燕青と、その、恋人?でいいのかな。そういうのになってはや三ヶ月なんですが、きっかけは些細なことだった。
別に今まで意識もしなかったし、当然のように甘受してきた。
でも、どうしてだか今回ばかりは、妙に胸がドキドキするのです。
その理由が、わからない
「ねえねえ、月華ちゃんちはどこまでいったのよ?」
娘同士の他愛もない会話。皆で洗濯や水汲みをしながらきゃいきゃいと、主に恋愛について、お悩み相談や情報交換などが楽しく繰り広げられている。
そんな中、自然と出てきた質問。
「そういえば月華はその手の話、全然しないわよね」
「ホントのところ、どうなのよー?」
どこまで?どこまで?キャー!と、乙女特有の気持ちの高まり方はどこの街でも同じ。
「えっ?どこまでって‥‥‥手を繋ぐくらいよ」
「まだ手!?」
月華の発言に一同肩を落とした。子供じゃあるまいし、三ヶ月経って手だけとは。
「彼が奥手なのか、あんたが奥手なのか‥‥‥」
やれやれ、と首を振る彼女達に月華はたじたじした。
「え?なに、なによ!?」
「もう三ヶ月でしょ?口付けとかは?」
「‥‥‥‥」
途端に黙りこんだ月華を見て、乙女達は苦笑い。
「く、口付けはまだちょっと早くない?」
「「「早くないわよ」」」
「みんな経験済み!?嘘でしょ!」
あまりに初々しい反応に、乙女達は月華の彼に同情したのだった。
そんな話をした帰り道。“暴走した馬車”に突っ込まれそうになって、驚きで一瞬足が止まる。
それがいけなかった。
避けられない、そう思った時、体が誰かに抱え込まれて、転がる。
「危ねっ」
「きゃあっ」
急な出来事にらしくもない悲鳴が零れて、こんな時なのに恥ずかしくなる。
道の端に転がりながら顔を向けると、先程の馬車がスタコラと逃げていくところだった。
(茶家の仕業ね‥‥‥)
内心舌打ちをする。
「あぶねーな。月華、大丈夫かー?」
「燕青‥‥‥」
自分が抱えられたまま、二人で道に転がっていた。
「ありが、」
顔を上げたら、予想以上に近くてドキンと胸が跳ね上がった。
整った顔に、お日様のような笑顔。
たくましい腕に抱きしめられている状況をいまさら思い出して、心拍数がさらに上がる。
「‥‥‥どうした?」
そして、動く唇を見つめてしまってから、月華は赤面した。
『彼だってしたいんじゃない?』『ま、焦ってするようなもんでもないけど』『でもそろそろいいかもねー。奪っちゃいなさいよ』
大人な彼女達のセリフを思い出し、さらに頬が熱くなる。
「ああああありがとう!大丈夫!ヘーキよ!」
慌てて顔を反らして立ち上がる。
不思議そうな顔をする燕青の目を見ることが出来なくて、土埃をはらうことでごまかす。
すっと、燕青が月華に腕を伸ばした。
(な、なに?)
髪に触れてからニカッと笑う。
「藁、ついてたぜ」
「‥‥‥い」
「い?」
「いやああぁぁっ」
その場から猛然と走り去った月華の背中を見ながら、燕青はキョトンと首を傾げた。
「え?俺なんかした?」
そして次の日の朝、茶州府。
「月華、」
いつもの後ろ姿を見とめて、燕青はいつものように声をかけた。
うなじで結んだ長髪が、月華が歩くのにつられてゆらゆら揺れている。
「おはよーさん」
途端にぎょっとしたように肩をすくめ、ぎこちなく振り返る。
「あ、あら燕青、おはよう」
「それ、執務室のだろ?持ってくぜ?」
すっと月華が持っていた書簡の束を持つ。
「あ、う、その、ごめんっ」
「え?おい、ちょっと」
途端に狼狽し、走り出した月華の背中がみるみる小さくなっていく。角を曲がったのか、その背中も見えなくなった。
(俺、なんかしたか!?)
『それ、執務室のだろ?持ってくぜ?』
そう言って書簡を持ってくれた瞬間、燕青の指が、自分の指に、
(さ、触った‥‥‥!)
これくらいでドキドキするなんておかしい。前だって手が触れ合うことなんてちょくちょくあった。
付き合い始めてからは手だって握ったりしているし、照れるような仲でもない。
「とにかく落ち着こう、落ち着こう」
廊下の角で深呼吸をする。
「悠舜、俺なんかしたかな」
机にぺたりと伏せた燕青の動かない筆に目をやりながら、悠舜はそっとため息をついた。
「何か怒らせたんじゃないんですか?」
「でも今回はホントに心当たり、ねーんだよなー」
「はあ」
燕青もため息をついた。
月華と付き合い始めてはや三ヶ月。ケンカなんて(いつも一方的に怒られる)したことがない。でも今回は怒っているようでもない。
(俺、なにしたっけ‥‥‥)
「んー」
また唸り始めた上司を見て、悠舜はまたため息をついた。
「直接聞いてきたらどうです?」
「‥‥‥よし、行ってくる!」
言うが早いか、出ていった上司に、悠舜は今日何度目かのため息をついた。
(変に意識するからいけないのよ。自然に、自然に!)
月華はまだ悩んでいた。箒で長い廊下を掃きながらぶつぶつと呟く様からは、何か鬼気迫るものがある。
そんな月華の肩を後ろからトントンと、誰かが叩いた。
「はい?」
振り向き様に目に入ってきた人物に悲鳴をあげかけ、咄嗟に距離をとった。
「そんな態度とられると心の広い俺もちょっと傷付くんですけどー」
「え、燕青‥‥‥」
自然体、とは言ってもいざとなると意識しまくりの自分を、ばかっ、と叱りたくなった。
「俺、なんかした?」
「ううん」
首を横に振る。何かしたどころかむしろ燕青は被害者なわけだが、本人は日ごろの条件反射なのか自分が悪いと思いこんでいるようだ。
「燕青は何も悪くないわよ、ホントに」
じりじりと間合いをつめられ、月華も後退する。しかしすぐ壁に追いやられ逃げ場を無くしてしまった。
「じゃあなんで俺から逃げたりするんだよ」
さりげなく顔の横に手をつかれ、身動きもできなくなる。
「それはー、その‥‥‥」
「その?」
覗き込むように近付いた顔に、口唇に、月華の顔がポポポっと赤くなった。
「燕青は、その‥‥‥あたしと、あたしと、」
珍しくもごもごしてはっきりしない態度に首を傾げつつ、燕青は辛抱強く待った。
「あたしと‥‥‥くっ、く、口付けとかしたいと思ってるの!?」
真っ赤になりながらも見上げる月華に、燕青はポカンとした後、ホッとしたような表情になり、目の前にある自分のよりも華奢な肩に額を埋めた。
「そんなことか‥‥‥よかった」
「そ、そんなことって!」
「あ、いや、俺てっきりなんか月華に嫌われることしたのかなー、って思ってたからさ」
「嫌わないわよ!その、近所のお友達とね、そういう話をしたのよ。それで、ちょっと意識しちゃったというか‥‥‥」
「なんだ、そういうことか」
よかったと胸を撫で下ろした燕青に、ごめんと呟く。いいって、と燕青が笑った。
「あ、それからな」
「うん?」
顔を上げてから、照れ臭そうに頬を引っ掻いて目を反らす燕青を見上げる。それから、
「口付け、したいに決まってんだろ」
燕青のセリフを聞いてまた頬を染めた。
「おまえは?」
「‥‥‥燕青がいいなら」
もしも誰かが二人を見ていたら、紅葉のように染まった頬を笑うだろう。
「今、してもいいか?」
上から降ってくる優しい声に、月華は頷いた。
「じゃ、目、閉じて?」
「ん‥‥‥」
言われた通りにきゅっと目をつむると、燕青の指が頬にかかったのが分かった。
そのまま、近付いてくる気配がして、そして、
「‥‥‥?」
ふわりと、おでこに柔らかい感触がしてそっと目を開けた。
「やっぱ本番は二人っきりの時がいいかなーって」
照れながら悪戯っ子のような顔で笑った燕青に月華は、もうっ、と燕青の肩を押しながら「ばか」と照れ臭そうに呟いた。