このひとは、雨垂れが地面に落ちるように、そういう風に眠りにつく。それがあまりにも静かなものだから、もう目が覚めないのではないかと不安になる。
乱れた掛布を肩までかけ直して、額に乗せた手巾を冷たいものと取り替える。呼吸は熱っぽくて、こめかみには薄らと汗が浮かんでいた。
お医者さまに診ていただいたあとお粥を少しだけ召し上がって、それきり水しかお飲みにならない。私が言うからだめなのだと思ってほかの方に頼むのだけれど、皆首を横に振る。替えた手巾を干すために廊下に出る。窓の向こうはそこかしこが白くなりはじめていた。邸の中は静かで、自分と絳攸様の二人だけのように錯覚してしまう。ずいぶんと自惚れたものだ。小さく息を吐いて、本来の目的を思い出す。これを干したらいつでも召し上がっていただけるように林檎でも擦ろう。杏の蜜漬けもいいかもしれない。

けれど、絳攸様は雪が止むまで目を覚まさなかった。

呼吸は荒く、汗で額に髪が貼り付いている。濡らした手巾で拭うと、少しだけ眉間の皺が薄くなった。換気をするために室の半蔀を上げると、そこだけ明るくなった。お庭は白く染まり、月明かりが煌々と照らしていた。一瞬見惚れたけれど、小さな呻き声がして振り返る。慌てて近づくと、絳攸様がうっすらと目を開けた。

「夢か……」

掠れた声で小さく呟く。水差しを近づけるとゆっくりと飲み干した。深く吐いた息は、熱い。

「絳攸様、林檎を擦ってあるのですが」

熱のせいか、濡れたような瞳がこちらを見つめる。

「いらない」

「ですが、」

風邪の看病などしたことがない。だから、余計に怖い。

「お願いです絳攸様、何か召し上がってください」

普段は快活な方なのに、ぼうっとした様子でこちらを眺めている。
ぞっとした。
このひとは、このまま死んでしまうのではないだろうか。だからこんなにも静かで、こんなにも不安になる。
そんなのは、嫌だ。嫌だ、嫌だ、嫌だ。
このひとがいなくなったらどうすればいい?いまのわたしのすべては、このひとが作ったようなものなのに、こんなに簡単に失ってしまうのだろうか。

「なあ、」

伸ばされた手が、迷ったように宙を彷徨う。思わずそれを両手で掴む。その手は熱くて、そして私の手を簡単に包み込んでしまえるほど大きかった。綺麗なひとだからあまり感じないのだけれど、やはり男のひとなのだ。

「名前を教えてくれないか?」

にこりといつもよりさらに優しい顔で笑う。
けれど、よく分からない質問だ。そんなものはもう知っているはずだ。

「……もうご存知では?」

「おまえの口からは聞いていない。あの日からずっと聞きそびれたままだ」

いつのことかすぐに分かった。わたしが終わりになるはずだった日。繋ぎとめてくれたのは、このひとだ。

「なんだか名前を聞いてしまったらいなくなってしまうようで、今まで聞けなかった。でも、いまは大丈夫な気がするんだ」

なあ、と掠れたような声で促される。絳攸様はわたしが口を開くまでいつも待とうとしてくれる。

「月華と申します」

震える声でそう言うと、満足した様子で静かに目を閉じた。閉じたまま、小さな声で名前を呼ばれる。
その声があんまり優しいものだから、自分の名前が特別なものなのではないかと勘違いしてしまいそうだ。

「なあ、月華」

今度は目を見てはっきりと呼ばれる。

「はい」

絳攸様の色素の薄い瞳が柔らかく歪む。

「俺と結婚しないか」



back


×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -