私には好きな人がいる。
強くて優しくてちょっとおバカでだらし無いところも多々あるけれど、とにかく私はその人のことが好きで好きで仕方がない。もちろん本人にこんなことは恥ずかしくて言えない。でもとにかく気持ちだけはと伝えたところ、ニカッと私の大好きな笑顔で「実は俺も」と抱きしめてくれた。
友達期間が長かったせいか、本人の性格のせいか、あるいは両方か、なかなか甘い展開にはならない。それでも毎日あの笑顔を私に見せてくれるだけで心が弾む。そう思っていた、はずだった。
自分でも我が儘で欲張りだとは思う。でも、でもやっぱり、
(なんか物足りない!)
燕青と触れ合う機会は前より格段と多くなった。その親密さも。でも普段から他人にベタベタしている燕青を見ていると、私だけ特別という感じはしない。ふと自分達を客観視したとき、燕青が犬とじゃれあっている、そういう印象を受ける。
「と、いうわけで、柴彰、協力よろしくお願いします」
「なにが『と、いうわけで』ですか。幸せならそれでいいじゃないですか」
「幸せ、なんだけどさ。なんか違うっていうか」
お茶を啜りながらぼやくと、目の前で柴彰が露骨にため息をついた。
「で、どうして欲しいんですか?」
「協力してくれるの!?」
珍しく優しい発言に思わず身を乗り出すと、彰がすっと手を目の高さまで持ち上げた。次いで、指を三本立てた。
「昼食三日分です」
「‥‥‥そーゆーのって一日じゃないの?」
「どうせあなたが働いてる料理屋に行くんでしょう。なら店の売り上げにも繋がるんですからこのくらい当然です」
「‥‥‥」
全然優しくなかった。そんなのだいぶ前から分かっていたのに私は何を期待したんだろう。
「で、具体的にどうすればいいんですか?」
「えーと、」
「まさか何も考えてないとか」
「‥‥‥」
「‥‥‥じゃあ考えが決まったらまた教えて下さい」
お代の分は働きますよ、と柴彰が鰻のようにニッコリ笑った。幼なじみなんだからタダで働いてくれればいいのに。
「用件は二つあると聞きましたが」
「あ、そうそう。今から買い物に付き合って」
「いいですよ」
あっさり頷いたのにはわけがある。彰と買い物をすると自然と全商連加盟店に行くので利益云々で快諾してくれる。いつも良い物が揃っているうえに、彰の趣味もかなり良いのでとても助かっている。
手早く茶碗を片付けて、巾着に財布を入れてから肩掛けを羽織る。
「よし、行こ!」
「今日は何を買うんですか?」
「野菜と、糸と布と‥‥‥あと炭もないししゃもじも新しいのが欲しい」
「そうですか」
彰が目だけで上を向いた。きっとどういう経路でどの店を回るか、一番効率のいい方法を考えてるんだろう。
そういえば燕青は困ると視線が上に集中してたっけ。
今頃お昼でも食べてるのかな‥‥‥ツケで。それともあっちこち飛び回っててそれどころじゃないかも。どうしていつもあんなに元気なのか不思議でならない。
「何にやにやしてるんですか」
「え?してた?」
「今もしてますよ」
言われて慌てて口元を引き締める。
そのまますたすた歩く彰について行って、八百屋と反物屋で少し値切って、無事に今日の買い物が終わった。
手間が省けるようにといろいろなものをまとめて買ったので、だいぶ時間がかかってしまった。もう日が傾き始めている。品物の入った籠を持ち直すと、ふいに肩が寒くなった。
「肩掛け、ずれてますよ」
彰が丁寧にずり落ちた肩掛けを直してくれる。ちょうど手がふさがっていたので助かった。
「ありがとう」
「こちらこそ、お買い上げありがとうございました」
「どういたしまして」
相変わらずの鰻笑顔の後ろから、にゅっと腕が伸びてきた。そのまま彰の肩にだらーんと置かれる。
「疲れたー」
彰の後ろから姿を表した燕青が、少し屈んで深い息を吐いた。なぜか泥だらけだし、いつもより疲れてるのかもしれない。
「あ、燕青。おかえり」
「おー、ただいま」
「重たい腕ですね。早くどかさないと腕置き料請求しますよ」
「へいへい」
燕青はぱっと腕をどかすと、ぐっと伸びをした。
「邸まで送ってく」
「やったー!」
最近あまり顔を見られなかったのでそれは嬉しい提案だ。
柴彰にもう一度お礼を言ってから、燕青と並んで歩き出す。
雲の隙間から薄い夕日が四方八方に伸びていて、二人分の影を細長くしていた。
「今日はずいぶん泥だらけだね」
「山賊追っかけて山ん中走ってたらこんなざまだよ」
「うちで湯浴みしてく?この前繕い頼まれた衣あるし」
「‥‥‥じゃあ甘えちまうかな」
「うん、そうして」
じゃあ帰ったらすぐ火を入れて、燕青が湯浴みをしている間に夕食を作ろう。
筍があるから青椒肉絲かな。
頭の中でなんとなく献立を組み立てていると、ふいに手が温かくなった。驚いて思わず立ち止まってしまった。
「どうした?」
燕青が不思議そうな顔で振り向いた。
燕青の手は、初めて握るその手は大きくて、ごつごつしていて、少しだけ乾いているとても温かいものだった。一気に心鼓が速くなる。
「な、なんでもないよ」
どうにかそれだけ言って、また二人で歩き出す。
ドキドキと心臓の音が、うるさくてうるさくて、燕青に聞こえているんじゃないかと思う。きっと顔も真っ赤だ。手に変な汗をかいているかもしれない。
ちらりと燕青を見ると、いつも通りの平然とした顔で歩いていた。
やっぱり、私ばっかり好きな気がする。
夕餉のしたくが調ったので、燕青を呼びに風呂場に向かう。今日はやけに長いと思ったら、燕青は縁側に寝転んで涼んでいた。
「燕青、ご飯できたよ」
「おーう」
返事はするものの、目をつむったまま動こうとしない。いつもはすっ飛んでくるのに、きっとよっぽど疲れてるんだ。
隣に腰掛けると、薄暗がりの中から、ふんわりとした夜風が流れてきた。種類は分からないけど、花の香りがする。
「さっぱりしたね」
「うん、気持ち良かった」
「‥‥‥」
「‥‥‥」
駄目だ、ちょっとドキドキする。
ちらりと燕青を見ると、水浴びをした前髪が風に揺られていた。
‥‥‥もっとどきどきしてきた。
顔がほてってきた気がするので、先に室に戻ろうと思って立ち上がると、すっと伸びてきた腕に手首を掴まれた。
「‥‥‥燕青?」
「‥‥‥まだ、こうしてちゃ駄目か?」
びっくりして振り返ると、思っていたよりも真剣な表情の燕青がいた。
「いい、けど」
ゆっくりと隣に腰を下ろす。掴まれたままの手首が熱い。心臓も速い。
「急にどうしたの?」
燕青は私の顔をちらりと見たあと、黙りこんでしまった。しばらく風に吹かれてから、燕青が宙を見ながら口を開いた。
「今日、帰りに彰と一緒だったろ?」
「うん」
「そんで、肩掛け直してもらってたじゃんか」
「そう、だっけ?」
そんなことあったけ?私としては、隣にいる燕青にドキドキが聞こえているんじゃないかと、そっちのほうが気になる。
「それ見てて、なんか、似合ってるなって思って」
ちょっと待って、えーと‥‥‥え?どういうこと?
「わ、私が好きなのは燕青だよ!」
どうしよう、燕青に嫌われちゃったんだろうか。そんなの嫌だ。
「今日初めて手を繋いですごくドキドキしたし、っていうか今もしてるけど、あといつも私ばっかり燕青のことが好きで、その、」
「あー!もう分かった、分かったから!」
「むぐ、」
にゅっと伸びてきた手が私の口をふさいだ。その手の主の燕青の顔は、気がついたら真っ赤になっていた。
「違うんだよ、べつにそーゆーことじゃなくてさ」
手首を引かれて、燕青の胸に倒れ込む。ど、どうしよう。心臓が止まる。
「ちょっとヤキモチ妬いただけ!」
「で、でも」
「それにおまえばっかり好きとか、そーゆーの無いから!」
私の背中に燕青の腕がまわって、ぎゅー、と抱きしめられる。一日でこんなに進展するなんて、このあと悪いことでも起こるんだろうか。
「だって燕青、恋人らしいことしてくれないし」
「え!?」
「私が告白したからそれで、」
「違う違う違う、ちゃんと告白される前から月華のこと好きだったから!」
顔を上げて燕青に今までの不安をぶつけると、慌てて私の肩を掴んだ。
「‥‥‥それ、ほんと?」
「ほんとほんと」
赤いほっぺたのまま、焦ったように燕青が頷く。
その瞬間、胸のつかえが取れた気がした。
「そっか、良かった‥‥‥」
「おう」
ほっとして力が抜けて、燕青の胸板にもたれ掛かる。トクントクンと、少し速い心鼓が聞こえた。
ああ、燕青もドキドキしてくれてるんだ。
心の中で呟きながら燕青を見上げると、夜空を見ながら人差し指で頬をかいていた。
もし照れてくれているなら、すごく嬉しい。
冷めた夕飯も美味しくなる