Chapter 5
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波のように寄せては返す乾いた羽音が蒼穹を裂いた。淡く澄み切った空には満月と見紛うばかりの白んだ太陽が透けている。
トリノウァンテス族自治領領都キィルータ。
北の砂漠の丹砂には氷の透明が混ざり、融けかけた水の煌きに封じこめられたばらけた赤は、陽光を反射する氷という固体の中でひっそりとそれを自らの内に取りこんでいた。
高台にある総督府のその屋上。飛び交う鳩の羽音を聞きながら、自分ではない何者かによって氷の踏み潰される、ざり、というかすかな音を耳にしたアレン・カールトンはゆったりと背後を振り返り、微笑した。
「おはようございます」
カールトンの眼の先には、戸惑っているような曖昧な笑みを浮かべるしかないでいる帝国官吏。立ち尽くす官吏のその様に、どうしました、と問いかけるカールトンの腕から白い伝書鳩が飛び立つ。
「鳩はご自由に使っていただいてかまいませんよ?」
わずかに首を傾げながら、やんわりと言い含めるように、カールトンは問いのかたちで確認する。
その鮮烈さに思わず目を眇めてしまうほどに澄み切った蒼穹に、陽光に曝された羽ばたく鳩の群れの、閃光に似た白が煌いた。
「やはり、貴方は行かないのですね」
官吏のその口調はどこかぎこちなく、それこそ不自然極まりなかったが、あえてそれを意に介さずほんのりと微笑することでカールトンは先を促す。
「アルバグラード会戦での勝利の後、ここキィルータで率いる兵に暫しの休息を与え、反転した。そのデシェルト総督の意図を僕などは量ることなどできませんが――――」
「私にならできるのではないか、と?」
それは買い被りというものです、と、カールトンは朗らかに笑う。
「先日も申し上げたはずです。私は裏方の長である、と。それ以上でもそれ以下でもありませんし、表舞台で踊らねばならない総督の、その信頼に値する手足であれればそれでいい」
穏やかな声音に顕示するわけでもなく衒うでもない誇りのようなものがひっそりと見え隠れする。感情に流されることも、ましてや心酔するなどといったことからも程遠いカールトンのこれに、官吏はほんの少しだけ目を細めた。それだけの何かが、あの総督にはあるというのだろうか。
黙してしまった官吏に、カールトンは困ったように目許を緩める。そして、これはここだけの話にしていただきたいのですが、と、前置きをする。
「私の妻子は、今現在の、帝都にいるのです」
このカールトンの言に、官吏の目に控え目な侮蔑の色が浮く。それに気づきながら、しかしあえてそれに気づかないふりをして、カールトンは先を続けた。
「ならばなぜ自ら率先して動かないのか、と、疑問に思われるでしょうが、一応、私にも考えはありまして」
蒼穹を仰ぐカールトンの目には、小さくなってゆく閃光の白。
「いくら件の会戦に勝利したとて、いくらアレスにて親帝国を掲げる少年王が即位するとて、国境の護りを疎かにするわけにはいきません。たとえ王位争いの名残で内政の安定しないアレスに帝国領を侵犯しそこを支配するまでの余力がないとしても、国境を護るアルバグラード駐屯部隊が先の戦いで疲弊しているということもまた事実。そこで予測される最悪の事態に備える意味も兼ねて、キィルータの組織を繰ることのできるすべての人間が総督府から離れることはできない。そしてキィルータは帝国の北の重し。言うなれば、北方異民族と呼ばれる彼らの、桎梏。実際にはそのような動きがなくとも、水面下ではそのような動きがあると仮定して、我々はここに立たなければならない。それが、この総督府に課されている期待であり役割でもある」
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