心地よい風が吹いた気がして目を開ける。視線の先には白い光を纏った彼女が立っていて、ああ、いま自分は夢の中にいるのだと思った。だって、普通の人間があんなに眩しいわけがない。
差し出された水差しの水は冷たくて、妙に甘ったるく感じた。
「林檎が擦ってあるのですが」
欲しいと言ったら取りに行ってしまうのだろうか。そうしたら戻ってこないかもしれない。
「いらない」
「ですが、」
もう泣きだしてしまいそうだ。
「お願いです絳攸様、なにか召し上がってください」
初めて会ったあの日と同じ泣き顔のはずなのに、どうしてか安心する。どうにかしてやりたくなってしまう。
「なあ、」
つい腕を伸ばすと、小さな手がそっと俺の手を握った。冷たい手が心地よくて、それを握り返す。
「名前を教えてくれないか?」
「もうご存知では?」
「おまえの口からは聞いていない。あの日からずっと聞きそびれたままだ」
戸惑ったような表情が、すぐにいつもこ淡々としたものに変わる。あの冷たい水の中では教えてもらえなかったもの。
「なんだか名前を聞いてしまったらいなくなってしまうようで、今まで聞けなかった。でも、いまは大丈夫な気がするんだ」
もうふやけた輪郭の彼女はいない。俺の手を握ってくれる、俺の話を聞いてくれる、そして、自分が消えてもいいなんて考えもしない。いまの彼女になら、大丈夫だろう。
不安そうに一度瞬きをしてから、小さな声でその名を言う。
「月華と申します」
ずっと知っていたのに、呼べなかったその名前。小さく呟く。彼女の手がぴくりと動いた。
「なあ、月華」
「はい」
熱のせいか、現実味がないせいか。ずいぶん俺は浮かれているらしい。
「俺と結婚しないか」
自然と口をついて出た言葉に、彼女は目を丸くした。じっと見つめると、その瞳の中に自分が映っていた。
「どうして……どうしてそこまでしてくださるのです?」
震えているのは声だけではなかった。握っていた手をそっと開く。冷たい彼女の手を離した途端、思い出したかのように瞼の裏が熱くなる。
「初めてお会いした日だって、ただ私を追い出せばよかった。それなのに路銀を用意してくださったり、あの冷たい水から救ってくれたり。お邸に置いてくださって、真摯に向き合ってくださいました」
どうして、と彼女は繰り返す。いつだってそうだった。彼女は問うていたのに、答えなかったのは俺だった。
見つめているのは俺のほうか、それとも彼女のほうか。滲んだ視界ではよく分からない。
「なぜだか放っておけないんだ」
不自然な笑顔を見た、あの日から。
「あなたを見ているとなんとかしてやりたくなる。他の者に任せればいいのに、そうできない」
吐く息が熱い。
「あなたを助けた時、恩を忘れろと言ったのは、自由に生きて欲しかったからだ。俺のために、という理由で縛られて欲しくなかった」
だから本当は、自分の邸で働かせるべきじゃなかった。別の働き口を紹介して、人伝てに様子を聞くくらいのほうがよかったのだ。
「でも、ダメだな。手放せないのは俺のほうだ」
熱に浮かされたように言葉が溢れてくる。
「もっとあなたの色んな顔が見たい。今みたいな泣き顔も、笑った顔も、怒った顔も。それを見るにはたぶん、今の関係では無理だろう。だから、主人と使用人という枠を外れて、俺の隣を歩いてくれないか?」
もう一度、手を握って欲しいと思った。しかし、彼女の両手は硬く握り締められている。
小さく息を吸ったのが分かった。
「私には、とてもあなたの奥方は務まりません」
いつもの表情を作ろうとして、本人はできているつもりなのかもしれないが、どう見ても失敗だ。揺れる瞳が水面のようで、指を伸ばしたいのを我慢する。
「なんだ、嫌か?」
「嫌ではありません。ですが、」
「嫌じゃないのか?どうして?」
面食らったのか、ぱちぱちと瞬きをする姿が幼子みたいだった。
「どうしてって、絳攸様が誰よりも尊敬できる大切なお方だからです」
当たり前のことのようにさらりと言われて、かえってこちらのほうがたじろぐ。あまり働いていない頭で反芻して、それから表情が緩むのを止められない。
「ならいいじゃないか。妻の務めとやらは知らんが、そんなもの後からどうにでもなるだろう」
「ですが、」
「水をくれ。喉が渇いた」
「は、はい」
言い募るのを遮ったはずなのに、なぜかほっとしたように彼女が頷いた。室の外に取りに行くのか、出て行ってしまう背中を眺める。自分で頼んだくせに、なぜだが置いていかれた気がして寂しくなった。
室の中はぼんやりと明るかった。まだ熱はあるようだが、不快な頭痛はもうしなかった。それよりも汗で湿った寝間着のほうが気持ち悪い。卓の上を見ると、綺麗に畳まれた新しい衣と、濡れた手巾がかかった小さな桶があった。置いてあるのだから使っていいのだろう。体を拭って着替えるとさっぱりした。
喉が渇いていたので、水差しを傾ける。まだ冷たかったので、そう間は空いていないはずだ。
廊下に出ると、窓の外に雪景色が広がっていた。自分の吐く息も真っ白で、そこでようやくずいぶん寒いことに気がついた。遠くの峰も白が濃くなったような気がする。その峰に月が乗っていて、空は藍色が薄く波打っていた。夜明けまではまだ少し時間がありそうだ。
「絳攸様、お目覚めですか」
廊下の奥から彼女が姿を現した。
「お加減はいかがですか?」
少し離れた位置で立ち止まる。窓からの薄明かりは届かない。顔には影がかかっていて、表情がよく見えない。
「だいぶ楽になった」
「それはよかったです」
そういえば、夢にも彼女が出てきていた。夢の中の彼女は今とは反対に薄い光をまとっていて、そうだ、泣きそうな顔で俺を見ていた。
「……ん?」
「はい?」
「おまえ、なんでそんな平然としてる!」
言いながら、自分の顔が熱くなるのが分かった。あれは夢ではなく、まぎれもない現実だ。
「ずいぶんお熱も高かったようですし、魘されていたんですよね」
淡々とした声色はいつも通りで、もどかしい。
「違う。本気だ」
このままなかったことになどさせるものか。
一歩踏み出して、その腕を掴む。静かに闇に溶け込もうとした彼女を、自分のほうに引き寄せた。
「お食事を持ってきますね」
目を伏せて、抵抗しない代わりに受け入れもしない。ただただ平坦に戻そうとする。
「月華!」
名前を呼ぶと、ハッとしたようにこちらを見た。目が合って、その瞳が揺れていることに気がつく。
「お願いです、絳攸様」
何を、とは言わない。離せということなのか、なかったことにしろということなのか。
「違う、無理に承諾しろと言ってるんじゃない。考えて欲しいんだ」
本当に考えて、それで拒否されるのなら仕方ない。身分がどうとか立場がどうとか、考えることを放棄した答えが欲しいのではない。言葉通りに俺のことを思ってくれていたのなら、なおさらだ。
「考える余地がないというのなら、それを教えてくれ」
瞳が大きく揺れて、涙が滑り落ちた。
どんな時も見せなかったそれに、一瞬息が詰まる。
俺は、そんなに彼女を追いつめているのだろうか。
無意識に握り続けていた手を放す。
「月華」
どうしたらいいか分からなくなって、互いに立ち竦んだまま、名前を呼ぶ。
「……怖いのです」
俯いた顔から、足元にぱたぱたと滴が落ちていく。
「失うのが、怖いのです。あなたに出会ってから、わたしは多くのものを手にしました。もうそれだけで十分幸せなのに、あなたはまだわたしに与えてくれる」
小さく震える肩がいつもよりも頼りなさげに見えた。
「怖いのです。幸せ過ぎて、これ以上受け取ったら何かが壊れてまたすべてを失ってしまうようで。そうしたら、また耐えなければならないのですか?もうあなたは現れないのに、どうやって」
涙に濡れた顔で、じっとこちらを見つめる。俺もかつて、こんな顔で誰かを見つめていたのだろうか。
でも、この問いには答えられない。だって誰も知らないのだ。どんな結末を迎えるか、果たしてそれが結末なのか。
「失うかどうかなんて分からないだろう。得ることだってある。俺たちがそうじゃないか」
「ですが……」
きっと何を言っても納得しない。頑ななのは、身に染みるほど知っている。彼女はいま、あの湖に立っている。凍りつくような水面に立ち竦んでいる。
「月華」
「はい」
「怖いのは、俺も同じだ」
俺だけじゃない。彼女だけじゃない。皆同じだ。何かを失うことや、何も得られないことの恐怖を抱えている。
「絳攸様でも、怖いのですか」
「ああ。今だっておまえを失いかけてる」
「そんな、こと、」
彼女の手を引く。抱きしめた体は冷たくて、あの日を思い出す。それでも、互いの距離は近づいていて、何も変わっていないわけじゃない。
「どうせ怖いなら、ふたりで幸せにならないか」
腕の中で、彼女が頷いた。
薄藍の空は白を濃くして、雪に反射した光が世界を眩しく輝かせていた。
「絳攸様、失礼してもよろしいでしょうか」
「ああ」
「おしるこをお持ちしました」
盆の上には茶器と小ぶりな椀が二つずつ乗っている。ゆっくりと湯気が昇っていっては消える。椅子から立ち上がって彼女の側に近寄って、のぞき込んだ。
「餅は入っているか?」
「ええ、ちゃんと入れてきましたよ」
それらを卓に並べながら、くすくすと柔らかく笑う。俺の分の椅子を少し引いてから、向かいの椅子に腰掛けた。
「絳攸様はお餅が好きなのですね」
そういうわけではなく、あの二人がよく一緒に食べていたからそれに倣っているだけだ。
「月華」
「はい」
「餅が好きなわけじゃない」
きょとんとした顔になった彼女に、餅の由来を教える日はくるのだろうか。
とりあえず今は、大人しくしるこをつつくことにする。