あまりにも静かだったから、雨が降っているのに気がつかなかった。
少し手元が暗いとは思っていたが、見れば空は白く小さな雨粒が途切れることなく落ちてきていた。
筆を硯に寝かせて、自分は伸びをする。長い間卓子に向かっていたせいか、肩のあたりがパキパキと音を立てた。
風は出ていないので、半蔀は開けたままにしておく。暦では春を迎えていたが、冬真っ盛りのはずだった。しかし、流れ込む空気はどこか暖かい。そそっかしい春の風でも流れてきているのだろうか。

「絳攸様、失礼してもよろしいでしょうか」

「ああ」

彼女と出会ったのも、今日のような暖かい冬の日だった。


明け方近くまで小さな雨粒が降り続いていて、止んだかと思えばそのまま靄となってそこかしこに留まっていた。湿気が多いせいかさほど寒くなく、外套を着れば十分だった。
ぬかるんだ道を進めば、白い影の中からその邸が姿を現した。端のほうは薄汚れているが、中央に近づくほど装飾が増えていく。主人の性格が分かるというものだ。もう誰もいないはずの邸だが、門扉には人影がひとつ立っていた。

「いらっしゃいませ」

痩せていて骨張っているのに輪郭がぼやけているような、そんな印象だった。
薄い笑みらしきものを浮かべて丁寧に頭を下げる。着ている服はあまり上等でないうえに継ぎが当ててあった。

「申し訳ございませんが、主は留守をしております」

奇妙なこと言うと思った。留守なのは当たり前だ。なにせこの邸の主はかなり悪どい脱税をし、その罪で投獄されている。当然回収できる家財は回収し、使用人も事実上解雇になっているはずだ。

「あなたはこの邸の方か?」

「はい」

「……私が先日伺った時にはお見かけしませんでしたが」

「遠方まで使いに行っていたもので、一昨日の夜に戻ったばかりなのです」

「そうでしたか」

頷いてはみたものの、やはりどこかおかしい。他の使用人達と雰囲気が違い過ぎた。明らかにひとりだけ冷遇されているのが分かる。

「もしよろしければお茶をいただけませんか。雨で冷えてしまって」

我ながら白々しかったが、彼女は特に不審に思わなかったようだ。ただ、困ったように笑う。

「お客さまには大変失礼ですが、茶器がないのでお茶をお出しできません。ただ、火鉢はありますのでどうぞそれだけでも」

促されて門をくぐる。さすがに樹木までは押収しなかったので庭はそれなりに整っているが、冬場で色彩を失ったそれは物寂しい。案内された建物の中はそれ以上に閑散としており、そこにひとつだけある火鉢と痩せぎすな女というのは異様な感じがした。

「主人がどちらに行かれたかご存知ですか?」

「いえ、知りません」

「ほかの使用人の方は」

「分かりませんが、主について行ったのではないでしょうか」

顔色一つ変えずに話す彼女は、本当に何も知らないのだろうか。どちらにしろこの邸に居座られても困るし、話すしかあるまい。

「俺は李絳攸という。あなたの主人だった男は脱税の罪で投獄されている」

「……本当に?では邸から何もかも無くなっているのは、それが理由ですか?ほかの使用人がいないのも?」

「そうだ。家財は州府で押収し、脱税に関わっていない使用人達は別の邸や仕事を紹介した」

「罪は脱税だけですか?投獄の期間は?」

「一族をあげての検挙だから数年は出てこられないだろう。だが、ほかにも何かやっていたのか?」

彼女が俯いて、顔を上げる。

「人殺しです」

先程までぼんやりとした表情だったはずなのに、今は別人のような強い意志が表れていた。あまりにも様子が変わっていて、少しだけたじろぐ。

「あの男は、私から何もかも奪った!親も、邸も誇りも、ぜんぶ!」

最後のほうは引き絞るような声だった。涙こそ流さないものの、それを堪えるような表情は、瞳だけが強く光を放っていた。

「よければ話してくれないか」

「……あの男は、父の部下でした」

今まであの男がしていた商売は、すべては父が興したものでした。 私が五つになる頃、父と母を乗せた馬車が賊に襲われ、二人は命を落としました。商売は父の部下だった方々が複数で引き継ぐ予定でしたが、皆いなくなりました。ある方は不幸な事故に遭い、ある方は同じように賊に襲われ、そしてある方は投獄されたのです。その罪は、父の脱税に加担していたというものです。残ったのはあの男だけでした。あの男はすべての商売を引き継ぎ、なおかつこの邸に妻子とともに住み始めたのです。男は私に言いました。
おまえの父は罪を犯し、父が死んだ今はおまえの罪である。しかし幼く、恩人の子であるおまえをそのような過酷な目に合わせるのは忍びない。なので、私が取り計らってこの邸で使用人として置いてやることになった。他の者の目があるから主人の娘として扱うことはできない。また、給金も罪を償うために然るべきところに渡す。見知らぬところに売られるよりもよほどよいだろう。これがおまえにとって最善の道なのだ。
幼い私はそれが真実なのだと思いました。その日からこの生活が始まったのです。父の頃からの使用人は徐々にいなくなり、私を庇う者は誰もいません。主人の態度は使用人に伝わります。誰からも奴隷のように扱われました。でも、仕方のないことだと思っていたのです。父が罪を犯したのだから、それを子が償うのは当然だと思っていたのです。
けれど、数年前にあの男が妻に話しているのを聞いてしまいました。父の罪は実は自分が擦りつけたもので、ここまで上手くいくとは思わなかったと。親の仇とも知らず、よく働く娘だと。父は賊に襲われたのではなかったのです。あの男の刺客に殺されたのです。
その話を聞いて、復讐しようと思えたのは一瞬でした。私は疲れ切っていて、怒り続ける気力もなく、もしかしたらこの気持ち自体が間違っているのではないかと不安になったのです。あの男から見たらさぞかし滑稽だったでしょう。親の仇に粛々と仕える馬鹿な娘は、命じればなんでもしたのですから。

「でも、今日で終わりです。やはり間違っていたのはあの男だった」

話し終わった彼女は、客に見せる顔でにこりと笑った。

「絳攸様、知らせて下さってありがとうございました。これで自由になれます」

「これからどうするんだ」

「……母方の親戚を訪ねてみようと思います」

少し間があったのは、聞かれてやっと身の振り方に思い至ったのだろうか。しかし、身なりからしても自由になる金などないことは明らかだ。

「失礼だが、路銀が足りないのでは」

「日雇いで働きますので」

「……あなたさえよければ俺に用意させてくれないか」

「そこまでしていただけません」

どう見ても愛想笑いという表情が、彼女の拒絶を表しているようだった。しかし、このまま放っておくわけにもいくまい。

「貸すだけだ。あなたが落ち着いたら返してくれればいい」

火鉢の炭が爆ぜる音がした。
断っても無駄だと思ったのか、吐息のような小さな声とともに頷いた。

「……ではお言葉に甘えて」





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