翌日から事後処理の続きを行い、途中からは別の案件にも取り掛かったために、邸にいる時間がほとんど無かった。彼女のことが気掛かりだったが、体調のことを考えると夜中や早朝に会いに行くのも憚られ、結局次に彼女の顔を見たのは十日以上後のことだった。

「この度は大変なご迷惑をおかけしまして、申し訳ありませんでした。お邸の皆様にも手厚く看病していただきまして、お礼のしようもございません」

「……驚いた」

久しぶりに見た彼女は、まるで別人のようだった。こけていた頬は少しだが丸みを取り戻し、うっすらと赤みを帯びていた。

「体のほうはもういいのか」

「はい。おかげでさまで」

「それはよかった」

相変わらずどこそこ細いが、不健康な感じではなくなっている。

「それで今後の事なんだが、」

「あの、今は何もできませんが、働き始めたら必ずこのご恩はお返しいたします」

深々と頭を下げる彼女は、あの時と同じだ。何を言っても聞かないかもしれないが、こちらだって無駄に宮仕えをしていたわけではない。それにあの人に比べれば、厄介な人間など数えるほどもいないだろう。

「まず座ってくれ」

「……はい」

自分が先に腰掛けると、彼女も静かに向かいの椅子に腰を下ろした。

「はじめに言っておくが、俺はお人好しには程遠い人間だ。普通なら頼まれたってあんなことはしない」

火鉢の中からはパチパチと炭の爆ぜる小さな音が聞こえる。

「今回のことは、本当に俺が好きでやったことだ」

「しかし、」

「とは言え、あなたの立場からすれば恩に着るなというのも難しいだろう。そこでひとつ提案なんだが」

「……なんでしょうか」

「滞在費と治療費、その他諸々の雑費と合わせて、この金額分だけうちで働くというのは。ふた月も働けば出て行く時の旅費分くらいは余ると思うが」

計算したものを紙に書きつけて渡す。しばらく紙を見つめてから、若干の不信感を顔に浮かべた彼女が口を開く。

「私はあまり物の価値が分からないのでこれが高いのか安いのかは判断できません」

「俺が手心を加えた値段にしていると?」

「そうです」

「安心してくれ。家令に見せたらぼったくりもいいところだと言われた。だから、この金額分を返してくれたら何もかも忘れてくれて構わない。慈善事業じゃなく、その辺の商いと一緒だ。ぼったくりの店に感謝するのはおかしいだろう?」

じっと見つめると、探るようにこちらを見つめ返してくる。何も言わないでいると、一度目を伏せる。一呼吸おいて持ち上がった視線には、もう強い光はなかった。

「それでは、大変厚かましいとは存じますが、またふた月お世話になります」

「……よし、そうと決まれば今日から働けるか?」

「もちろんです」

また深々と頭を下げたので、彼女がどんな表情をしているか分からなかった。


彼女の働きぶりはなかなかのようで、ひと月が過ぎる頃には邸のあちこちで見かけるようになった。

「あいつはどんな感じだ?」

「かなり役に立ってくれていますよ。前のお邸でも色々やっていたみたいで、だいたいのことは安心して任せられます」

「そうか」

彼女に人殺しと呼ばれた男が冷遇したために、彼女の使用人としての能力は高いものとなった。ずいぶんと皮肉な話だ。

「それにしても絳攸様」

「うん?」

「本当にあの金額を請求したのですね。とんだぼったくりでございますよ」

「そのほうがいいだろう。あまり恩人扱いされたくない」

「まったく、彼女に聞かれた時は驚きましたよ。やはり黎深様のご子息ですね」

「……あそこまで酷くないと思うんだが」

「それにしてもふた月だけというのがもったいないですね。家令の立場としましては、ずっといてもらいたいものです」

「なら、あとひと月様子を見ておまえの気が変わらなければそうするか。元々家人の数が少ないだろう」

「そうさせていただいてもよろしいですか。実は一人、里に帰りたがっている者がいるのです」

「体調でも悪いのか?」

「いえ、郷里の母親の面倒がみたいと申しておりました」

「そうか。なら尚更だな」

「はい」

室を出て廊下を歩いていると、中庭を挟んだ向かいの室に彼女の姿が見えた。掃除をしているらしく、髪を結んで袖を襷でまとめている姿はなんだか別人のようだった。あまり話す機会もないので、一体どちらが彼女の素に近いのかは分からない。庭の梅の枝から花が散っている。あの頃に比べれば暖かくなってきた。もう体調の心配はしなくてもよさそうだ。



「約束のふた月だ。これが差し引きした分の余りの給金だ」

「ありがとうございます」

「もう話は聞いていると思うが、このままここで働く気はないか?」

満開を終えた桜が、風に吹かれてその花弁を散らしていた。
彼女はもう、街を歩く娘となんら変わりなく、表情だけが少し乏しい。

「絳攸様は、あのご恩は忘れろとおっしゃいました」

「ああ」

「それでは、今回のお話はそれとは関わりなく、私の働きぶりを見ていただいてのことだと自惚れてもよろしいのでしょうか」

「そうだ。単によく働いて役に立っているからだ。ちょうどひとりが里に帰ったことだし、人手が足りないというのもある」

じっとこちらを見つめていた彼女が、少しだけはにかんだ。そういえば、笑顔らしい笑顔は見たことがなかった。不自然な愛想笑いは数に入れたくない。

「そういうお話ならば、ぜひお仕えさせてください」

「うん、改めてよろしく頼む」

「はい」

小さく頷いた頭がなんだか子供の様で、思わず手を伸ばした。髪が崩れない程度に撫でてやると、伏せた目の下で視線がキョロキョロと動いているのが分かる。

「嫌だったか」

「あの、こんなことをされるのは本当に久しぶりで、嫌ではないのですが」

珍しく動揺している姿が面白い。しかしこれ以上はなんだか気の毒な気がしたので手を下ろした。

「使用人とはいえ無礼だったな、悪かった」

「あ……そんなつもりで言ったのでは、」

「分かっている。だがどちらが悪いかと言えば俺が悪い。これが道理だ」

「道理、ですか」

「悪いことは誰がしようと悪い。使用人だろうと雇い主だろうとな。それを言う言わないは時と場合によるが」

「雇い主がしてもですか?」

「そうだ。例えば、意味もなく人を叩いたらそれは叩いたほうが悪い。違うか?」

「……それが主人と使用人であれば、使用人は主人の所有物ですから道理は関係ありませんよね?」

半蔀の隙間から流れてくる風は、花の香りを含んでいる。彼女の目に疑問の色はない。幼い頃からそれが当たり前だったのなら、仕方ないのだろうか。

「少なくとも、俺は使用人のことを所有物だとは思っていない。この邸にそういう扱いを受ける者はいないし、許さない」

少しの間黙りこんだ彼女は、何を考えているのだろうか。知りたいが、聞いてもきっとうまく話せはしないかもしれない。

「私の当たり前は、ここでは当たり前ではないのですね」

「……そのようだな」

「教えてくださって、ありがとうございます」

そう言って深々と頭を下げた彼女に、それ以上は何も言わなかった。



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