前の晩から降り続いていた雪が、ふっつりと止んだ朝だった。
傷は触れるにはまだ生々しくて、自分でもどうしたらいいのか分からない時がある。それでも、それを表に出さないのは性分か、単にそれよりも優先したいことがあるからだ。自分以上に傷ついている、彼らのために。
折々で思い出す。彼女と話したことを。彼女と過ごした日々を。
邸の瓦を直したり、裏山に山菜を採りにいったり。まだ彼女が、ただの少女であった時。あの時は、互いにしわくちゃになるまで側にいて、最期は彼女に看取ってもらえるのだと。そう思っていた。そして、そんな夢の欠片をいつまでも心の片隅に転がしていたのだ、自分は。

「せいらん」

小さな声が呼ぶ。黒目がちな瞳が自分を見上げている。

「せいらん」

自分は彼女にたくさん名前を呼んでもらった。優しい時間のなかで、何度も何度も。目を閉じれば、頭の奥で彼女の声が聞こえてくるようだ。

「冷えてきましたね。そろそろ中に戻りましょうか」

熱いくらいの小さな手が、ぎゅっと自分の手を握りしめた。視線は庭先へと移る。嫌だと言葉にはしないが、名残惜しいのは確かなのだろう。自分の願いを口に出さない子だから、なおさら叶えてやりたくなる。

「……もう少しだけ、お庭の景色を眺めていてもよいですか?」

しゃがみこんで目線を合わせれば、こくりと頷いた。その体を抱き上げて、回廊から庭へと降り立つ。庇の届かないところまで進むと、途端に空が広くなった。伸ばしかけの黒髪は、雪景色によく映えた。それだけが世界に存在を主張しているようだ。
肩口を掴んでいた手が、頭に伸びてくる。拙い手で自分の髪を二、三度撫でたかと思うと、ほんの少しだけ笑ったように見えた。小さくて、熱くて、優しくて。かつて凍えた自分の心を溶かしてくれたのも、これと同じ手だった。もう二度とは触れてもらえない、大切な大切な、温もり。もらうばかりで、自分は何か少しでも彼女に返すことができただろうか。別れがあまりにも早すぎた。思い出すのは、笑った顔ばかり。けれど、それが一層自分の胸を締め付けた。

「せいらん」
「はい」

呼ばれて、我に返る。俯いていた視線を上げると、彼女が滲んで見えた。風が吹く。小さな手が頬に伸びて、遠慮がちに触れた。

「どうしたの」
「雪の欠片が、目に入ってしまいました」
「そう」
「風が出てきましたね。今度こそ戻りましょうか」
「うん」

彼女の存在はあまりにも大き過ぎた。ほかの誰がいたって、ぽっかりと空いたそれを埋めることなどできない。代わりなど、あろうはずがない。それでも、いくつもいくつも、彼女は残していってくれた。雪を見て、黒髪を見て、紅葉のような頬を見て。幾度も幾度も思い出す。桜吹雪に佇む姿を、雷に怯えて泣きじゃくる声を、赤く染まる落ち葉を踏みしめる音を、降り積もる雪を憂う横顔を、彼女のいた日々を。彼女のいないこれからを。
大丈夫。彼女は何度も繰り返していた。いなくなったりしないのだと。
悲しみの裏側には、いつも彼女のいた喜びがある。いないことを痛感する度、彼女と過ごしたことを思い出す。
今はいないのだけれど、確かに、彼女はいつも側にいるのだ。

「せいらん、どこかいたい?」

夢の欠片は、小さくて、もう拾えないけれど。

「おめめ、きらきら」

いつまでも、心の片隅に置いてある。

「雪のせいですよ」
「ゆきの?」
「ええ。雪がお日様を反射させているんでしょう」

自分で拾うことのできないそれは、そっと彼女が手のひらに乗せてくれるのだ。

「きれいね」

その小さな手で、ちっぽけな自分の手のひらに、そっと。



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