その日は固辞する彼女を強引に自分の邸に連れ帰った。あんな身の上話を聞いた挙句、実際にその痩せ細った体を見たら放っておけるわけがない。引き止めたものの、一日滞在しただけですぐに出て行ってしまった。小さくなっていく背中を見送ってから室に戻ると、使用人の一人が困ったように袋を差し出してきた。

「絳攸様、彼女は置いていってしまいましたよ」

「なんだって?」

それは用意した路銀を入れた袋だった。これがなければおそらく今夜の食事だって手に入れることができないだろう。考えたのは一瞬で、すぐに彼女の後を追いかけた。
ぬかるんだ道には小さな足跡が残っている。彼女のものだと見当をつけて辿る。そんなに時間が経っているはずはないのだが、追いつけない。規則正しく繋がっていた足跡が、そこだけ足踏みしたようになっていた。顔を上げれば、やはり件の邸の前だった。足跡は続く。門をくぐって敷地に入る。庭を通り過ぎて、裏手の門を出たところで消えた。彼女が消えたわけではなく、枯れ草と落ち葉のせいだった。幸い細い獣道が残っていた。進むほどに衣の裾が濡れていく。そろそろ追いついてもいい頃なのに、彼女の背中は見えない。一度立ち止まって息を整える。辺りを見回すと視界に何かが引っかかった。

(なんだ……?)

目を凝らすと、どうやら池のようだった。少し進むと脇に逸れる小道があって、思わず走り出す。池というより湖というような広さだった。奥のほうは靄でよく見えないが、手前のほうに人影が佇んでいた。

「おい、何してる!」

湖の縁ギリギリに立って叫ぶ。人影が振り返った。腰まで水に浸かっているのは、やはり昨日と同じ衣を着た彼女だった。表情は、動かない。

「戻ってこい!」

聞こえているはずなのに、反応はない。それどころか、こちらに背を向けて歩き出した。このままではどんどん奥に進んでしまいそうだ。沈黙が怖くて、とにかく叫んだ。

「あなたの言っていた自由とはこれか!?これでいいのか!?」
「あなたが死んでどうなると言うんだ」
「まだ行かないでくれ!」
「あなたが死んだら俺が殺したようなものじゃないか!」

そこでようやく彼女の動きが止まった。言ってから考えたが、捕縛の指示を出したのは俺だ。たしかにあの男が捕まって彼女が死ぬのなら、その通りだった。
名前を呼ぼうとして、そうしてやっと彼女の名前を知らないことに思い至った。

「まだあなたの名前を聞いていない!」

振り返った彼女は、困ったような可笑しいような、とにかく表情を歪めてこちらを見ていた。それでも動く気配はない。

「分かった、来ないなら俺が行く」

足を踏み出すと、あまりの冷たさに息が止まった。こんなところに、どれだけの間彼女はいたのだろう。それでも放っておくわけにはいかない。冷たい水を掻き分けて進む。
顔を強張らせた彼女は、半歩後ずさった。長い髪が水面で揺れる。

「いいだろう、ただし俺は泳げないぞ!足が着かなくなったら俺も死ぬから、そこだけ承知しておいてくれ」

我ながら情けない話だが、泳ぎの練習はしたことがなかった。

「どうしてここまでしてくれるのですか」

手を伸ばせばもう届く。冷たいはずだが、あまり感じない。彼女が震えているのは寒いからか、それとも別の理由か。

「どうして……」

腕を掴んで、引き寄せる。背中を抱えるようにして歩き出せば、もう流れには逆らわなかった。岸までたどり着いて、彼女の衣の裾を絞った。次いで自分のものを。
身を切るような寒さが這い寄ってきたが、とにかく彼女の邸までは歩かなければならない。冷えきった小さな手を握り締めて、通ってきた獣道を進んだ。邸を通り抜ける時、何か反応するかと思ったが、彼女は大人しくしていた。
邸の前にはありがたいことに、家令が遣わせた軒が待機していて、これでもかというくらいに温石を持たされた。その温石ごと毛布に包まれて、車内で向かい合って座る。痩せている彼女は、こうして濡れていると捨てられた猫の様に貧相だった。口には出していないはずだが、じとりと睨まれたような気がする。

「ご迷惑をおかけして申し訳ありません」

か細い声だった。

「俺が好きでやったことだ」

それ以上はお互い疲れのせいか、じっとりと黙りこんだままだった。何か喋ろうかとも思ったが、あれ以上何を聞けばいいのか、何を話せばいいのか分からなかった。
温石から伝わる熱で体が温まる頃には自分の邸に到着して、あれよあれよという間に湯を浴び衣を替え布団に押し込まれ、気がつくと沈みかけていた太陽が真上に差し掛かっていた。
若干足腰が痛む以外にはこれといった不具合もなかったが、彼女のほうはそうもいかなかったようだ。

「食事も摂れないほどに具合が悪いのか?」

「熱がかなり高いですし、長い間ろくな食事をしていなかったようですからしばらくは寝込むかもしれません。何か大変なこともあったようですし」

普段はおっとりとした年嵩の女中が、今日ばかりは痛ましいような顔で彼女の部屋を振り返る。今後の身の振り方を考えなければならないだろうが、体調が良くなるまでは大人しくしていてもらおう。






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