それは、夏を少し過ぎた頃。
茶州府州官達は、門に集まり、向こうから来る懐かしい影を見つめていた。

「おー、皆‥‥‥その、ただいま!」

少しだけ困ったように頬をかく燕青を一斉に州官達が小突きまわる。

「もうっ、帰ってこないかと思いましたよ!」

「わしゃあてっきり拾い食いで腹こわしてのたれ死んだかと思ったわい」

「いい度胸してましたね、浪州牧」

口ではひどい事を言いつつも、――逃げてしまった自分をまた笑顔で迎えてくれた彼らに、燕青は破顔した。

「ホントに悪かった。ごめん」

「‥‥‥おかえりなさい、燕青」

聞き慣れた穏やかな声に、ふと振り向く。

「悠舜‥‥‥ただいま」

「無事に帰ってきてくれて、本当に良かったです」

にっこりと微笑んだ自分の元補佐官に燕青は眉をハの字に曲げてまた笑ったのだった。





「なるほどな、予想はしてたけど俺が貴陽にいってる間に結構茶家が頑張っちゃったわけね」

「ええ。まあ来年の除目までの辛抱です。それから、燕青」

翌日、執務室で悠舜と二人、茶をすすりつつ話し合っていた燕青は、急に声を鋭くした彼に、少し目をはった。

「んお?」

「あの子のところには、行きましたか?」

「えーと‥‥‥」

「文は?」

「その‥‥‥」

「まさか、何の連絡もしてないなんてことはありませんよね」

「‥‥‥」

急に黙り込んだ燕青に悠舜は深いため息をついた。次いで、燕青が貴陽に行った事を伝えた時の彼女の表情を思い出し、またため息をつく。

「黙って出ていって黙って帰ってきちゃったんですか」

青ざめたような顔でこくん、と燕青が頷いた途端、室の扉が勢いよく開いた。

「えー!?何も言わずにですか!?」

「この甲斐性無しめっ!」

「あいつ、相当お冠だぞ?」

「もう他の男に言い寄られているかもしれませんね」

「おっ、おまえら何やってんだよ!」

なだれ込んできた州官達に燕青は目を丸くした。
っていうか話聞いてたのか。

「燕青、とりあえず会いに行ってあげて下さい」

「え、いいのか?」

苦笑を浮かべながら悠舜は頷いた。

「あの子が城に乗り込む前に行かないと、手がつけられなくなりますよ?」

「う‥‥‥」

普段からよく怒る奴だったが、ここぞと言う時は本当に怖い。悠舜がブチ切れた時くらい怖い。

「わかった、じゃあ行って、」

「あーっ!門のところに月華さんがっ」

「何っ!?」

若い官吏の叫び声に皆が窓に駆け寄る。

「うわ、本当だ。浪州牧、目茶苦茶笑顔ですよ」

「ふむ、ありゃあ顔の筋肉総動員して外面取り繕っとるのう」

「っ、行ってくる!」

執務室を飛び出した長官に、皆が憐れみの視線を向けていた。




月華は門の前で目をつむって大きく息を吸った。
気持ちを落ち着かせるようにゆっくり、ゆっくりと吐き出す。

(落ち着こう。ひとまず落ち着きなさい、自分!もう二十六、大人大人。いい年なんだからとりあえず冷静にならなくちゃ)

きっと気を抜けば般若のような顔になること間違い無し!(州官談)なので、表情筋を総動員して口角を吊り上げる。

俯いた頬に、緩く編んだだけの髪が、一房かかる。すっ、と筋肉総動員な笑顔を浮かべたまま顔を上げ、一歩踏み出す。

城の敷地に入って、また大きく息を吸った。

(笑顔よ、笑顔。燕青だってきっといろいろ悩んでたのよ。だから黙って出てって黙って帰ってきただけ。そう、黙って‥‥‥)

城の上部に一つだけ、窓が全開になっている室がある。
その窓から、州官達がそろりとこっちを見ていた。

そのうちの、若い官吏が室の中に向かって何か言っている。
見慣れたぼさぼさの黒髪に、月華はほんの少し目を細めた。
そして、

「くおうらあああ!燕青、いるんでしょ!?とっととこっちに来なさいよ!」

目をカッと見開き、吸い込んだ息を思いきり吐き出す。

(ふっざけんな!)

もはや笑顔は無く、般若の如き彼女に、若い州官達の顔は怯え、年かさの者は室の奥で爆笑していた。

「うわっ、月華さんものすごく怒ってる」

「こわっ!」

悠舜は深くため息をつき、転ぶように駆け出した燕青の後ろ姿を見て、苦笑した。



月華は二、三歩進んだ後、走ってくる燕青を見とめ、仁王立ちになった。

「月華‥‥‥」

少し離れたところで立ち止まった燕青は、汗をかき、珍しく息があがっていた。全速力で来たらしい。

少し困ったように眉を下げている燕青に、近づいた。

「つっ‥‥‥」

あたりにバチン、と響いた気がした。

月華は腕を思いきり振り上げ、燕青の頬をめがけて振り抜いた。
遠慮も手加減も無しの、渾身の一発だ。

まさか突然平手打ちされるとも思わず、燕青は呆然と月華を見つめた。次いで反対側の頬も思いきり張られる。

燕青は、避けなかった。

しばらく、沈黙が続いた。
肩で息をする月華は、俯いていた。
燕青は、それをただ見ていた。

「‥‥‥黙って出てった分と、黙って帰ってきた分」

ぼそりと呟かれた言葉に、少したってから平手打ちの話だと燕青は気付いた。

「‥‥‥ごめん」

「どういうつもり?」

俯いたまま、月華が言った。

「黙って出てって、そのまま茶州から逃げるつもりだったの?」

「‥‥‥うん」

「帰ってきたのを黙ってたのは?」

「何て‥‥‥おまえに何て言ったらいいのかわからなかった」

「燕青」

「ん」

「私、あんたのこと、笑ってなんて許せない。無事に帰ってきたからそれでいいなんて、絶対に言わない」

「‥‥‥」

「言いたいことがたくさんあるの」

「‥‥‥ホントに、悪かった」

ふわり、と彼女の顔がもちあがった。泣いているか、怒っているか、燕青はどちらかだと思っていたが、どちらも違った。

その表情を見て、月華を抱きすくめた。
覆いかぶさるように、すっぽり包み込むように、優しく、優しく。

硝子細工を包む絹のように、そっと抱きしめた。

「ごめん、ホントにごめん‥‥‥月華、悪かった」

痛いほどの、切ない表情は、泣かれるよりも辛かった。

そんな顔をしている月華自身は、もっと辛かったのだろうと、燕青は、自分が大馬鹿野郎だと、そう思った。

「燕青‥‥‥」

「‥‥‥ごめん」

とん、と胸を押され月華の顔を見つめる。

「おかえりなさい」

マメのある、でも、小さな手が、燕青の頬を優しく滑った。

「‥‥‥月華」

泣き出しそうに笑った、月華の、その口唇に、燕青はそっと口付けた。

触れ合う、柔らかな感触が懐かしくて、愛おしくて、二人は知らず、腕に力を込めた。

「月華、ただいま」

「まだ許してないわよ‥‥‥でも、好きよ、燕青」

「‥‥‥俺も」




おかえりと、ただいま



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