ちらほらと虫の音が聞こえる。夜は少し肌寒いが、外套を羽織るほどでもない。普段なら帰ってすぐ室に向かうところだが、今夜は少し歩きたい気分だった。
決して狭くはない庭をあてどもなくふらふらと歩く。今日は区切りの日だった。彼女に言うべきか言わないべきか悩んで、気がついたら懐かしい香りが漂っていた。
顔を上げると金木犀の木が、小さな花をそこらじゅうに付けて立っていた。目線を上に向けると、膨らんだ月が光っていて、どおりで足元が明るいわけだ。
「絳攸様?」
会いたかったようなそうでないような、未だに決めあぐねているその相手が暗闇から歩いてくる。
「おかえりなさいませ」
「ん」
相変わらず頼りなさげな線の細さだが、すっかりこの邸にも慣れたようだ。人数が少ない中でよく働き、最近は笑うことも増えたらしい。あの夏の日に比べればずいぶん雰囲気が柔らかくなった。
「新しい案件が始まるんだ。また書簡の整理やら何やら手伝ってもらうかもしれん」
「私でよければぜひお使いください」
淡々とした声の調子はその気持ちを読み取らせない。心を開いているのかいないのか、俺にだけこうなのかそうでないのか。それは分からない。
「今日で、」
こちらを見ているのか、それとも月を眺めているのか。
「今日であの件に片がついた。もう俺が関わることはないだろう」
「そうですか」
表情になんの変化もなく、俺自身も話したところでどうして欲しかったのか、どうするべきだったのか。彼女を見ても、その答えは出ない。
「私にももう、関わりないことです」
「……そうか」
目を細めたのは笑ったのだろうか。月が眩しかっただけかもしれない。
「なあ」
「なんでしょうか」
「今から蒸した饅頭が食べたいと言ったら、作るか?」
「もちろんお作りいたします」
眉ひとつひそめずに言う。
「こんな夜更けに面倒だとは思わないのか?」
竃の火だって起こさなければならないし、餡を作ったり皮をこねたりすればそれなりに時間がかかるだろう。
何を問われているのか分かったのか、今度こそ小さく微笑んだ。
「絳攸様、それは関係ないのだと思います」
茂みから鈴を揺らすような音が聞こえる。
「わたしは絳攸様の使用人なのですから、命じられればその通りにするだけです。そこに面倒だとか、嫌だとか、そういったわたしの気持ちが入り込む余地はありません。それがお仕事ですから」
以前のような刷り込まれたぼんやりした感覚ではなく、彼女自身の言葉なのだろう。不安定な感じも、もどかしい感じもない。
「ではおまえ個人として、面倒だとは感じないか?」
「絳攸様のためならお饅頭くらいいつでもお作りします」
「そうか」
雲が流れて来て、月影が薄くなる。淡々とした彼女は大人しくそこに佇んでいる。恐らく自分から動き出すことはない。
「なら、俺の妻になって欲しいと言ったらどうする?これは仕事の範囲に含まれないだろう?」
伏せていた視線を上げる。少しだけ困惑した様な表情だった。珍しく即答ではない。
「……立派なお仕事をされていて、お家も確かで容姿も端麗となれば、よほどの事情がなければお断りする女性はいないのではないですか?」
「そういうものか?」
「おそらく」
女という生き物を避けて過ごしてきてもうだいぶ経つが、自分の場合で考えてもいまいちピンと来ない。例えば誰だ。珠翠か?十三姫か?楸瑛の鬼の形相が目に浮かぶ。
「ではおまえ個人は、」
ここまで言って、なんとバカなことを聞いているのかと気がつく。知らない間に気が緩んでいたのか、余計なことを喋っている。
「いや、今のは忘れてくれ」
「はい」
「そういえば、」
気まずさを誤魔化すために何かないかと頭を回転させる。
「こんな夜更けにどうしたんだ」
「お部屋に金木犀の枝を飾ろうと思いまして」
「ああ、香りがいいからな」
「はい。ですが、こんなに綺麗に咲いているのに摘むのはかわいそうかもしれません」
「そうか?」
首を傾げると、彼女が木のほうへ歩き出す。小さく枝を一折りすると、そのまま俺へと差し出した。
「よろしければお部屋に飾ってください」
柔らかな笑顔とともに、甘く芳しい香りがふわりと漂った。
なんだか急に手の中にある枝が特別なものになった気がして黙り込む。
一礼してから去っていくその背中を、見えなくなるまで見つめていた。