「最近元気ないな、どした?」
ニッカリと笑って私の髪型が崩れるだとかそんなこと気にもせずに頭を撫でてくる。でもそれは、なにも特別なことじゃない。
そうやって誰にでも優しくするくせに、一番は決まっている。だから、
「っ、さわらないで下さい!」
そう言ったら、燕青さんは黙って私の頭に乗せていた手を引っ込めた。あのとき彼がどんな顔をしていたかなんて知らない。叫んだことが恥ずかしかったし、いたたまれなかったし、申し訳なかったし、情けなかったし、とにかく彼の顔を見る余裕なんてなかった。と、いうか、あの後自分が何を言ってどこをどう歩いて帰ってきたのかよく覚えていない。
「あああああ!」
頭を抱えてしゃがみ込む。どのツラ下げて、おっといけない、どんな顔して会えばいいのか。
「騒いでないでさっさと回収してきて下さい。給料減らしますよ」
上から容赦のない言葉が降ってきたので、閻魔様を睨む。いや、見つめる。
「誰が閻魔様ですか」
「柴彰の鬼!人でなし!冷血漢!」
「褒め言葉ですね?ありがとうございます。その舌引っこ抜きますよ」
鰻のような嫌味ったらしい笑みを浮かべながら柴彰が今日の取り立て分を書いた料紙を私の目の前に置く。
「あなたの自業自得でしょう」
「‥‥‥」
「十年以上もあったのにもたもたしてるのが悪いんですよ」
「それ、は、」
「そうですね、茶州は長らく不安定でしたし彼の負担にはなりたくなかったんですよね」
「‥‥‥」
「そうやって自分に言い訳している間に彼はいろいろ決めてしまった」
そういうことでしょう?と遠慮なく、そして正確に突き付けられた事実は私を確実に突き刺していった。そのとおりだ。結局臆病者は負けるということらしい。
料紙を拾って柴彰の顔を見ないように立ち上がる。
「ばか、あほ、とうへんぼく」
「それは本人に直接言って下さい」
「‥‥‥困らせたくない」
「最後くらい困らせてやればいいじゃないですか」
くるりと向きを変えて扉に手をかける。最後。そう、するべきなのかもしれない。
「もうおよしなさい。見ているほうも辛い」
「‥‥‥閻魔様にそう言っていただけるなんてありがたいですね」
「そうでしょうそうでしょう」
結局それ以上は何も言えずに大人しく室を出た。ぶすくれた顔で廊下を歩いていると、年嵩の商人達がくすくす、いや、むしろにやにやと笑いながら近づいてきた。
「今日も荒れとるのう」
「なんじゃ痴話喧嘩かの?」
「違いますよ。閻魔様に舌を引っこ抜かれそうになったんで慌てて逃げてきたんです」
「ほっほ、若いの」
「そうですね。おじ様方は無理して走るとぽっくりいきそうなんでお体労って下さいね」
「なんの、まだまだ!」
「わしもじゃ!」
言うが早いか二人のおじ様もといじじいどもは猛然と廊下を走りだした。しまった、変なところに火をつけてしまったらしい。
「ぐはあっ!」
「げほおっ!」
「ぎゃー!!」
変なふうにのけ反った二人に慌てて駆け寄ってごほごほと屈んで咳込んでいる背中を撫でる。
「ほらもう言ったそばから!大丈夫ですか?‥‥‥頭」
「おい、最後のほう聞こえとるぞ」
「ほんにおぬしは」
「借金回収にはぴったりじゃの!」
そう、私の仕事は借金取りなのだ。しかも燕青個人の。どこの世界に好きな男を借金回収の目的で追い掛けまわす女がいるんでしょうか、教えて仙人様。
ため息をつきながら州城に向かう。なかなか着かないのは足が短いせいではなく歩みがのろいからだ。気が乗らない。しかしこれは仕事。でもやっぱり気が乗らない。今日一番の深さでもう一度ため息をつく。
「でっかいため息だなあ。幸せ逃げっぞー」
声のしたほう、つまり上を向くと塀の上に棍をかついだ怪しげな熊がしゃがみ込んでいた。ヒゲの上がり具合からして、多分にかりと笑っている。
「そうですね、誰かさんがなかなか借金を返済してくれないのでお給料減らされそうです」
「まじか!でもないもんは返せないからなー」
えへんと胸でも張りたそうな口調だ。ふざけんな。あー、首が疲れた。
「体という資本があるじゃないですか」
「こんなヒゲもじゃ買ってくれる人がいねーもん」
「‥‥‥買いますよ」
「‥‥‥俺の空耳かな?」
見上げたまま、そして見下ろされたままお互い動かない。口元は笑っていたけれど、彼の目元は冷たくかたまっていた。
「いいえ。私が買いますよ」
「借金取りが借金するのかよ」
「あなたと違って貯金というものがありますのでご心配なく」
いつもなら下りてきて頭をくしゃりと撫でたりおでこを指で弾いたりする。けれど、今はお互い手の届かない距離にいる。
「いくらで買われますか?」
「‥‥‥悪いな、俺もうカラダ売れなくなった」
「分かりました」
首が、疲れた。視線を目の前に戻す。
「さようなら、燕青さん。あなたのこと、」
もう彼の顔は見えない。
「大嫌いでした」
「で、借金も回収せずのこのこ逃げ返ってきたと」
「逃げ‥‥‥私なりに精一杯困らせてやったんですよ!」
「はい分かりました。今この瞬間あなたをクビにします」
「え?」
書棚に突っ込みかけていた本を落としそうになって慌てて押し込める。振り返ると柴彰は先程までと同じように卓の上に広げた書類に目を通していた。あれ?空耳?
「ああ、きちんと他の仕事を紹介しますからご心配なく。雇用者は引き続き私です。よろしく」
「あ、はい」
空耳ではなかったようだ。けれど路頭に迷うことはなさそうなのでよかった。しかし突然なぜ?いや、借金回収ができなければ当たり前か。でも十年以上続けていた仕事を突然クビになるなんて。けれどこれで燕青と顔を合わせなくてすむ。
『最後くらい困らせてやればいいじゃないですか』
ああ、もう朝からクビになることは決まっていたのか。彰は優しいんだか優しくないんだか、ちっとも分からない。燕青もそうだ。優しいのに、優しいから酷いくらい冷たい。
「変な顔になってますよ」
「失礼な」
「鏡を見てから言うんですね」
ひょいと封筒を投げられて折らないように受け取る。宛名は書いていないが、これはよくあることなので気にしない。
「どこに届けるんですか?」
「あなた宛てですよ」
「ああ、私への恋文ですか。モテると困るなあ」
「前者は珍しく当たってますね。それ、あなた宛ての見合い状です」
「‥‥‥はい?」
「世の中には奇特な男性がいるものです。それも三人も」
封を開けて中身を取り出す。一枚ずつめくって名前と姿絵を確認してから、本日何度目から分からないため息をつく。
「なんでみんな州城勤めの官吏なんですか」
「みなさん忙しくて出会いがありませんからねえ」
つまり女には飢えているということか。
「どなたかと結婚したらどうですか。いい当て付けになりますよ」
「‥‥‥」
相変わらず書類から顔をあげない柴彰に近づいて、お茶の入った茶碗を差し出す。
「今日はいつもより捻くれてますね」
「あなたがいつまでも未練たらしくしてるからですよ」
「そんなことないです」
「そうですか?」
「そうです」
彼にしては珍しく荒っぽい仕草でお茶を飲み干した。急須を持ってきて二杯目を注ぐ。
「ごちそうさまでした」
「お粗末さまでした」
「今日はもう帰って結構です」
「いいんですか?」
「いいんです」
「じゃあお言葉に甘えて」
なんだか今日は疲れた。買い物もせずどこにも寄らずに家に帰る。なんとなく表から入るのが面倒で裏口に向かうと、土やら枝やらにまみれた汚らしい物体が戸口に座り込んでいた。
「いつもこんなに早く帰れんの?」
「いえ、仕事をクビになったので」
「クビ!?」
「誰かさんの借金を回収できなかったので適性なしだそうです」
「え‥‥‥」
青ざめてうろたえる燕青が珍しいので、次の職を紹介されたということは黙っておこう。
「それ適性ナシっていうよりか、俺の金がないせいっていうか、っていうかおまえのせいじゃなくね?」
「仕事ってのはそういうもんです」
沈み始めた夕日が辺りを照らす。どうしてこんなときにヒゲを剃ってくるんだろう。三割増しでドキドキしてしまう。
「責任取って養う、とか言ってくれないんですか」
チリリと夕日が私の首筋を焦がす。燕青は口を少しだけへの字に曲げて眉をひそめた。なんて子供っぽい表情だろう。それさえも魅力的に思うのだから、私も相当の馬鹿なんだろう。
「そんな無責任なこと言えるわけねーだろ」
「そうですね。借金まみれなのに養うもなにもありませんもんね」
「だーっ!そうじゃなくて!」
ぐしゃぐしゃと髪をかきまぜながら立ち上がって、いきなり私に近づいてきた。後ろに下がろうとして足がたたらを踏む。逃げる前に、腕を掴まれて引き寄せられた。
「いいか、これはおまえにさわったんじゃなくておまえの衣にさわったんだからな。数に入れるなよ?」
「はあ」
そういえば事の発端は私のあの台詞だったな、といまさらながら思い出す。この真剣な表情を見ると忘れてたなんてとてもじゃないが言えない。
「なんでそんなにイライラしてんだよ」
「イライラぁ?」
「そうだよ、俺に変に突っ掛かってきて」
変!?私の一世一代の告白を、変の一言で済ませるなんて!
「‥‥‥なんだよその目は」
「‥‥‥さすが唐変木泥だらけ野郎だな、と思って」
「はあ?」
「あれ、告白だったんですけど」
「‥‥‥わ、」
「わ?」
「わっかりにく!遠回しにも程があんだろ!」
「いいんですよ。べつに分かってもらうつもりもなかったんで」
掴まれている腕を軽く振るとすぐに解放された。扉に手をかける。
「月華、」
「二番目じゃ、」
「へ?」
「二番目じゃダメですか?」
情けなくて涙が出そうだ。こんな未練たらしい台詞を言う日が来るとは、彼と出会った頃には想像もしていなかった。
いよいよ目頭が熱くなる。燕青に見られないように額を扉にくっつけて、鳴咽が漏れないように唇を噛む。
「‥‥‥おまえはそれでいいのかよ」
「百がダメなら零になるなんて、そんなのいまさら無理です」
「‥‥‥二番目でいいだなんて、そんなこと言うな」
そうして、足音が遠ざかっていった。足に力が入らなくて、その場にずるずるとへたりこむ。
「燕青さん、」
呼べば、涙が一つ地面に落ちた。
「燕青さん、燕青さん、燕青さん」
私は最後の最後まで馬鹿だった。結局きちんと想いも伝えないまま、ただ一人で泣いている。これでは駄々っ子と変わらない。
「ほんとに‥‥‥本当に好きでした」
「そーゆーことはちゃんと本人に言わないと」
驚いて振り返ると、忘れ物がどうとかうそぶく彼が立っていた。
「‥‥‥最低です」
「俺もそう思う」
しゃがみ込んで私と視線を合わせる。
「おまえの気持ちはすげー嬉しいけど、やっぱり俺はそれには応えられない。二番目でいいなんて言い切れるほどおまえは俺の中じゃ軽くない」
そしてほんの少しだけはにかんだように見えた。
「だからしばらくお別れだ。‥‥‥今まで、ありがとうな」
くしゃりと私の髪を掻き混ぜて、そして今度こそ本当に行ってしまった。このとき自分がなんと答えたか覚えていないけれど、何かが救われた気がした。