学者である父のところにやってきたのは、彼の上司に当たる人だった。いかにもお役人様という真面目な風貌だったけれど、無愛想というわけでもなく、取り立てて嫌な感じはしなかった。その後ろで静かに立っていたのが彼だった。
年は私とそう変わらないだろうに、退屈そうな素振りも緊張した素振りも見せず、ずいぶんと落ち着いた様子で二人の話に耳を傾けている姿が印象的だった。
話の中で本をいくつか貸すことになったようで、父は書庫からそれらを持ってくるよう私に言った。

「お手伝いいたします」

彼の申し出に、父を見る。微笑んだ父は礼を言ってから、数冊なので問題ないと断った。
初めての、それも役所から来た客だ。邸の中を案内するつもりも、蔵書を無闇に晒す気もないのだろう。
書庫で言い付けられた本を探す。やはりどれも複数ずつ所有しているもので、最悪、返ってこなくてもいいものばかりだった。

その後も何度か彼らは父を訪ねてきては幾刻か話をして帰っていった。本は貸したり貸さなかったりで、今のところ貸した本は次に来訪した時にはきちんと返ってきていた。
彼は相変わらず初めてきた時と変わらない様子で、時たま私と目が合うと、その整った表情を小さいながらも柔らかく崩してみせた。
父のところには学者の卵や若い官吏、塾徒も通ってきていたので、同じ年頃の彼らと話をすることは多い。それでも、彼のような人はいなくて、彼と目が合う度に落ち着かない気持ちになった。



桜の花びらをすっかり見かけなくなって、雨が緑色の葉を打つことが多くなった頃、彼がひとりで邸を訪れた。上司からの文を父に渡し、四半刻ほど話をしてから、いつものように本を借りていった。

「今日はひとりでいらしたのね」
「あちらは色々と立て込む時期だからね。まだ若いのに中々しっかりしているよ」
「へえ」
「うちの塾にも来てくれないかなあ」
「忙しいからもう生徒は増やしたくないってぼやいてたのに」
「そうだったかな」

とぼけて笑う父だったけれど、どうやら彼のことを信用したようだった。



その日は運悪く、ちょうど帰ろうかという時に雨が降り始めた。やはりいつものように本を貸すつもりだったので、父は雨が止むまでしばらく待ってくれないかと彼に言った。

「もちろんです。大切なものですから、濡らすわけにはいきません」
「忙しいだろうにすまないね。お詫びというわけではないが、待ってる間に書庫でものぞいて行くかい?」
「よろしいのですか?」
「ああ。娘に案内させよう」

父の言葉に驚いたのは彼だけではない、私もだった。塾徒にだってほとんど見せることはないのだ。
父は私を見て小さく頷いた。父がいいと言うのなら私が意を唱えるべきではないだろう。

「どうぞ、こちらへ」

半蔀を開けると、薄暗く、ひんやりとした書庫の空気がぐるりと動く。
彼は入り口に立ったまま、楽しそうな様子で顔だけを動かした。その姿はいつもとはほんの少し違う、年相応のひとりの男の子のようだった。

「すごい量ですね……まさかこんなに広いとは思ってもみませんでした」
「学者の家系なので、古い本が溜まっていくんでしょう。どうぞ、中もご案内しますから」

そう言うと、彼は遠慮がちに書庫の中へ踏み込んだ。案内をしている間も、決して本や棚に手を触れず、私の後ろをついてくるだけだった。
素直に、いいな、と思った。
この家の一番大事な部分を分かっていなければ、できない仕草だ。そしてそれを分からない人は少なくない。

「清雅さんのお家も学問とか、何か研究をなさっているのですか?」
「いいえ、とてもそんな雰囲気ではありませんよ」

もしかしたら同じような家なのかと思ったけれど、そうではないらしい。

「なので、先生とお話させていただくのが本当に楽しいんです」
「父も清雅さんと話していると楽しそうですよ」
「それは光栄だな」

照れたように前髪を撫で付けて、自分でも気がついたのか誤魔化すように笑って見せた。
今までなんとなく距離を感じていたけれど、それは仕事中だからであって、案外普通の人なのかもしれない。
そう考えたら途端に話しかけ易くなって、それからは彼が来るたびに少しだけ話をするようになった。



「先生の跡は継がないんですか?」
「……私がですか?」

日差しがとびきり強い日だった。夕方になっても暑さが残っていて、冷茶を注いだ器がすぐに汗をかく。

「だって、ずっと先生の側で研究のお手伝いをしていたんでしょう?知識だってその辺のお弟子さんよりもあるんじゃないですか?」
「はあ……考えたこともありませんでした」
「どうして?」
「どうしてって、」

彼はほんの少しだけ目を丸くして、でもどこか面白がるような表情をしていた。

「私は女ですし、いずれ嫁ぐか、それか研究を継いでくれる方に婿に来てもらうかするんじゃないでしょうか」
「それだけ勉強されていて、何も、というのももったいないような気がしますけど」
「……そんなに褒めてくださるなら氷菓子でもお出ししましょうかね」
「からかっているわけじゃないんですよ」
「それは分かってますけど」

考えたことがないわけではない。けれど、自分にそこまでの才覚がないことも知っているし、そこまでの情熱がないことも気がついてしまっている。家にいる間は出来る限りのことはするつもりでいるけれど、ただ、それだけだ。
さすがにそこまで開け広げには言えなくて、彼を見つめる。察してくれたのか、おどけたように小さく肩をすくめた。

「あんまり遅いと上司に叱られるのでそろそろ失礼しますよ」
「あら、氷菓子をお出しできなくて残念」
「では次に期待しておきます」

悪戯っぽく笑った彼の背中が、少しだけ名残惜しかった。



「遅くまで引き止めてしまってすみません」
「いいえ、僕のほうこそたくさんご馳走になってしまいました」
「本当は父が見送るべきなんですけど、飲み過ぎてしまったみたいで……重ね重ねすみません」

ちらりと見上げると、月はずいぶん高いところまで昇っていた。
昼間の暑さがまだぼんやりと残っているけれど、ゆるやかな風が吹いて心地の良い夜だ。
うっかり夕餉の支度をする時間帯に来た彼は、これは好機とご機嫌な父に、あれよあれよと言う間に箸を握らされ肉を盛られ酒を注がれたのだった。

「僕も久々に賑やかな食事で楽しかったです」

そう言う彼の横顔はいつも通り涼しげだ。

「お酒、強いんですね」

一緒に飲んでいた父は嘘か本当か、立ち上がれないからと私に彼を見送るばかりか庭の秋牡丹が見事だから見せてから帰すようにと命じてさっさと奥に引っ込んでしまった。立ち上がれないと言ったくせに、歩けるではないか。

「そう見えますか?」
「だって、いつもとおんなじですもの」
「顔に出ていないだけですよ」

その横顔がうっすらと光を帯びた。小さな吐息が漏れる。

「こんなにたくさん……見事ですね」

広がる白色が薄明りを受けて、まるで花そのものが薄っすらと光っているようだった。
土が良かったのか増えるだけ増えてしまった花だけれど、そんな無粋なことは黙っていよう。
二人並んで、黙って白い花を眺める。風に流れてほんのりとお酒の香りがした。触れていないのに肩の辺りが熱を帯びる。酔っているというのは、嘘ではないらしい。
今、横に立つ彼はどんな顔をしているのだろうか。ちらりと横目で覗く。覗いて、驚いた。
疲れたような、泣きそうな、そういう顔をしているように見えたのだ。
見てはいけないものを見た気がして、思わず瞬いた。瞬いて、目を開いた時には、花を愛でるような柔らかな表情を浮かべていた。

「ありがとうございます。良いものを見られました」
「こちらこそ……清雅さんがいなければ秋牡丹がこんなに素敵な花だとは気がつかなかったかも」

ゆっくりと歩いたはずなのに、すぐに門へとたどり着いてしまった。互いに挨拶をしてから、そっと門扉を閉める。
あの横顔を思い出して、門の向こうを歩く彼は今どんな顔をしているだろうかと、つまらないことを考えた。



日中もさわやかな風が吹いてずいぶん過ごしやすくなった頃だった。その日は昼前に彼を見送って、昼食を済ませてから用事のために街へ出かけた。
道中、ふとなにかが引っかかった気がして足を止める。

「清雅さん?」

自分でもよく見つけたと思うが、道沿いの斜面の少し窪んだところに彼が座っていた。驚いたように振り向いて、それからすぐにバツの悪そうな顔になった。
近くまで草の上を慎重に下る。彼の足元には、大判の手巾が広がっていて、我が家から借り受けていった本が重ねられていた。

「大切な本をこんなところで申し訳ありません」
「お天気もいいですし構わないですけど……」

聞けば、これまでも行き帰りのほんの少しの時間だけこうしていたのだと小さな声で白状したのだった。

「戻ればすぐに上司に渡さなくてはいけないので、どうしても読みたくて」
「それならうちにいる間にお読みになればよかったのに」
「そうもいきません。あんまり長居して変な噂が立ってもご迷惑でしょう」

律儀な彼らしい言葉だった。珍しくしおらしい姿が少しだけ可笑しい。

「そんなに申し訳なさそうにされると困ってしまいますね」
「だって……」
「書庫にあるものはお貸しできる本だけですから、このくらいなら父もうるさく言わないと思いますよ」
「そう言っていただけて安心しました」

ようやく笑って、それでもしゃがみこんで本を仕舞い始める。

「書庫にあるものは、ということは、貴重な本はお父上が管理されているのですか?」

彼は本を包んだ手巾を縛っていて、立っている私からは表情が見えなかった。なんとなく違和感があって、違和感があることに動揺して言葉を選びきれなかった。

「……さあ?そんなこと聞いてどうするのですか?」

ピリリとしたものが互いの間をすり抜けた気がした。ただの少年ではないのだ、彼は。
彼が顔を上げる。眩しそうな顔は、きっと天辺を過ぎた太陽が目に入ったからだ。

「単なる興味です。上司にもよく叱られるんですよ。なんでもかんでも知りたがるなって」
「まあ。お優しそうな方なのに意外です」
「意外と怖いんですよ。そろそろ帰らないとまた叱られてしまう」

おどけたように肩を竦めて、わざとらしくため息をつく。その姿はいつもの彼と同じで、思わず笑ってしまう。結局、途中まで他愛のない話をしながら並んで歩いた。
彼と別れた後、あの違和感は自分の考え過ぎなのだろうと思い、自分の用事を済ませる頃にはすっかり忘れてしまっていたのだった。



風に乗ってきたのは、散りかけの金木犀の香りだった。歩きながら、ひんやりとした頬をなんとなくさする。なにか羽織るものを持ってくれば良かったろうか。
ここのところ、父はあちこちに出かけていて家のことまで手が回らないようだった。祖父の代から郡府との付き合いはあったけれど、何か新しい試みでも考えているのだろうか。ここまで頻繁に会合が行われたり郡府の人間が出入りするようになったのは初めてだった。
おかげで細かなお使いごとが増えて、私もあちこちに出歩くことが多くなった。ばたばたと日々を過ごしていたら、金木犀の香りもすっかり淡くなってしまっていた。

「なんだかお久しぶりですね」

邸に帰ると、門のところでばったり彼と出くわした。先に口を開いたのは彼のほうで、確かにこうして顔を合わせるのは先日の道端以来だった。

「今日も何か本を?」
「いえ、お父上に会いに来ました」
「あら、今日も会合があるとかでお役所に行きましたけど」
「参ったな、すれ違いか」

困ったように髪を触る姿が少しだけ子どもっぽくて、同い年くらいだというのに可愛く感じてしまう。

「清雅さんのところだとばかり思っていました」

彼が頻繁にうちに出入りするのも、彼の所属している部署が主だって管理しているからだった。

「先生から聞いてないんですか?」
「ええ、そちらとの研究のことは娘の私でも教えてもらえませんから」
「さすが先生ですね。しっかりしてらっしゃる」

感心したように頷いて、それからちらりと邸の方を見た。

「でも塾や書庫で見かけたりするのでは?」
「私や生徒さん達が入れるところには置いてないですね。どこに隠しているのやら」
「へえ……あ、」

視線を戻した彼が、静かにこちらに手を伸ばす。私の髪にそっと触れて、何度か指を動かした。

「すみません、花びらがついていたので」

目の前に、小さな黄金色の花弁を一房掲げられる。金木犀だ。それ越しに彼の目を見ると、同じように彼も私を見ていた。心臓が少しずつ動きを速める。
ぱっと、金木犀が地面に落ちた。再び伸ばされた指は、私の髪を一房掬って耳にかけた。

「……私が知っていたほうが良かったですか?」
「何をですか?」
「新しい研究のことをです」
「いえ、お手伝いしていてもおかしくないのに、と思っただけです」

一歩踏み込むと、清雅さんは少しだけ口の端を釣り上げた。初めて見るその仕草が、普段の彼とは不釣り合いなはずなのに、妙に惹かれた。

「最近は清雅さんもあの方もあまりいらっしゃらなくなりましたね」
「先生がこちらのほうに来てくださるからですよ」
「そうでしょうか。いつも清雅さん達のところにお邪魔しているわけではなさそうですから」
「詳しくは言えませんけど、今回の案件は色々な部署が絡んでいるのでうまく連携が取れてない部分もあるんです」
「そうだったんですか」

にっこりと笑ったその顔は、もういつも知っているものと同じだった。

「まだしばらくかかりそうなんですか」
「うーん、雪が降るまでには目処が立ちそうですけどね」
「当面お互いばたばたしてしまいますね」
「そうですね、日頃のお礼に甘味処でも案内したいところではありますが」

今度は私が彼に手を伸ばす。肩口に乗っていた枯れ枝をそっと摘んで地面に落とした。

「私をですか?」
「もちろん」
「では楽しみにしていますから、忘れないでくださいね」
「まかせてください」

話せば話すほどに、彼の知らない部分が増えてくるようだった。確かに好ましいのに、どこかで疎ましく思っている自分がいる。つまらない見栄なのか、嫉妬心なのか、それとも振り向かない彼に焦れているのか。どれもしっくりこないような気がして、結局いつもなんでもないような戯れ言で別れてしまうのだった。



最近になってようやく落ち着いてきたようで、父は邸にいることが多かった。とはいえ、塾やら研究やらで私室に籠りがちではあった。
そして、それはそんな数日が過ぎて、この冬初めての氷が張った朝のことだった。
まだ薄暗い中、武装をした警邏のような男達が十数人程で門の周りを取り囲んでいた。呼び出しを受けた父は、これまで見たことのないような険しい顔で表に出た。ついていく私を一度だけ止めて、それでも、

「これも勉強だ。ただしおまえは騒がず、食い下がらず、黙って見ていなさい。言われたことには素直に従うこと。いいね」

と普段通りの口調でそう言った。それから、もう前だけを向いていた。
武装しているのはどうも軍の人間らしかった。隊長格らしい男と並んで、郡府の人間が数人立っていた。その中には彼の上司もいて、別の官吏が父の罪状を述べる間、少し得意げな顔をしてそれを聞いていた。そしてその後ろには、やはり彼がいて、緊張するでも嫌悪するでも、ましてや嘲笑する様子もなく、ただただ静かに佇んでいた。
混乱する頭でそれでも言われた通り黙って聞いた話によると、父はどうやら謀反の疑いをかけられたらしい。郡府との共同研究を私欲を肥やすために他所に流そうと、そして役所の中で権力を握ろうと、そういうことを企てたらしかった。
縄をかけられ、荒っぽく連れて行かれた父は、とうとう最後まで私の顔を見ることはなかった。

幸いなことに、邸の使用人達は数人を除いて留まってくれるようだった。母は昔に亡くなっているし、姉達は皆嫁いでいる。残念ながら兄も弟もいないこの家では、父のいない今、主人格の人間は私一人だ。それでも残ってくれているのは父のおかげだろう。
父が連れて行かれて、軍の人間と入れ替わるように何人かの官吏が邸に乗り込んできた。罪状を固めるための証拠でも探すのだろう。聞かれたことには素直に答え、邸の中も自分が知る限りは案内した。様々な書物を持ち去られ、それでも、父の言いつけ通りにした。どちらにしろ本当に重要なものは私の知るところにはないのだ。官吏達にも到底見つけられまい。そもそも、恐らくそんな証拠など存在しないのだから。

そんな状況が数日続いた。邸の中は散らかっていく一方だけれど、それよりも父の身が心配だった。連れて行かれた時は寝巻き姿で、もしも牢に入れられているなら酷く冷えるだろう。食事はどうなっているのか、いつ解放されるのか。釈明の余地はあるのか。考えても仕方のないことだが、考えずにはいられなかった。そして、あの時あの場に彼らがいたのは、告発者だからだろうか。単に担当部署の人間だからだろうか。後者だとしたら、疑いをかけられるのは彼らも同じだろう。だから多分、彼らが父の罪を何者かに教えたに違いない。
どうして、とは思わない。そんなに綺麗な世界ではないのだろう。
彼との今までのやりとりを思うと、あれが全て嘘というのも信じがたく、けれど、ようやく違和感の正体が分かってなんだかホッとしている自分がいた。

父との面会は驚くほどすんなりと受け入れられた。邸や娘の私を探っても何も出てこなかったからか、それとも家族に会わせて気が緩んだところで揺さぶりをかけるつもりか、どちらにせよこちらの希望が叶うのなら有難い。持ち込んだ差し入れは全て中身を確認されたけれど、日用品しかなかったのでこちらもあっさりと通された。牢の中にいた父は、想像の何倍も元気そうで安心した。こちらの近況だけ聞いて、自分のことは心配しなくても大丈夫だと、ただそれだけだった。

「言いつけは守っているか?」
「はい。言われた通り、そしていつも通り素直にしてる」
「いつも通りと言われると不安になるな」

小さく笑った父に、こちらも釣られて笑う。それなのに、急に表情が陰ってしまった。

「一つおまえに謝らなくてはね」
「なあに?」

何を言われるのだろうと身構える。心配するなと言ったものの、やはり何か取り返しのつかないことになっているのだろうか。

「清雅くん、婿に来てくれたら嬉しかったけれど、だめになってしまったね」
「は、」
「彼に直接話したこともあったけれど、こうなってしまっては難しいだろう」
「え、」

こんな時に何を、と怒りかけて、その後の言葉に心臓がひっくり返ったような気がした。

「直接話した…….?」

言い募ろうとしたところで、牢番に声を掛けられる。別れの挨拶だけを許されて、早々に追い出された。
牢を出たところで、足が止まる。相変わらず自然体で立っていた彼が、数歩こちらに近づいた。

「お送りしますよ」
「……では、お言葉に甘えて」

意外そうな顔をして、でもそれ以上は何も言わなかった。
二人で並んで道を行く。吐いた息は白い。

「聞きたいことがたくさんあります」
「たくさんですか」

困ったな、といつもと同じ声色で言う。ちらりと横を見ると、どこか楽しそうな表情をしていた。

「今回の件がなければ、私と結婚してくれましたか」
「……まさか、その話ですか?」
「いけませんか?」

目を丸くして、それからすぐに反対方向を向いてしまった。しばらくすると肩が小さく震えて、そしてとうとう声をあげて笑った。

「あの、」
「すみません、当然今回のことを聞かれると思っていたので、いや、さすが先生の娘さんだ」
「今回のことも後で聞きます」
「ちょっと、これ以上は、」

ひとしきり笑って、私を見て、その切れ長の目を細めた。よく見ると耳が赤い。彼も寒いのだ。私と同じように。

「私は、あなたのことが好きでした」

これも本当のことだ。彼のことが好きだった。理知的で、どこか少年らしいところもあって、掴みどころがなくて。

「でも、同じくらいどこか気に入らなかった。なんだか……そう、出来すぎている感じがしたから」

面白いのを堪えるように、口の端だけを小さく釣り上げた。きっとこの表情が、彼の本当の顔なのだろう。

「これはもう私の想像でしかないんですけど、本当はただの官吏ではないのでしょう?」

それにしては出来すぎていると思うのだ。そつがないというか、周りと違いすぎている。

「今回の件も、私にはよく分かりません。父が投獄されるようなことをするとは思わないし、心配するなと言うからには心配しません」
「ずいぶん先生を信頼してるんですね。家族、だからですか?」
「いいえ、父がああいう人だからです」

それまでの笑みを引っ込めて、じっとこちらを見下ろす。遠慮のない視線に、こちらも負けじと彼を見る。初めて、彼が本当にこちらを見ているような気がした。

「俺は官吏です。それ以上でもそれ以下でもない。俺は自分の仕事をしただけです」

いつの間にか、頬も、その整った鼻梁も、薄っすらと赤い。気がつけばもう邸の近くまで来ていた。
促されて、また歩き始める。

「結婚は今回のことがあってもなくてもしなかったでしょうね。そもそも結婚する気がありませんから」
「そうでしたか」

自分だって結婚なんてことは考えていなかったのに、いざはっきり言われるとなんとなく気落ちしてしまう。

「でも、俺もあなたのこと、結構好きでしたよ」

驚いて、嬉しくなって、嬉しくなってしまったことが悔しかった。

「まあまあ賢くて、そして愚かではない。感情的になることもないですしね。何より俺の性格の悪さを見抜けるんだ。男を見る目はありますよ」
「なんですかその言い草。本当に今までは猫をかぶってらしたんですね」
「そうですよ」

立ち止まって、彼が空を見上げる。釣られて首を傾けると、雲が広がっていてどんよりと重たい色をしていた。なんだか雪でも降りそうな空模様だ。

「私と話したこと、あれも全部お仕事のためですか?」
「さあ、どうでしょう」

にこりと笑ったその顔は、猫をかぶっているほうの笑顔だ。ますます分からなくなって、観念した。

「送っていただいてありがとうございました。清雅さんのこと、余計に分からなくなりました」
「それはそれは、良い褒め言葉ですね」

それじゃあ、と踵を返して歩き出したと思ったら、立ち止まって振り返る。

「ああ、でも、あなたと見た秋牡丹、あれは本当に綺麗でした」

切れ長の目元をほんのりと細めて、私の返事も聞かずに二人で来た道を引き返して行った。
しばらくそこから動けないまま、見えなくなるまで彼の後ろ姿を見つめていた。
滲んだ視界の端で、ちらちらと雪が舞い降りてきていた。






父が帰ってきたのは、その次の日のことだった。報せに驚いて、薄っすらと積もった雪に足を滑らせながら門まで走った。どういうことかと父に聞けば、事の顛末はこうだった。
昨晩、彼の上司が投獄された。罪状は父にかけられていたものと同じ。一方で、父は事実無根の罪ということで釈放となった。自分の罪を父に擦りつけようとしたが、それに失敗したということだった。各関係部署の余罪もいくつか摘発されて、恐らく次の除目で大異動が起こるらしい。そして、この短期間での騒動は、御史台が絡んでいるらしいとも。
その話を聞いて、色々なものが腑に落ちた。

「雪が降るまでには、ね」

そういえば、結局甘味処には連れて行ってもらえなかった。
どこまでが嘘で、どこまでが本当だったのか。それももう、きっとずっと分からないままだ。









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