明日がどうか来ませんように




風がずいぶん柔らかくなってきた。梅の花もちらほら咲き始めて、水仙も蕾を膨らませる。ひょこひょこと散歩をしながら、州城の庭とも呼べないような一角に、それを見つけた。

月華はそれに近づいて、覗き込むようにその場にしゃがんだ。ふっくりと、若草色の芽が顔を出していた。これはなんだろう。月華は首を傾げる。今まで草木の名前を知ろうとしたことはなかったから、見当もつかなかった。影月に聞けばすぐに答えを教えてくれそうだけれど、こんなことで忙しい彼の手を煩わせるのは躊躇われた。
――きっと、きっと花が咲けば分かるだろう。
そうして彼女は、毎日少しずつ育っていくそれを真剣に観察し始めた。

「毎日熱心だな」

今日も今日とてそれの前でしゃがみ込んでいる彼女に、後ろから面白がるような、それでいて温もりを含む声がした。

「燕青」

彼女の保護者である彼は、その表情を見て、そのあっけらかんとした笑顔の中にほんの少しだけ憂いを混ぜた。同い年だというのに、影月はともかく翔琳と比べてもだいぶ幼い。容姿の面で言えば歳相応だ。言動だっておかしいところはない。無口というほどでもないが、おしゃべりでもないので落ち着いて見えなくもない。けれど、その不釣り合いさが燕青には危うく感じられる。
いつから、彼女はこうなったのか。
ずっと一緒にいた燕青には、もう分からない。振り返って見れば、彼女の口数が年々減っているのが分かる。ただ、その原因がなんなのか。大人になったというのとは違う、何かがあった。

「だいぶでかくなったな」

「うん」

彼が隣に座りこんだので、月華は少しだけ笑った。月華は燕青が大好きだった。それは彼が彼女の親代わりだったからでもあるし、それとは関係なしに心配してくれるからでもある。けれど、燕青を好きなのと同じくらいに、月華は燕青のことが

「嫌い」

「ん?」

「私、燕青のこと嫌い、かもしれない」

最後の付け足しは、もはや燕青に聞こえていなかった。

「…………え?」

え?キライ?嫌い?嫌いって、イヤだってことだよな?
突然の告白は、燕青の胸に刺さった。近くに誰かがいたらグサリという音が聞こえたに違いない。おしめこそかえていないものの、それに近いころから彼女の面倒を見てきた燕青は当然彼女に好かれていると思っていた。いや、確かに好かれていた。だって嫌いな奴に抱き着いたり一緒に飯食ったりするわけない。

「私、勉強好きじゃない」

「お、オレも好きじゃないぞ」

「運動もあんまりできない」

確かに、彼女には護身術程度しか教えていない。

「お料理もあんまり得意じゃないけど、家事は嫌いじゃない」

これには、燕青は少しだけ首を傾げた。確かに秀麗ほどなんでも作れるわけではないが、月華はわりと料理が上手なほうだと思う。

「……」

月華はそのときの燕青の顔を見て、眉間に少しだけシワを寄せて、そして彼のほっぺにぺとりと触れた。

「ん?」

気付いた燕青が彼女を見る。

「って、痛っ!」

ぎゅうぎゅうと彼女は彼の頬をつまんだ。つまんで引っ張った。

「いへっ、はひっ、ほへはんはひた!?」

訳すと「いてっ、なにっ、オレなんかした!?」である。燕青が涙目になったのを確認してから月華はやっと手を離した。

「いま姫さんと比べた」

「、」

「燕青、嫌い」

「え?」

つねられた頬をさすっていた燕青は、一拍、反応に遅れた。どうしてそこに繋がるのか。ますますワケが分からない。ぎゅっと唇を引き結んだ月華が立ち上がった。

「燕青なんか、嫌い!嫌い嫌い嫌い!」

そして彼女は、毎日毎日眺めていたそれを思いきり踏み付けて、そして早足にどこかへ行ってしまった。燕青はそれをあっけにとられて見送った。次いで、今しがた彼女が踏み付けたそれを見る。燕青の表情が険しくなった。ひしゃげてしまったそれは、よく見ると先端が淡く色づいていた。月華がこれに気付いていないはずがない。なのにこんなことをするなんて。十年以上も一緒にいるが、ただの反抗期では片付けられない気がした。



月華はめちゃくちゃに歩いていた。腹が立ってしかたなかった。燕青か自分のどちらかが結婚でもしない限り、ずっと一緒に生きていくのだと思っていた。だから一昨年の夏に燕青が一人で貴陽に行ってしまったときに、とんでもない衝撃を受けた。燕青が帰ってくるまでのひと時、月華は極端に食欲やその他やる気を失った。悠瞬も柴姉弟も州官のみんなのことも嫌いどころか好きだ。勝手に親戚のようなものだと思っている。だけど、燕青はそれ以上に好きだ。すりこみのようなもので、燕青が自分の親代わりになったときから彼だけはどうしようもなく「特別」だ。勉強が嫌いなのはそんなことをしても自分が彼の役に立たないのが分かりきっていたからで、家事だったら確実に助けになると分かっていたからだ。
なのにどうだろう。
彼が州尹になって新しい州牧が来てみれば、途端に自分は役立たずになってしまった。新州牧の二人も同行した武官も侍女も、比べることが無意味なくらい有能で、そして優しかった。彼らを嫌いになれればずいぶん楽だったのに、どうあがいても好きにしかなれなかった。だから、彼らに向けることができなかった「嫌い」は自分に向けるしかなかった。彼らに嫉妬もしたけれど、それをばねに努力することも放棄した。そうしてまた一つ、自分を嫌いになった。そうしてどんどん嫌いが溜まって、燕青が国試の勉強をしていることを知って、自分が燕青とずっと一緒にいることはもうないのだと悟った。彼は秀麗を選んだ。彼が一緒に生きようと思ったのは、自分ではなく秀麗だったのだ。当たり前だ。自分はなんの努力もしなかった。雛鳥だっていつかは巣立つし、花の種は風に乗って飛んでいく。
けれど、自分はどうすればよかったのだろうか。考えても分からない。いや、考えたくない。もうどうでもいい。燕青に言った「嫌い」は、結局のところ、燕青が月華のことを一番にしてくれなかったから、つまり自分の思い通りにならなかったから拗ねて八つ当たりをしたということだ。本当に嫌いなのは自分だ。

木の根に足をとられてべちゃりと情けなく地面に突っ伏す。ここがどこかなんてどうでもいい。ひっくり返って仰向けになると生い茂っている木々の葉が一カ所だけぽっかりとあいて、群青の夕空が見えた。



そうして目を開けると、空には欠けた月が浮かんでいた。しばらくぼんやりと眺めていると、獣の唸り声が聞こえる。野犬だろうか。逃げなければきっと喰われる。けれど、体を動かすのがひどく億劫だった。だんだん大きくなる唸り声に比例して、彼女の中の恐怖が膨れていった。それは死への恐怖でもあったし、痛みへの恐怖でもあった。心鼓がはやくなり、呼吸が荒くなる。と同時に、やはりもうどうでもいいと思う彼女も存在していた。ここで死ねば、それで終わる。野犬の息遣いがすぐそばで聞こえる。最期に、自分が踏み付けたあれがどんな花を咲かすのかということと、燕青がどんな顔をするのかだけが少しだけ気になった。
やってきたそれは、想像していたものより遥かに熱く、遥かに苦しい痛みだった。知らず、絶叫する。腹のあたりを噛まれたらしい、そこがどくどく脈打つ。けれど、野犬は一度噛んだきりどこかへ行ってしまった。熱と痛みが体中を駆け巡る。もしも、もしも誰かが自分を助けてくれたならば、今までの全てを捨てて、自分の一番をそのひとにしよう。薄れゆく意識の中で月華はそんなことを思った。痛い、悲しい、熱い、苦しい。全てが近く、全てが遠かった。



時は少し遡る。燕青は香鈴が州牧邸からよこした文を読んでいた。そこには月華がまだ帰宅していない旨がしたたまれていた。窓の外を見ると、月がだいぶ高い位置にのぼっていた。
――おかしい。月華と別れたのはまだ暗くなる前だった。
どこに行ったというのだろう。彼女の性格を考えると、家出をするにしても香鈴には一筆残すはずだ。棍を握って外に飛び出す。しばらくあちこち走り回って、とある森に入ったところで燕青は叫び声を聞いた。それは微かではあったけれど、彼が月華の声だと判断するには十分だった。ぞわりと、全身が粟立つ。獣が逃げ出すには十分過ぎる殺気を放ちながら、燕青は声のしたほうに走った。そうして見つけた彼女の姿に、燕青は自分の心から何かがストンと落ちる音を聞いた。まだ温かい血溜まりの中に彼女はいた。どくりどくりと鼓動に合わせて腹部から血が流れ出る。虚ろな目は空を向いて、そこに燕青は一切映っていない。いつもは健康そうに色づく頬は青白く、そして土と血で汚れていた。

「月華!しっかりしろ!」

まだ生きている。燕青は上衣の袖を破って彼女の腹に巻き付けた。片腕だけでは足りず、両袖をちぎる。できるだけ動かさないように持ち上げて、急いで影月のもとへと向かう。月華が抵抗した様子が全く見られないのが不安だった。もし本当にそうだとしたら、彼女にはもう生きる気力がないのだろうか。じわじわと染み出る血が、不安とともに燕青の胸元に広がっていった。



「あ、月華さん、具合はどうですかー?」

次に彼女が目を開くと、どこかで見たことのあるような天井が見えた。ちらりと視線を動かすと人のよさそうな少年がにこにこと笑っていた。

「三日も眠ってらしたんですよー」

「あなたが助けてくれたの?」

「いいえ。僕は手当てをしただけです」

全身がだるくて、とても体を起こす気分ではなかった。野犬に噛まれた腹部がじくじくと痛む。月華の視線を感じたのか、少年は薬草をすっていた手を止めた。

「燕青さんがここまで運んできたんです。もうちょっと遅かったらどうにもできなかったと思います」

包帯を替えましょう。香鈴さんを呼んできますね。
少年はそう言って室を出ていった。

「燕青、さん」

飴玉を転がすようにその名を呟く。

「呼んだ?」

独り言のつもりだったのに、ひょっこりと顔を出した彼はにっかりと笑った。迷いのない足取りで月華の元までくると手近な椅子を引っ張ってそこに腰を下ろした。

「あの、」

「ん?」

「助けて下さって、ありがとうございました」

初めて使われた敬語に、燕青は内心焦った。ヤバイ、これはなにか、もしかして相当怒らせてる!?

「あ、あのな、月華、とりあえず話し合おう、な?」

おかしい。ここに来るまでは保護者らしくビシリと叱ってやろうと考えていたのになぜに自分が下手に出ているのか。

「あの、どうして私の名前をご存知か知りませんが、お願いします、なんでもします。だから私をお側において下さい」

ここまできて燕青はやっと違和感を感じた。月華がおかしい。これではまるで自分のことを知らないようではないか。特にこの不自然なまでに丁寧な敬語はなんだ。始めは嫌味かと思ったが、どうやらそんな気配はない。
燕青の沈黙をどうとったのか、月華が焦ったように口を開いた。

「私、自分が今まで何をしていたか思い出せないんです。お願いします。行くところも帰るところもないんです。なんでもしますからあなたの側にいさせて下さい」

どんなに思い出そうとしても、彼女に思い出せることは野犬に襲われたことと、自分の名前だけだった。
横たわったまま命の恩人ともいえる彼をじっと見つめると、彼が青ざめているのが分かった。やはり、ダメだろうか。

「お、まえ、何言って、」

側にいさせて、なんて。今までずっと側にいたのにいまさらなにを言ってるんだ。いや、そうじゃない。コイツの記憶はどこに行った?
振り返ると、表情を固くした影月と青ざめた香鈴が立ち尽くしていた。



「なあ、なんで俺なんだ?働き口なら別に紹介してやれるぞ?」

やっと体が起こせるようになった月華に薬湯を飲ませてやりながら、燕青は少しだけ目を伏せた。こんな他人のような会話を始めて、十日が過ぎようとしていた。

「自分でもよく分からないんですけど、私を助けてくれたひとを一番にしようと、それだけは覚えていました」

「……そっか」

『記憶を失くしたというより、無理矢理忘れているんだと思います』

あの日聞いた影月の言葉がよみがえる。瀕死になった衝撃で、忘れたいことを忘れてしまったのだと。よくあることだと影月は言った。なにかのきっかけで思い出すこともあるし、思い出さないこともあると。

「あ、でも、燕青さんがお嫌ならよそで働きます」

「そんなこと誰も言ってねーだろ」

パチンと軽く額を人差し指で弾いてやると、彼女は嬉しそうに笑いながら額を押さえた。

「そんなこと気にするより怪我治すほうが先だぞー」

「はい」

少し俯いて、それでも嬉しそうに頷いた。こんな風に屈託のない彼女の笑顔を見たのはいつ以来だろうか。ふと思い出す月華の表情は、なぜかどれも固く強張ったものだった。もしかすると、自分は知らないうちに彼女を追い詰めていたのかもしれない。そもそもあの日だって様子が変だったのに、追い掛けることもしなかった。いま目の前にいる月華に、以前のような危うさも不釣り合いさもない。もう彼女は、子供ではなかった。

(ああ、そっか)

あの危うさは、大人になりきれない子供のものではなく、子供になりきれない子供のものだったのだ。本当は分かっていた。彼女が燕青に守られ続けたいと願っていたことを、そして彼女をずっと守ってやることができないことを。月華はもう燕青がいなくても平気なはずだった。でも月華は知っていた。それを彼女自身が認めたら、もう二度とその穏やかで心地良い居場所に戻れないことを。燕青が、どこかに行ってしまうということを。だから彼女は子供のままでいたがった。ずっと燕青に守られるために。

「おまえは、ほんとにバカだな」

「……?」

きっと月華は、燕青を、というより無償の愛というものを信じてはいない。離れていても切れることのない絆の中で、一番手っ取り早くて強固なのは血縁だ。もちろんそれ以上に強固なものもあるだろう。けれど、結局自分達は家族ごっこしかできなかったのだ。

「燕青さん?どうなさったんですか?」

「ごめんな。俺バカだから、結局おまえになんも残してやれなかったな」

ぐしゃぐしゃと、綺麗に櫛の通った月華の髪をかきまぜる。

「何言ってるんですか。私は、あなたのお側にいられるだけでいいんです」

「……多分それも無理だと思う」

きょとんとした顔の彼女は、月華であって月華ではない。

「やっぱ働き口でもなんでも紹介するから、俺を一番にするのはやめにしといてくれ」

「……だめ、ですか?」

「駄目だな。おまえの一番は、いつもおまえ自身にして欲しい。誰かのためじゃなくて、自分のために生きて欲しい」

じっと燕青を見つめている月華の表情に少しだけ後悔したけれど、ここで燕青自身が一番になったらまた今までを繰り返してしまう。燕青の一番が月華にならないのなら、同じ過ちを繰り返すわけにはいかない。血に濡れて横たわっていた月華を見たとき、燕青の心から何かが落ちていった。もうそんな思いはしたくない。

「べつにおまえのことが嫌いなわけじゃなくて、」

月華の目からぽろぽろと涙が零れた。やばい、失敗した。

「燕青さん、」

「おまえを俺の一番にはしてやれない。きっとそのことが、いつかおまえを殺す」

現に、殺しかけた。大事な大事な、自分の一欠けら。月華は変わった。燕青も変わった。もう二人が共に歩む未来はない。

「頼む、おまえに俺を殺させないでくれ」

突然頭を下げた燕青に、月華は自分の心のフタが弾け飛ぶ音を聞いた。奔流のように記憶が流れこんでくる。それは以前の自分の記憶でもあり、自分という他人の記憶でもあり、そこにはいつも燕青がいた。たくさんの優しい思い出。けれど、その思い出の先に続く未来はない。手を繋いで眺めた朝焼け、春風に揺られたあの昼下がり、一番星を探した夕暮れ。そういう思い出が今の月華には重すぎた。

「……私はずっと、燕青さんの一番になりたかった。燕青さんといつまでもいつまでも一緒に生きたかった。燕青さんの……特別に、なりたかったんです」

「……月華?」

もうこの記憶は自分のものであって自分のものではない。思い出せはするものの、まるで物語の中の話のようだ。子供になろうとしていた自分はいなくなってしまった。それでも、こんなに強く共感してしまうのは、それほどまでに強く想っていたからだろうか。

「一番にしてくれないならどうして私を拾ったんですか?どうして私を助けたんですか?どうしてあんなに優しくしてくれたの?ねえ、どうして?」

「……おまえはいつだって俺の特別だよ」

特別でないわけがない。彼女が小さいときからずっと一緒にいたのだ。ときには食事をしながら、ときには抱きしめながら、こんなにも愛しい生き物がいるのかと、何度も思った。

「でも姫さんが一番になったんでしょう?」

「……そうだ。俺は姫さんの見たい世界が見たい。姫さんのそばなら、俺の好きな俺でいられる。おまえに堂々と会える俺でいられる」

「でも一緒にはいてくれない」

「ああ」

「燕青さんのそばにいられないなら、私も彼女もなんのために生きればいいの?」

「だから言ったろ」

月華は小さく震えていた。

「自分のために生きてくれ、って」

「そんなの、いやです……燕青さんがいないなんて、考えられません」

涙を流すその姿は、いままでの彼女のようであって、やはりどこか大人びて見えた。それでもその小さな肩は燕青が何度も何度も抱えてきたものだった。椅子から寝台に腰かけなおして傷に触れないようにそっと抱きしめる。

「燕青さんがいない生活なんて想像できません。いつかの夏に貴陽に行ってしまったときは、何も考えられなくなっちゃったから」

そのときの月華の様子は悠舜や柴姉弟に聞いた。あのときはまだ茶州に戻ってくるかも分からず、月華を捨てていったも同然だ。もしかしたら、それがトラウマになっているのかもしれない。

「離ればなれになったら繋がりもなくなると、そう思ってるんだな?」

月華はこっくりと頷いた。

「全部じゃないけど、あなたが他人になっちゃう気がする」

「……あのな、月華」

涙でぐっしょりと濡れた肩口から彼女を引き離して、しっかり目と目をあわせる。

「一緒にいなくても、離れてても、おまえはちゃんと俺の特別だから安心しろ。特別は特別だから、一番とか二番とかとは別の枠だぞ」

「……」

「おまえは俺の大切な家族だよ」

「それでも、私を置いていくんですね」

「ああ、そうだよ」

普通の家族なら、こんな風にはならずにきちんと親離れ、子離れができていたのだろうか。自分がちゃんと親代わりになれなかったばかりに、こいつを独り立ちさせてやることができないのだろうか。

「でも、捨てるんじゃない。おまえの帰る場所は俺のところだし、俺の帰る場所もおまえのところだ。側にいなくたって、俺たちは家族だ」

「本当に……?」

「周りを見てみろ。離れてたって、血が繋がってなくたって、お互いを大切にしてるやつらなんて山程いる。影月も姫さんも静蘭も、みんなそうじゃねーか」

「……うん。そう、ですね。私、」

何か言いたそうに口を開いたものの、すぐに閉じてしまう。この気持ちをなんと言葉にしたらいいのか、分からなかった。燕青の言っていることは、正しい。きっと、本当に自分のことを特別に思ってくれているし、大切にしてもらってきた。離れていたって、その気持ちに変化はないだろう。それはとても納得できるし、とても嬉しかった。
でも、でもそれなら、この気持ちはなんだ。胸にぽっかりと穴が開いたようで、ひどく寂しい。

「ほんとは、もう、分かってるんです。自分が駄々をこねているだけだってことは。でも、どうしてでしょう……なんだかとても悲しくて、寂しいんです」

「月華……」

「でも、もう大丈夫です。私と燕青さん、いえ、燕青は、家族だから。もう分かったよ。私は大切にされてるし、これからもそれは、変わらないんだよね?」

「ああ、当たり前だろ」

「だったら、もう大丈夫。前みたいにもやもやしたものは、ないから」

瞳は潤んでいるものの、彼女の涙は止まっていた。ただ少し目元に残った雫を、指でそっとぬぐってやる。こんなにたくさん泣いた彼女は、いつぶりだろうか。自分が泣かせていることは分かっているのに、元気な頃の月華に戻ったようで、少し嬉しい。

「きっと、心がびっくりしてるの。だから、少し経ったら、元気になれる。今度はもう、一人で考え込んだりしないから」

「……本当だな?」

「うん。だから……」

「だから?」

「……お腹痛い」

「へ?」

「お腹痛い!」

騒ぐ月華の傷口を見れば、血が滲み始めていた。

「おまっ、傷ひらいてんじゃねーか!」

「え、燕青が泣かせるから悪いんだ!」

「ばか叫ぶな!悪化するだろうが!」

「どうかしましたか!?」

叫び声を聞いたのか、香鈴がすっ飛んできた。月華の傷口を見た途端、鬼の形相になって燕青を部屋から追い出した。

「燕青さん!何をやってらっしゃんるんです!病人怪我人は絶対安静です!」

「えっ、ちょ、俺か!?」

「しばらく外に行っててくださいまし!」

どこにそんな力があるのか、ぐいぐいと押し出されてしかたなく燕青は外に出た。後ろでバタンと乱暴に扉が閉められる。

「月華さん、大丈夫ですか?」

香鈴が手際よく包帯をほどき、消毒液を染み込ませた脱脂綿を患部に当てる。反射で、止まっていた涙がぽろりと零れた。そのまま、次から次へと涙が溢れる。

「香鈴さん……」

「ごめんなさい、痛かったですか?」

「違うんです。傷じゃなくて、なんだか、胸がぽっかり開いたようで、寂しくて、悲しいんです」

「まあ……」

「燕青、ちゃんと特別だよって、家族だよって、言ってくれたのに。嬉しいのに、ちょっと苦しくて、」

心配そうに覗き込んでいた彼女が、合点がいったように少しだけ口角を上げた。

「月華さん、それは」

優しく背中をさすられて、俯いていた顔を上げる。そこには、優しそうに微笑む香鈴がいた。

「それは、失恋ですわ」

「ああ……そうか、これが、」

こらえきれなくなった嗚咽が滲み出る。そうか、いつの間にか、自分は燕青に恋をしていたのだ。そして、その恋は、さっき終わってしまったのだ。
分からなかった気持ちに名前がついた途端、全てが腑に落ちた。そうして、月華は、香鈴に背中をさすられながら、泣きながら眠った。次に目覚めたとき、胸には愛しさだけが残っていた。



追い出された燕青が外をふらふら歩いていると、月華がよく眺めていた草の芽を見つけた。あのとき月華が踏んでひしゃげたはずのその芽は、もう芽ではなくて、小さいながらも凜とした花が、太陽に向かって静かに咲いていた。
これから彼女は一人になって、そしてたくさんの人と出会うだろう。きっと自分なんかの数十倍もいい男と出会って、そいつの隣で笑って生きていくはずだ。だからきっと、そのときに泣くのは自分のほうだ。今日のあいつに負けないくらい、精一杯、泣くだろう。





その日がどうか訪れますように









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