『すれ違って、重なり合って。「もし」は無いから、だから、ただ、あなたが「好きです」』
「絳攸様、申し訳ありません」
最近にしては珍しく遅く――もう日付が変わるかという時刻――に帰宅して早々、家人が蒼白な面持ちで頭を下げた。
「まさか‥‥‥奴がいるのか?」
「申し訳ありません、お止めしたのですが」
「いや、いつも大変だろうにすまない」
オロオロと部屋のほうを見る家人を下がらせてから自分の部屋に向かう。
くそっ、今日も来たのか!
ここ最近、俺が「定時に終わる」かつてないほど暇な仕事にさせられてから毎晩とんでもないものが来るようになった。
「おい!なんでおまえがここにいるんだ!」
部屋の中に姿が見えないと思って寝台を見ると、案の定布団が丸く盛り上がっていた。
「うー‥‥‥うるさいよー」
「俺の部屋だ!」
誰の部屋だと思っているのか、奴はのそのそと起き上がる。まだ眠いらしく、目を擦りながらぶつぶつと何か呟いた。
「おかえりー」
「おかえり、じゃない。なんで毎晩毎晩俺の部屋にいるんだ!」
「眠いからに決まってんでしょーが」
「自分の部屋で寝ろ」
「絳攸と一緒に寝たいんだもの」
そう言って俺の寝台でまた丸くなる。
「俺が女嫌いと知ってのことか!?」
「うん、まあね」
「兄貴のところに帰れ!」
「楸瑛は今日も妓楼に行った。絳攸も行く?」
奴は可笑しくて仕方ないという風にニヤリと笑った。明らかにからかわれている。
「っ、帰れーっ!」
最近毎晩俺の部屋に来るとんでもないもの、それは、藍楸瑛の‥‥‥妹。
俺が半ば叫ぶようにして掛布をめくると、楸瑛の妹――月華は膝を抱えこんで丸まっていた。
「こんな夜中に一人で帰らせるつもり!?」
「軒くらいは出してやる」
「わざわざ家人を起こすの?明日も朝早いのにかわいそーうに」
ならどうしろっていうんだ!
そう言いたいのを眉間に力を込めてぐっと我慢する。言えば「泊めろ」と攻められるに違いない。
「いいから泊めて?」
言わなくても同じだった。
兄貴そっくりの胡散臭い笑顔で寝台に寝転ぶ。
「勝手に寝るな!」
「添い寝くらいでうるさいなー」
もう寝る、そう残して目をつむったかと思うとあっという間に静かな寝息が聞こえてきた。
「‥‥‥俺も寝るか」
さすがに七日も同じことが続けば諦めるのも早くなる。家人達はきっと寝てしまっているだろうから、別の部屋を用意してもらうわけにもいかない。
ため息を一つついて、寝台に入った。もちろん月華とは極力離れてだ。わりと広めの寝台なので長枕を間に置けば問題ないだろう。
「何故俺がこんな目に‥‥‥」
枕の向こうの穏やかな寝息を聞きながら目を閉じた。
朝、太陽の眩しさに目を開けると整った寝顔が真っ先に目に入ってきた。
(な、なに!?)
どういうことかと視線を動かすと、抱きしめていた。
具体的に言うと、 俺が月華を抱きしめていた。
俺が‥‥‥月華を‥‥‥俺が‥‥‥俺が!?
「うわーっ!」
いつの間にか俺は移動していたらしく、慌てて後ずさるとすぐに背中が壁についた。
「んー?」
「違う!断じて違うぞ!」
月華が眠そうに目をこすっている。
違う、違うぞ。何が違うって、いや何がって何か知らないが。俺を鉄壁の理性とか言った奴は出てこい!
「おはよう」
「あ、ああ」
「支度しなくていーの?」
「支度?そ、そうだな、支度を‥‥‥しまった!」
こんな状態で遅刻なんてしたら、あの常春に何を言われるか分かったもんじゃない。
「楸瑛、貴様昨日も妓楼に行ったらしいな?」
「おや、月華が泊まりに行ったのかい?」
「そうだ。おまえが家に帰らんせいで毎晩俺の部屋に来るんだぞ!」
俺がまくし立てると楸瑛が面白そうに笑った。この腹の立つ表情、兄妹でそっくりだ。
「それで?」
「は?」
「毎晩一緒に寝てるんだろう?どこまでいったんだい?」
「‥‥‥っ!この常春がっ、貴様と一緒にするな!」
「えー?だって月華だって仮にも女の子だよ?何もないってことはないだろう。それともまさか君‥‥‥」
「‥‥‥なんだ」
楸瑛の窺うような視線に、少したじろぐ。
「主上と同じで男色家なんじゃ、」
「そんなわけあるか!」
「っと、危ないな」
かなり分厚い本を投げ付けたのだが、軽々と受け止められてしまった。兄妹揃って頭にくる奴らだ。
「だいたいアレは生物的には女だが‥‥‥」
「まあ、ね‥‥‥ちょっと大胆だよね」
「もう少し常識を身につけさせたほうがよくないか?」
「いや、常識はあるんだよ‥‥‥活用しないだけで」
お互い窓のほうを向いて、ため息をつく。若干楸瑛のため息のほうが深いのは、気のせいではないだろう。
「二人とも暇なのねー。早速窓際族?ご愁傷様」
奥から出てきたのは、いやににこやかな顔をした月華だった。
「私だって常識くらいあるわよ?」
「月華、なんでおまえがここに‥‥‥?」
楸瑛が首を傾げると、月華は懐に手を突っ込んで文を取り出した。
「はい、雪ちゃん達からの文。べつに急ぎじゃないみたいだけど」
受け取った文を読み始めた楸瑛は、また小さくため息をついた。
「おい、どうやって入ってきたんだ。外朝は女人禁制だが」
「え?府庫はいいんでしょ?」
「普通は入れないんだが‥‥‥」
俺が呟くと、月華は事もなげに答えた。
「ま、直紋様バンザイ!ってとこね」
「‥‥‥月華、」
今まで黙っていた楸瑛が口を開いた。自分が書いたらしい文を差し出す。
「これを兄上達に」
「ん、りょーかい。じゃあ暇潰し頑張ってね」
月華は名家の姫らしからぬ様子でひらひらと手を振りながら出ていった。
相変わらず奔放な奴だ。
「参ったな」
月華の後ろ姿が完全に見えなくなってから、楸瑛がポツリと呟いた。
「どうした?」
「あの子を、月華を‥‥‥見合いさせろと」
俺は飲んでいた茶をうっかり吹き出してしまった。
「今から嫁の貰い手はあるのか?」
「突っ込むところはそこなのかい?」
「じゃあ、あの性格で嫁にいけるのか、か?
いくら直系ではないと言っても藍家の縁談相手ならばある程度の名家だろう。
正直そんなところの嫁が月華に勤まるとは思えない。
「まあ突っ込みどころはいろいろ盛り沢山なんだけど‥‥‥一番の問題は月華自身なんだよねえ」
今までも月華のところに縁談の話はたくさん来ていた。
しかしその縁談を片っ端からはねのけたのは月華本人だ。
あの三つ子当主がどんなに推しても、裏で手を回しても、縁談についてだけは自分の意志を押し通してきた。
自分で稼いでいるので、さらにタチが悪い。
「しかしなんで今頃になって見合いなんかさせるんだ?」
「うーん‥‥‥私もそこが不思議なんだよね。もうとっきに諦めたかと思っていたんだけど」
「‥‥‥まあ時間はたっぷり、むしろ持て余してるんだ。ちょうどいいだろう。頑張れよ」
「頑張れよ、って、ずいぶん人事だね」
「俺には関係ないだろう」
「月華のことなのに?」
「だからなんだっていうんだ」
そう言って、手元の本に視線を戻した絳攸を見て、楸瑛はまた一つため息を零した。
(我が妹ながら報われないねえ‥‥‥さて、あの子はどうするつもりかな)
楸瑛は、窓の外にあるまだ蕾にもなっていない桜を見る。冷たそうな風が、梢を揺らしていた。
「楸瑛お帰りー」
「ただいま」
楸瑛が帰宅すると、今日は邸にいるらしい月華が料紙から顔を上げた。
「今日は早いね」
ニヤリと口角を上げると、また料紙になにやら書き込み始めた。
絳攸はそっくりだといつも言うけれど、私はこんな笑い方をしているのか。
まあこれはこれで魅力的ではあるけれど。
「まあそういう日もあるよ‥‥‥ところで月華」
「なあに?」
「兄上達から見合いの話が来ているんだけど」
ピタリと月華の手が止まる。
「見合い?まだ諦めてなかったの?」
「そうみたいだねえ」
目を閉じてしばらく眉間をぐりぐりと押した後、月華は果てしなくため息に近い深呼吸をした。
「どこの家?」
「おや、断らないのかい?」
楸瑛は意外そうに目を丸くした。いつもなら問答無用で兄達に文を書いて、意地でも断るのに。
「まあね」
月華は料紙を丁寧に畳んだ。
「私ももう二十だし、いい加減嫁き遅れだもの」
「絳攸のことは、いいのか?」
「どーせ『俺には関係ない、勝手にやってろ』みたいなこと言うに決まってるわよ‥‥‥」
口唇を尖らせて、ふて腐れたように机に突っ伏した月華の髪を、そっと撫でた。
「もうかれこれ六年近く想い続けているのにね」
「楸瑛も似たようなもんでしょうが。‥‥‥絳攸に言ったの?」
「言ったよ。君の予想通りの反応だったけど」
楸瑛が苦笑気味に伝えると、月華はふらりと立ち上がった。
「そっか」
「絳攸の家かい?」
「うん。行ってきます」
「絳攸に、伝えてしまえばいいのにね」
もう六年も、ただ一人を想い続けているのだから。
「おかえりなさいませ」
「‥‥‥今日も来ているのか?」
夕餉の時刻に帰った絳攸は、近頃この質問が当たり前になっていることに若干焦った。
「‥‥‥はい」
そしてこの答えが定着していることにも。
「ったく、おまえは毎日何しに来るんだ!」
室に行くと当然のように月華がお茶をすすっていた。
「おかえり」
「おかえり、じゃない!」
絳攸が近づくと、月華はすっと立ち上がり、真っすぐにこちらを見つめた。
「絳攸」
「なんだ」
月華は、もう一度小さな声で絳攸を呼んだ。
(なん、だ‥‥‥?)
その声があまりにも弱々しくて、月華が今にも消えてしまいそうな気がした。
鼓動が、少しだけ早くなる。
「見合いをすることになった」
「楸瑛から聞いたが‥‥‥それがどうした」
沈黙は一拍。
「絳攸にとって私は何?」
「なんだと?」
短い質問なのに意味がよく分からない。
俺はこんなに間抜けだったのだろうか。
「絳攸にとって、私はどういう存在なの?」
月華は静かに繰り返した。
「楸瑛の妹、だが」
「ふーん、そっか」
もう一度、そっか。と無表情のままに呟いた。
「私はね、単に楸瑛の友達だと思ったことなんて一度もなかった」
「‥‥‥?」
ゆらりと、蝋燭の明かりで月華の影が揺れた。
「私は、あなたが好き」
「なっ、」
「絳攸のことが好きなの」
時が、止まった気がした。