『横になって、目を暝って。昨日までの温もりはないけれど、まだ、「ひとり」じゃないから』
縁側で庭を眺めていた楸瑛は、廊下を歩いている人物に目を丸くした。
「あれ?泊まりじゃないの?」
妹はふて腐れたような顔でこちらに寄ってきた。
「月見酒?」
「うん。君も一緒に飲もう」
楸瑛が自分の隣をポンと叩くと彼女はそこに腰を下ろした。
しばらく無言で酒を飲んでいると、月華がぽつりぽつりと話し始めた。
「絳攸にね、見合いするって言ったら『だからなんだ』って言われたの」
「私が教えた時も同じことを言っていたよ」
「それでね、私は絳攸にとってなんなのか聞いたわけ」
月華は杯をぐいと傾けた。
「そしたらあの女嫌い、楸瑛の妹って答えたの」
「うわあ‥‥‥」
楸瑛はだんだん妹が不憫に思えてきた。‥‥‥自分も人のことは言えないが。
「結局私は、絳攸にとってどーでもいい存在だったみたい」
僅かに語尾が揺れる。それをごまかすかのように杯をまた傾けた。
「自分の気持ちは伝えたのかい?」
こくりと、月華は首を縦に振った。
「返事は?」
楸瑛は自分の杯に酒を注いだ。ついでに妹の空になった杯にも注いでやる。
「聞かないで戻ってきた」
「そう‥‥‥」
「‥‥‥」
月華は庭を見て、また黙ってしまった。
絳攸は月華がいなくなってからも、椅子に座ったまま呆然としていた。
俺は、月華に、何を言われた?
月華は、俺に、なんと言った?
本当は、こんなこと考えなくても分かっている。
月華の表情が目に焼き付いて離れない。
月華と初めてあったのは、国試を終えた日だった。
彼女は楸瑛を迎えに来ていて、昼餉を三人で食べた。
その時は疲れた頭で、よく笑う奴だとしか考えなかった。
それからなぜか月華は自分の周りをうろちょろするようになった。
まあそれも吏部の仕事を本格的に任される前までだが。
自分が黎深様とは別の邸で暮らし始めたころに、また月華はふらりと現れた。そして気がついたら寝泊まりするようになっていた。
「‥‥‥まさか、この頃から?」
絳攸がふと呟いた時、蝋燭の明かりが消えた。ずいぶん長い間考えていたらしい。
ふいに寒さを感じて、絳攸は自室に戻った。
寝間着に着替えてから、布団にくるまる。
まだ春とは名ばかりで夜は室全体が冷え込み、敷布も冷たい。
けれど、いつもはもっと温かかった気がする。
(あいつが先に寝ていたから‥‥‥)
いつもこんな冷たい敷布に寝転んでいたのか。
今日は本当にいつもより寒い。月華も今頃寒がっているのだろうか。
「‥‥‥ゆう、絳攸!」
「わっ、なんだ、おまえか」
「おまえか、ってね‥‥‥」
楸瑛は小さくため息をついた。
絳攸はここのところぼんやりしていることが多い。
正確に言えば、月華と自分が月見酒を飲んだ次の日からだ。
もう七日も経つというのに、本を開いたと思えば窓の外を向いては呆け、お茶を飲んではため息をつき、道を歩けば迷い込む。
三つ目だけはいつも通りだけれど、まさかここまで影響するとは‥‥‥。
(案外脈有りなんじゃないか?)
当の月華はと言えば、今日も邸でだらだら過ごしている。
ふっ切れたのか諦めたのか、それは分からない。
「楸瑛」
「ん?」
「あ、明日の公休日、その、」
「いいよ、うちにおいでよ」
「お、おう」
「月華も君に会いたいと思うし」
「なっ、なんで月華が!お、俺はだな、」
(分かりやす過ぎるよ、絳攸‥‥‥)
「あ、楸瑛おはよう」
「おはよ‥‥‥」
う、と言おうとして楸瑛は絶句した。
そこには可愛い妹がいる‥‥‥はずだった。
最近自室に篭りっぱなしでろくに会ってなかったが、まさかここまでひどいとは。
「髪はぼさぼさ衣はそのまま顔は絵の具だらけ‥‥‥君、この前お風呂入ったのいつだい?」
今日は公休日、絳攸が来る日だ。
「えーと、四、いや、五日前かな」
「‥‥‥」
「楸瑛?」
「い、今すぐ湯浴みをしてきなさい!今すぐ!」
「え?」
「お願いだから急いで!」
彼が来るまであと一刻しかない。
楸瑛があんなに急かすなんて珍しい。いつもは適当な感じで「湯浴みでもしてきなよ」なんて言うのに。
侍女に乾かしてもらったものの、まだ少し髪が湿っている。
久しぶりにお風呂に入ってさっぱりした。
はずなのに、心がもやもやする。
もちろん原因は分かっている。きちんと受け入れなくてはならないことも。
だけど、考えたくない。認めたくない。
月華はそんな自分に苦笑した。
自分はもっとさばさばした人間だと思っていたのに。
「あれ?彼は?」
客間に入った楸瑛は先程までおとなしく座っていた「彼」がいないことにすぐに気がついた。
「厠に行くとおっしゃったまま‥‥‥」
困ったように侍女が答える。
「しまった‥‥‥」
「彼」は広い我が家で遭難しているのだろう。
楸瑛は天を仰いだ。
「――何故だ」
何故客間が無いんだ。
絳攸は通った覚えのない廊下、見た覚えのない景色の中で一人佇まざるを得なくなっていた。
(と、とりあえず進むか‥‥‥)
絳攸は自分に「迷ってなんかない」と言い聞かせながら廊下の角を曲がろうとした。
「わっ!?」
「俺は迷ってなんかいないぞー!」
突然角からでてきた人影に思わず叫んでしまったのを若干後悔しつつ、その人影の顔を見て固まってしまった。
「あれ?絳攸‥‥‥」
月華は固まってしまった絳攸の前で手をひらひらと振りながら首を傾げた。
もしかして‥‥‥楸瑛があんなに急かしたのは彼が来るからだったのか。
少し歩いてから腰を下ろす。
前に兄がやってくれたように自分の隣をぽんぽんと叩く。
「座んなよ」
「あ、ああ」
絳攸は言われるがままに月華の隣――少し離れて――座った。
暖かな日差しが壮麗な庭を柔らかく包み込んでいた。
梅の花弁が風に吹かれてひらりと散った。
月華と絳攸は互いに何も言わず、ただ、縁側に腰掛けて庭を眺めていた。
そよそよと風が頬を撫でていく。
その感触に月華は目を閉じた。
――春の匂いがする。
心が、不思議と穏やかだった。
このまま時が止まればいい。
だけどそれは有り得ないから、願わない。
絳攸は絶対に嘘をつかない。
だから、好きだ。
絳攸が口にしたことは本当の事だから、ただ、受け入れるしかない。
月華は目を開いた。
また花弁がはらりと池に浮かんだ。
いざ会いに来てみたはいいが、上手い言葉が思いつかない。
伝えたいことがある。
だが、言葉として紡げない。
稚拙な単語が浮かんでは消え、消えては浮かんで。
梅の花弁が、はらりと散った。
ちら、と隣を見れば、月華は目を閉じていた。
その表情が穏やかで。
優しくて。
いつか二人で見た朱い淡い月を思い出した。
夜明け前に二人で酒を呑んで、月を見た、あの夜。
その時浮かんだ感情をそっと心の奥にしまったのを覚えている。
胸が、疼く。
心が、揺れる。
昨夜月華が見せた切なげな笑顔と、今浮かべている穏やかな微笑。
どちらもとても綺麗なのに、自分と月華の間に大きな壁ができたようで、落ち着かない。
――嫌だ。
なんでだ?俺は何か間違えたのか?
まだ、取り戻せるだろうか。
月華が、目を開いた。
時間切れを示す様に、花弁が池に落ちた。
「で、なんか用があってきたんでしょ?」
月華が絳攸のほうを向くと「ああ」と上擦ったような返事がかえってきた。
「この前は‥‥‥なんで泊まっていかなかった。いつも夕飯くらいは食べていくだろう」
違う、こんな事が聞きたいんじゃない。
絳攸は心の中で呟く。
「うーん‥‥‥」
首を傾げた月華の簪が、シャラン、と涼しげな音をたてた。
「だって、兄の友人の家に入り浸るなんて不自然でしょう?」
「‥‥‥今まではそんな事一言も――」
「だって!」
絳攸の言葉を遮るように月華はもう一度「だって」と言った。
「絳攸がそう言ったんじゃない‥‥‥」
ああ、こんな事を言う予定じゃなかった。
でも、そんな目で見られたら落ち着いてなんていられない。 絳攸が小さく息をのんだのが聞こえた。
「ごめん‥‥‥今のなし。忘れて」
「その事なんだが‥‥‥」
そっぽを向いて俯いてしまった 彼女の肩が少しだけ揺れた。
「あの時は質問の意味がよくわからなくて咄嗟に答えたんだが、この七日間よく考えてみた」
もそりと彼女が向きを変える。
こちらを見る目が幼い子供のようで緊張しているはずなのに、頬がほんの少しだけ緩む。
「‥‥‥それで?」
「俺にとってのおまえは‥‥‥」
月華が、こくりと息をのむ。俺は池で溺れている気分だ。いや、このまま溺れ死ぬかもしれない。緊張し過ぎで、だ。
「よくわからん」
「はあ!?」
月華はガクリと脱力した。
「だが、その、‥‥‥大切にしたい、とは思う」
「‥‥‥それは‥‥‥」
妹として?友人として?
それとも‥‥‥
「俺は‥‥‥あまり、その‥‥‥常春みたいに、け、経験があるとか、いや、むしろ女を好きになった覚えがないから‥‥‥この気持ちが『好き』かどうかは、わからない」
顔を真っ赤にしている絳攸の言葉が何処までも真摯で月華は口を開いた。
「‥‥‥一生懸命考えてくれてありがとう」