笑する。

「そんなに動揺することもないでしょう? 総督府に潜りこんでいる貴方がいなくなってしまっては皆が困るでしょうに」

 首筋に平行につきつけられた白刃の冷ややかさなどはじめから無いものとして、泰然と、膝を沈め腰を屈めて己の懐に入り短剣を構える官吏の挑むような目をカールトンは見下ろす。

「言いましたよね、貴方には感謝している、と。貴方は理由をつくってくれましたから。デシェルト総督がアルバグラード会戦時に指揮した兵をそのまま率いて帝都に反転する――帝国民がその矜持を満足させるに足る――理由を、つくってくれた」

 官吏の奥歯が軋む。白刃が震えるも、それを持つ手首を掴まれ抑え止められていては、籠められた力は溜められるしかない。
 薄皮一枚のところで官吏の獲物を止め置くカールトンは、それこそ悠然と、必死になって荒れる呼吸を抑えている青年をその視界に収める。

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