Chapter 5


◇◆◇◆◇◆◇

 淡くゆるく鋭利さを増しゆく星明りがすっかり葉を落とした大樹の枝振りの向こうから零れ落ちる。青褐を重ねた夜空はどこまでも果てしなく透明で、煌く街明かりは宵闇に染まりながら静寂に沈んでいた。

「こうしてお前と酒を酌み交わすのも随分と久しぶりだな」

 酌み交わすもなにも、葡萄酒の瓶を一本丸ごと確保しているジョゼフが目許だけで笑う。よく玄関代わりにしていた大司教の執務室の窓の外で、冷えた壁に背を預けて片膝を立てながら座り、酒瓶に手を掛けたままブルネットの青年は咽喉を擡げて頭上にある友人の顔を仰いだ。

「こんな寒い日に外で酒盛りしようとするのは君くらいだろうけれどね」

 昼日中の名残かわずかに凍てゆるんだ風が、開け放たれた窓の際に佇む呆れ顔のシャグリウスの頬を撫でる。それでもそれは軽く肌が裂かれたかのような錯覚を喚起させ、灯りのゆらめかない室内を清めて沈み凝った。
 窓の桟に両腕を置くシャグリウスの手には、今はジョゼフが独占している酒瓶からこの会話が始まる前に注いでもらった葡萄酒に満たされた杯がある。杯の半ばほどまで湛えられたそれに星屑の残滓がゆらめいた。

「静かなもんだ」

 ヴォルガ河の対岸を眺めながら、ジョゼフ。そうだね、と、手中の杯を弄うシャグリウスは、その杯の中で不安定に緩慢に渦巻く葡萄酒の紅に眼を落とした。
 吹き抜ける風が夜の闇に映えるやわらかなプラチナブロンドを跳ね上げて揺らす。河の対岸に眼を馳せて杯を口に運ぶ大司教の耳に、

「猊下」

 と、聞き慣れた声が滑りこんだ。
 数度の瞬きの後、わずかに持ち上げられた顔。その場に主以外の人間の存在を感知していた銀髪の従者は、主のそのかすかな動きが終わる前に小声で耳打ちをする。

「どうした?」

 ダリオ・ファルネーゼが去るのを待って、ジョゼフ・キャンティロンが頭上を仰ぐ。従者からの報告を、この友人は、喋ることができるようなものならば喋るだろうし、黙するが好いことならばどこまでも自らの腹の内にそれを留めるだろう。それを知っているからこそ青年は問う。

「何かあったのか?」

 眼を伏せ口許に手を遣って立ち尽くす大司教は、暫しの沈黙の後、

「転覆するかもしれない」

 ぽつり、と、すんなりとは理解できないことを口にした。
 わずかに眉根を寄せたジョゼフは友人の目線がとある方角に向けられていることに気づき、それを追う。

「もしそうなったら、公国はいかなる手段を用いてもアレスに勝利を献上しようとするはずだ」

 常は穏やかな淡い藍の目が見据えるのは河の対岸。純然たる神への祈りを紡ぐに相応しい玲瓏な声音が、それとは掛け離れた内容を意味する言の葉を撒く。
 現在のカルヴィニア公国の主は、シルザ大司教が庇護している留学生リラ・コトゥスの伯父にあたる男。ウォルセヌス・アクィレイアが総指揮を執ったかつてのヴォルガ河防衛戦に敗北し、甥にあたるリラ・コトゥスを帝国に差し出した張本人。要するに、その男が何らかの要因によって廃されるのなら、順当な場合、跡継ぎは現公爵の弟であるリラの父になる。

「ヴォルガ河防衛戦の敗北により帝国からは事実上の隷属状態に置かれたが、それでもカルヴ二ア公国は名目上は独立している。だからこそアレスからは背中を押されるわけだが――――頭の挿げ替えが成されかけているというのなら、アレスの急進派がアルバグラード会戦によってその頭を失ったにもかかわらず公国に退く気配がないという現在のこの状況、確かに得心がいくな」
「仮に、現公爵を廃し、新たな公爵が立つとするのなら。その新たな公爵が帝国と完全に手を切っているということをアレスに表明したい場合、現状においてそれを証明する最も手っ取り早い手段は、この戦いに勝利することだろうね」

 溜息をつくシャグリウスの眼の先で、気のない様子で河向こうを眺めるジョゼフがやれやれと肩をすくめた。

「あの公国はアレスにとって帝国との防波堤だ。公国がアレスについている限り、アレスが公国を潰す理由はない」
「そして、それにもかかわらず公国が帝国に隷属させられそうになっその時に裏から手を回してすらそれを阻止することができなかったということは、アレスには帝国に攻め入ったところで奪った領地を統治するほどの余力はないのだろうね。まぁ、これはあくまで憶測でしかないけれど」

 滔々と流れる河面は夜空の深さをそのまま映し、水面を遊ぶ風のさざめきが透明な漣となって煌きを散らした。間断なくたゆたう水の流れはどこか呑まれてしまいそうで、なぜか湧き上がるほのかな悪寒が静かに恐怖を喚起する。

- 136 -



[] * []

bookmark
Top
「#幼馴染」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -