煩いほどに鳴いていた蝉が、ぴたりと鳴き止んだ。うだるような暑さの中で、どうしてか庭木は活き活きとしているように見える。湿気のせいで紙が腕に張り付いて苛々した。
「くそっ」
気が短い自覚はある。
休憩がてら書庫に資料を取りに行くことにして、自室を出る。
自室を出て、結局見慣れない廊下に出た。どこだここは。苛々が増した気がして自分を落ち着かせるために深呼吸をした。息を吐いてふと周りを見渡すと、庭のほうに彼女の後ろ姿が見えた。しゃがんだ背中に強い日差しを受けて、どう考えても暑いだろうに一心不乱に何かをしている。気になって側に寄っても、足音に気が付かないほど集中しているのか、振り返る気配はない。
「おい」
「はい」
声を掛けると、驚いた様子もなく立ち上がって振り向いた。
「おまえ、」
どうやら草を取っていたらしく、脇に積まれた草の量からしてもかなりの時間が経っているはずだ。それなのに、汗もかかず、しかし頬は火照ったように赤い。普段からあまり動かない表情だが、今はどちらかと言えばぼうっとしているようだった。
「こんなクソ暑い中なんだってこんなことをしているんだ!」
「草が、増えてしまっていたので」
手を引いて、とにかく日陰に連れて行く。どう見ても熱中症か、なりかけているかだ。手近な長椅子に座らせる。
「一番近い水場はどこだ?」
「この廊下を右に進んで突き当たりですが。お水ですか?取って参りますよ」
「馬鹿か!おまえは絶対ここを動くなよ!」
急いで取りに行って戻ると、言われた通りに彼女は座って待っていた。なんだかよく分からないというような顔だ。
「飲めるか?飲めるなら飲め」
「はい」
大人しく器の中の水を飲み干す。
「吐き気や目眩はあるか?」
「……ああ、このくらいならまだ大丈夫です。慣れてますから」
やっと合点がいったというふうに微笑んだ。なぜこの場面で笑うのか。片っ端から怒鳴ってやりたいところだが、そんなことをしても通じないだろう。
息を深く吸って、大人しく吐き出す。
「で、誰だ?この暑い時に外での草取りなんか命じた奴は」
今まであまり気にしたことがなかったが、これまでもこいつに限らずこういう働かせ方をさせていたの者がいるのだろうか。
「いえ、今日はお休みをいただいてますので」
「……は?」
「日頃は裏のほうの草取りまで手が回りませんので、お休みの時に綺麗にしようと思っていたんです」
「あのな、」
いつの間にか、また蝉の声が聞こえる。ミンミンミンミンとやかましいことこのうえないが、今はそれどころではない。
「先に言っておくが、おまえのことを否定しているのではなく、おまえのやったことを否定してるんだ。まずこれを忘れるな」
「はい」
顔色も良くなってきたし、汗も少しずつ出てきたからもう大丈夫だろう。早めに見つけてよかった。
「一つ目。炎天下で草取りなんかするな。これに対して何か思うところは?」
「絳攸様がそうおっしゃるならいたしません」
既に色々指摘したくてたまらないが、理性で押しとどめる。
「二つ目。慣れているから大丈夫というのはどういうことだ」
「前の邸では夏場の外仕事もよく命じられていましたので、自分がどこまで耐えると動けなくなるかは承知しています。ですので、倒れる前には切り上げるつもりでした」
「……三つ目。休みの日になぜ働いている?」
「また前の邸の話で恐縮なのですが、休みというものがありませんでしたので」
「どう過ごせばいいか分からないと?」
「はい」
こういう扱いを受けている人間は、この国では少なくないだろう。それは分かっているつもりだったが、いざ目の前に現れると平静ではいられなくなる。本当に怒鳴るべきは彼女ではなくあの男のほうだ。けれど、口から飛び出る言葉は驚くほど強い。
「あの日、あなたは間違っていたのはあの男だと言ったじゃないか。それがどうして今も平然と受け入れているんだ!」
「私は、」
「これで自由になれると。それなのに今もあの男の価値観に縛られて生きてる」
一瞬揺れた視線が、突き刺すようにこちらを捉える。あの日見せた強い表情が彼女の顔に浮かんでいた。
「十年以上、普通の人とは違うのだと言われてきました。あの男が間違っていたのは分かります。けれど、普通の基準が私には分かりません。分からないなら、自分の基準で行動するしかありません」
「なら、おまえは他人に死ぬかもしれない状況で草取りをしろと命じるのか?」
「場合によっては。それは絳攸様もお分かりになるはずです。どんなに理不尽なことでもやらなければ自分や他の人の首が飛ぶこともあります」
「今回もそれに当たるのか?違うだろう?」
何か言おうとして、それを飲み込んだのが分かった。言わないのならいい。こちらが喋るまでだ。
「ひとつひとつの場面では、今までとの違いに戸惑うこともあるだろう。分からなければその都度誰かに聞けばいい。とある事情でこの邸の人間は心が広いのが多い。存分に頼れ」
「……はい」
彼女のせいではないのに、それでももどかしい。
「あの男のせいで、あなたは自分のことをいつ死んでもいい無価値な存在だと思っている」
だから自分を大切にできない。壊れるまで働いて、それでいいと思っている。普通が分からないと言いながら、自分が知る必要はないと考えている。
「そんなことはありません」
震える声に説得力はない。
「あなたも周りと同じように、面倒な仕事は面倒だと思っていいし、嫌なことは嫌だと言っていい。不満を感じるのも誰かに腹を立てるのも当たり前のことだ。それには誰の許しも必要じゃない」
「ですが、」
「俺にここまで喋らせる人間が無価値なわけないだろう」
ふと彼女の瞳が揺れた。どうして、と小さく呟く声が聞こえたが、それは話したというより口から溢れてしまったような声だった。
何か喋るかと待ってみたが、目を伏せたままでその気配はない。
「今日は休みなんだろう」
「……はい」
「俺の知る限りだと、おまえぐらいの年の娘は街に出て買い物をしたり芝居を見たりしていたな」
「買い物、ですか」
「まあその辺は別の奴聞けばいろいろ教えてくれると思う。とにかく今日はよく休め」
「はい。ご迷惑ばかりおかけして申し訳ありません」
なんだかいつも謝られてばかりだ。
彼女より先に室を出たところで、はたと当初の目的を思い出す。ここはどこだ。
彼女に案内をしてもらおうかと考えたが、休めと言ったどの口で頼めばいいのか。
「結局どうされたんですか?」
「ほかの奴に案内を頼んだ」
「いえ、その話ではなく」
食事を運んできた年嵩の侍女はため息をついた。付き合いが長いからか、あまり遠慮がない。
「あの子、少し様子がおかしいとは思っていたんですけれど、そんな無茶をしていたなんて」
「本人には何も原因がないからそれが余計に悪い。幼い頃からずっと、というのもよくなかったな」
「そうですね」
「しばらく気にかけてやってくれないか」
「それはもう。貴重な若者ですからね。大事に育てないと」
手際よく淹れたお茶を差し出されて、受け取る。彼女はちゃんと水分を摂っただろうか。あの後もまさかとは思うが、働いてはいないだろうか。
「絳攸様、これはもう年寄りの冷や水というかお節介というかなんですけどね」
「なんだ」
「根本から正すには、今のご関係では少し難しいところがあるかもしれませんよ」
「どういうことだ」
「ふふふ」
「いや、ふふふじゃなくて」
怪しげな笑い声を残して音もなく去っていった。彼女にもこれくらいの気楽さが欲しいものだが、年の功が大きいのかもしれない。
普段から消えてしまいそうな雰囲気の彼女だが、それは意志の薄さや自身の存在への否定から来るものなのだろうか。なんとかしてやりたいと思うのだが、肝心の彼女にそれが伝わっていないような気がする。
飲み干したお茶が、少しだけ苦かった。