Chapter 5




「これはまた侮れんな」

 唇に愉悦を滲ませるのは、今しがた味方に撤退を命じたひとりの壮年の男。騎乗の傭兵は蒼の目に純粋な喜悦をちらつかせながら黒煙に混ざる紅蓮を見据える。
 帝都の城壁より放たれた炎は吸いつくように地を舐めながら丘を下り、乾いた大気と乾いた枯れ草を巻きこみながら踊るように渦を巻いて曇天のぼやけた薄闇を駆逐する。炎は撒かれた油に引火してさらにそのゆらめきを盛んにさせ、それは燻る熱を載せたまま重力に従い丘を下る。
 こうなっては、いかに大陸に名を轟かせる傭兵隊といえど、逆巻く陽炎と黒煙に咳きこみながら後退するしかない。

「さて、高い報酬となるか安い報酬となるか」

 黒煙に翳む城門を遠目に眺めながら、大陸最高峰たる傭兵隊を率いる傭兵隊長――イングベルト・ヴァースナーは面白い玩具を見つけた子どものような笑みをその唇に描かせる。
 頭上に広がるは曇天、地を満たすのは灰の薄闇。透きとおった陽炎に煤が踊り、物に熱が凝った末に発する軽い破裂音と瀑布にも似た盛り踊る炎の大気を取りこみ吐き出す音が鼓膜に満ちる。
 風に煽られながら散じ紛れ鈍重な雲と同化する黒煙と漣のごとくさざめく透明な陽炎。天を目指し踊り狂う深紅はぺらりとした質感をもって城壁を撫で焦がす。
 橙から紅へ、紅から黄の強い緑へ。そしてその色彩は青へと変じ、再び目に艶やかな紅蓮へと流動する。熱と炎が生み出すその深紅の中に、ぽつりと、漆黒の色彩が浮かび上がった。
 城門の上、炎に囲まれながらも悠然と立つのはひとりの女。城壁の外を見下ろす女の緑髪を、女にとっては追い風となる乾いた強風が弄ぶ。
 ゆるく、女の朱唇が優美な弧を描いた。
 炎とともに渦巻く、一時の危機を回避したことの歓喜もそれによって蹂躙された存在の怨嗟も、味方からの畏怖も賞賛も懐疑も、敵からの恐怖も罵倒も怨恨も。そのすべてをその小柄な身に受け止め、風に散るだけの髪を無造作に押さえながら、緩慢な仕草で女はわずかに小首をかしげる。
 長い睫毛に縁取られた蒼の目は炎によって後退した傭兵たちに向けられ、澄み切った蒼穹に酷似するそれに浮かんでいるのは、凍てつく冬空の大気のごとく張り詰めた、どこまでも凛とした冷ややかな怜悧さだった。

「まったく、侮れんな」

 遠く、城門の上で無防備に姿を曝す女帝を目の当たりにし、イングベルト・ヴァースナーは驚嘆の息を吐く。

「本当に、侮れんよ」

 眼を逸らすことさえできずに傭兵隊長がそう零すほどの存在感を放つ小柄な女は、その時、小さく微笑したようだった。

- 135 -



[] * []

bookmark
Top
「#幼馴染」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -