物事の終わりは突然やってくる。
布団の中で目を開いた。目覚めた原因が分からないままぼんやり天井を見つめていると、バリン、と窓ガラスの割れる音がした。足元を確認して、布団から這い出る。窓を見ると、大きなヒビが入っていた。
確かに割れる音がしたのに。
不思議に思ったのは一瞬で、すぐに窓の向こう側の異変に気がついた。赤黒い光と、鼻につく焦げ臭さ。普段使っている鞄に通帳と印鑑を放り込んで、一着しかない上着を羽織った。箪笥の引き出しを開けて着替えを一掴みしたあたりで微かな熱気とほんの少しの煙を感じた。ゆっくりと玄関の扉を開けて、廊下に出る。今まで会ったことのない住人達が、同じように寝間着らしいラフな姿で部屋から出てきていた。確認のような会話を交わして階下へ進む。誰かが通報してくれていたようで、サイレンの音が辺りを包んでいた。
警察の事情聴取が終わったのは、すっかり夜が明けてからだった。待合室で、職場に電話をかける。事情を話して数日の休みをもらった。ソファの背もたれに寄りかかって、長く息を吐いた。携帯のディスプレイを眺める。この時間ならもう起きているだろう。仕事で出かけていなければいいのだけれど。
「お待たせしました。お送りします」
自分よりも幾分か年下らしい警察官とパトカーに乗り込む。走り出してから、ぽつりぽつりと世間話をした。
「ここでいいです」
「万事屋に滞在するとのことでしたが」
「朝だし目立つのであとは歩いていきます。何かあれば携帯に連絡をください」
「わかりました。消防のほうからも連絡があると思いますので」
見送るパトカーを背に、万事屋の階段を上る。
インターホンを一度押してしばらく待った。人が出てくる気配はない。まだ寝ているのか、仕事なのか。看板を背にして、鞄ごと膝を抱えこんだ。寝不足なうえ、慣れない事情聴取を受け、髪や服からは独特の臭いがする。流石に気落ちして、ため息をついた。少しの間でも体を休めようと目を瞑る。頭の中がぐらぐらと揺れているようで、それが辛くて意識を手放した。
賑やかな話し声と、階段を上ってくる足音で目が覚めた。変な姿勢で寝ていたせいか上半身、特に首の周りが痛い。首を押さえて長く息を吐き出した。
「おかえり」
「おう、来てたの、か?」
眠そうだった銀時の目が丸くなったかと思ったら、すぐに眉間に皺を寄せた。その後ろから、神楽ちゃんがひょっこりと顔を出す。
「銀ちゃん、いつまで突っ立ってるアル、」
ポカンとした表情のまま、すぐにこちらに駆け寄って無遠慮に体を撫で回される。荒っぽいながらも頬や頭を押さえる手は温かくて優しい。
「春ちゃんどうしたの、どっから逃げてきたアルか!」
「あはは、おうちが焼けちゃって」
「笑い事じゃないヨ!」
神楽ちゃんの肩越しに、銀時が万事屋の玄関を開けるのが見えた。二人の様子からして朝ごはんでも買いに行っていたらしい。
「とにかく中に入れ、な」
「うん、お邪魔します」
勧められたままシャワーを借りた。熱いシャワーを浴びて着物を替えると、気分もさっぱりしたようで疲れもだいぶ薄らいだ。それまで着ていた寝間着をもう一度使う気にはなれなくて、ビニール袋に押し込んだ。
持ち出した鞄の中身を取り出して並べる。財布、通帳、印鑑、携帯、今しがた身につけたばかりの着替えが一式。元々持ち物は少ないほうだから、これだけ揃っていれば特段問題はなさそうだ。後で買い出しに行って日用品だけ揃えよう。
台所に顔を出すと、銀時が朝食の支度をしているらしかった。
「シャワーありがとう」
「おう、朝メシあるけど?」
「いただきます」
彼が手早く三人分のご飯を盛り付けて、お盆も使わずそのままテーブルへと運ぶ。すぐに戻ってきたかと思えば、冷蔵庫から卵を三つと、醤油の小瓶を取り出した。
「コレコレ、これアル!いっただっきまーす!」
全員が席に着くと、神楽ちゃんが素早く卵を割って、ご飯にかけて、そのご飯が一瞬でなくなる。
「おかわり!」
言いながら自ら台所へと消えていった。
「どうしても卵かけご飯が食いてェって言うから朝から買いに行ったんだよ」
「それでいなかったんだ」
席に戻った神楽ちゃんがまた同じように卵を割ってご飯にかけた。私も見ていないでありがたくちょうだいしよう。卵かけご飯なんて久しぶりで、こんな時なのに少し嬉しい。
「いただきます」
ほかほかのご飯に冷たい卵を割り入れる。醤油をちょっぴり垂らして、それらをよく混ぜた。
「……美味しい」
卵の甘みと醤油の塩気が白いご飯に絡まって、なんだかほっとする味だ。神楽ちゃんほどではないけれどあっという間に食べ終わる。
「ごちそうさまでした」
「茶ァ飲むか?」
「うん、ちょうだい」
「ほいよ」
来客用の茶碗に口をつけて、はじめて喉が渇いていることに気がついた。熱めのお茶を少しずつ、それでも一息で飲み干すと、すぐに二杯目が注がれた。
「ありがと」
それも空にして、三杯目の途中でようやく人心地ついた。
「で?」
「え?」
「家、燃えたの?」
相変わらず気怠げな顔だったけれど、玄関先での険しい表情を思い出すとかなり心配させたことには違いない。
「アパート一棟全焼。警察の人は住人の失火が原因だって言ってた」
「怪我とかは?」
「幸いみんな軽傷みたい」
「いや、おまえの話」
じっと顔を見つめられて、嬉しいような、気まずいような。
「……どこもなんともないよ」
ふーん、と返事なのか頷きなのか区別のつかない音だけ吐き出した。
「それでね、必要な物は持ち出せたから、しばらく、」
一瞬躊躇ったその間に、玄関のほうからドタドタと音を立てて誰かが駆け込んできた。ガラリと扉を開けながらズレた眼鏡を直す。
「銀さァァァん!春さんのアパートが火事で燃えたらしいんですけど!?なんか聞いてます!?」
「ん」
「ホラ」
銀時と神楽ちゃんに同時に指し示されて、新八くんの視線がまともに突き刺さる。
「ああ、良かった!無事だったんですね」
「心配かけてごめんね、このとおり」
「っつーわけで、しばらくうちに泊まるから」
通りすがりにポンと頭を叩かれた。顔を上げた時には背中しか見えなくて、その優しさがむず痒くてもどかしい。
「お世話になります」
その日、銀時は一人で仕事に出かけた。朝食の片付けしながら新八くんに尋ねたら、時たまそういうオファーもあるらしい。
午前中のうちに神楽ちゃんと買い出しに出かけて、最低限の日用品をあれこれと調達した。昼食は冷蔵庫の余り物で拵えて、三人でいいともを見ながら食べた。
「いってきますヨー」
「暗くなる前に帰ってくるんだよ」
「ハイハイ」
まるで母親のような新八くんは、くるりと振り返って私の手の平に何かを落とした。
「これ合い鍵です」
「え、でも新八くんが持ってたほうがいいんじゃない?」
「ほとんど使うことないんですよね。春さんが仕事行ってる間に出かけちゃうと入れなくなっちゃいますし、持っててください」
「じゃあ、とりあえず借りておくね」
「はい。じゃあ今日は仕事ないんでこれで帰ります。布団を干してあるので二時頃取り込んでください」
うーん、本当にお母さんのようだ。
玄関まで新八くんを見送ってから、買ってきたものの整理をした。パッケージから取り出したり着替えや下着のタグを切ったりして、もらってきた空き箱にそれらを置いた。
洗濯物を取り込んで畳む。それから干してあった布団を取りこもうとして、考える。これは銀時がいつも寝ている畳の部屋に敷いていいのだろうか。一応ぐるりと万事屋の中を一周して、そこ以外に場所がないことを再確認した。根拠のない罪悪感に駆られながら、彼の布団から少し離れたところに自分の布団を敷いた。シーツや枕カバーをセットして、枕元に荷物を詰めた箱を置く。
一段落したのでお茶を入れてソファーに腰掛けた。なんとなくテレビをつける。料理番組のようで、旬の野菜特集をしていた。今日の夕飯は何を作ろうか。冷蔵庫の中身を思い出しながら献立を考える。背もたれに寄りかかると小さな欠伸が出た。思い出したかのように瞼が重くなって、どうしてか目を開けられなくて、そのままテレビの音が小さくなっていった。
ゆっくりと瞼を持ち上げる。何度目かの瞬きで、自分が万事屋にいることを思い出した。何やら賑やかなほうに視線を動かすと、テレビの中で若い男女が口論を繰り広げていた。無意識に左上を見て、慌てて立ち上がる。時刻はすっかり夕方なのに夕飯の支度は何一つ進んでいない。結局料理番組も見ないままだったし、何を作ろうかと内心焦りながら台所に入る。
「ご飯……」
「まだだけど?」
「作ってる……」
「そりゃあ自分ちだからね、メシくらい作るよ」
「そっか……」
お玉で鍋の中身をかき混ぜる銀時の姿がどうにも見慣れなくて、そのまま後ずさる。拍子抜けして一人でソファーに戻った。座り込んで、付けっ放しのテレビを眺める。料理は当番制だって前に言ってたっけ。それに案外器用で凝り性だから、料理ができても不思議じゃない。神楽ちゃんがいるから余計にちゃんとしたものを作るだろう。
「あ」
もう一度慌てて立ち上がって、台所に戻る。
「手伝う」
「いいから座っとけって。火事で焼け出されたばっかのやつに夕飯作れとか言わないから」
「でも、」
「おまえの中の俺はどーなっちゃってんの」
鍋に蓋をして火を止める。その横顔がほんの少しだけ冷たく感じて、なんだかここ最近は怒らせてばかりだなあ、なんてぼんやりと考える。
その場で立ち竦んだ私をどう受け取ったのか、そっと右手を伸ばしてきた。頬に近づいたその手はくるりと向きを変えて、ぺちんと軽やかな音を立てながら額を弾いた。
「って」
「ご奉仕するなら別の時でいいから」
言われた意図が分からずに黙りこんだけれど、へらりと笑った銀時の顔を見て一気に緊張が解けた。
「すぐ!この、もう!」
「なんですかー?俺なんにも言ってませんけどー?」
「こどもか!」
「なんで怒ってるのか知りたいなァ」
「べつに怒ってませんから」
完全に銀時のペースにはまってしまった。このままだと何を言っても立場は弱くなるばかりだ。仕方がないので、へらへらと緩んでいる頬をぐにっとつまんでやった。
「イテテテ」
「明日もお仕事?」
「残念だけどな。三人とも夕飯までには帰ると思うけど。おまえはいつまで休みもらえたの?」
「一応明後日まで」
「え、短くね?」
「でも明日には消防と大家さんに行くし、そうしたらすることないもの」
「まじめか!」
「銀時こそもう少し真面目に働きなさいよ」
「アーアー聞こえないー」
「二人とも何やってるアルか。お腹空いたネ。早くご飯にするアル」
はっとして入り口を見ると、神楽ちゃんがシラけた顔で酢昆布を齧っていた。
手の平を眺めて、小さく息を吐き出す。銀色の塊が鈍く光った。
昨晩、後から部屋に入ってきた銀時は何を言うでもなく静かに布団に横たわった。私が寝ていると思って気を使ったのかもしれない。実際、うとうとしていたので記憶は曖昧だ。朝も一人だけ寝坊をしたのでいつものように黙々と朝食を摂った。その後は銀時に話した通りで、ついさっきまで大家さんと話をして別れてきたばかりだ。
手の平の鍵は二本。こんなに早く新八くんに返すことになるとは思わなかった。
「えっ、もう次の部屋見つかったんですか」
「大家さんが持ってる別のアパートなんだけどね、内見もさせてもらってよさそうだったから借りてきちゃった」
「もういなくなっちゃうアルか?もうちょっとゆっくりしていけばいいのに」
「そうですよ、そんなに急いで決めなくても」
まだ明るいうちに帰ってきた三人にお茶を淹れながら報告をする。見るからに残念そうな顔をしてくれる二人になんとなく嬉しくなってしまう。
「まあいいんじゃねーの。早いとこ落ち着けて」
「今日だけ泊まらせてもらって、明日には荷物運んじゃうから」
「へいへい」
「ということでお礼にお肉たくさん買ってきたから、今夜は焼き肉にしよう」
「キャッホーイ!」
神楽ちゃんが飛び跳ねて、そのテンションに引かれたように新八くんも両手を上げてバンザイした。
私と神楽ちゃんで食材の下準備をしている間に銀時と新八くんにはホットプレートやら和室の準備やらをしてもらった。焼肉屋さん風にするべくワカメスープを作ったりアイスをお皿に盛り付けたり、タレを何種類も用意したり。煙いながらもみんなであーだこーだ言いながら食べる焼き肉は賑やかで、眩しくて、胸が痛むほどに楽しかった。
新八くんを家に帰して、眠たそうに目をこする神楽ちゃんを布団に寝かしつけて、部屋が臭うだなんだとぼやく銀時を風呂に見送ると途端に静かになった。さっきまでの喧騒に慣れた耳が、ぼんやりと痺れているようだった。
肌寒さを感じて、換気のために開けていた窓を少しだけ細める。ふと思い立って、冷蔵庫から缶ビールを取り出す。窓辺に腰を下ろした。プルタブを引っ張ると、景気のいい音が静かに響いた。ゴクリと喉に流し込む。冷たさに緩和された苦味が喉をするりと通り過ぎて胃に落ちていった。
「珍しいな」
「なんか飲みたくなっちゃって」
いつもの寝間着姿で彼がゆっくりと歩み寄ってくる。髪の毛はまだ濡れたままで、手にしたタオルで乱暴に拭っていた。
「俺も飲もっかなー」
「飲みさしでよければあげる」
「もういらねーの?」
「うん、一口欲しかっただけ」
じゃあ遠慮なく、と私の右手から銀色の缶をさらっていった銀時が一気にそれを傾ける。半分ほど飲んで、気持ち良さそうな声を漏らした。
「お酒、神楽ちゃん達がいるから買い置きしてないの?」
「金が無くて買えないんですぅ」
「ふーん」
適当そうに見えるけれど、意外に細やかな気遣いができるのが銀時だ。昔は想像もしなかったけれど、すっかり保護者としての意識が根付いているようだ。お酒だって外で飲んでくるようだし、二人に何かあれば血相を変えたり変えなかったりして飛んでいく。そういう相手が増えるのは、いいことなんだろう。
窓の外を眺めながらそんなことを考えていると、それをどう受け取ったのか、銀時が低いトーンで口を開いた。
「火事のこと、大丈夫なの?」
「うん、火災保険に入ってたし大家さんが色々やってくれたから」
「……そうじゃなくて、おまえ自身のこと」
質問の意図がいまいち飲み込めなくて、返答に詰まる。
「あのな、いっつもいっつも、おまえのその自分のことはどうでもいいみたいな態度が気になるんだよ」
「そんなつもり、ないけど」
髪の毛をぐしゃぐしゃとかき混ぜて、わざとらしくため息をついた。
「無意識でやってるから余計にタチが悪いんだよなァ」
鈍感な自分にもはっきりと伝わったそのトゲに、こちらも語調がきつくなる。
「あの時に比べれば火事なんてどうってことない。死人も怪我人もなくて私も無事、新しい家も見つかったし万事屋もある、ほかに何が必要だって言うの」
「あんな疲れきった顔で玄関先に座り込まれて、その上俺にまで遠慮して、そういうとこが自分を大事にしてないって言ってんだよ」
「だって、きっと助けてくれるって分かってるけど、だからって助けてくれて当たり前なんて思えない!」
「そんな話じゃなくて!なあ、いつになったら分かってくれんの?俺がこんなに、」
言いかけて、口籠る。多分、お互いの眼差しはいつもよりも歪んでいて、それでいて熱い。銀時は言葉を選んでいるようだったけれど、結局ふいとそっぽを向かれた。それから、ぼそりと独り言のように、
「……別れる?」
と窓の外に向かって呟いた。
体中の温度が自分の外側に溶け出していく気がした。おかげで、口をついて出た言葉もずいぶんひんやりとした気配をまとっていた。
「別れるって、もう会わないってこと?」
「うそうそうそ、今の嘘!忘れて!」
それをかき消すほどの勢いで詰め寄られる。右手で握られていた缶ビールがめしゃりと潰れて、それを窓辺に置いてから空いた両手でがしりと二の腕のあたりを掴まれた。
「自分でもビックリした、今のドラマの見過ぎとかだから、全然そんなこと考えたこともないから」
「いや、でも、私に不満があるのは分かった」
視線を感じるけれど、今は応えられなくて少し俯く。
「もう遅いし今日は寝よう。お風呂もらうね」
「あの、春ちゃん、」
やんわりと後ずさると、両腕が解放された。自分の多くはない荷物の中から洗面用具を取り出して、まだ立ち竦んでいる銀時の横をすり抜ける。
銀時の言いたいことも、なんとなく分からないでもない。これまでも私の事で銀時が怒っているのは感じていた。夜道を一人で帰ろうとした時、風邪を引いたことを黙っていた時。心配してくれているのは、分かる。不用心に見える私がもどかしいのだろう。でも、ずっと一人で過ごしてきたから人に頼る習慣がないのだ。決して銀時のことを蔑ろにしているわけじゃない。
髪を乾かしてから和室に戻ると、それぞれの布団が敷いてあって、銀時は横になっていた。暗い部屋を横切って、客布団に潜り込む。
どう言えば自分の気持ちが伝わるのか、考えても、上手い言葉が見つからなかった。
ふっと目を開くと、部屋の中がぼんやりと明るかった。携帯のディスプレイを見ると、夜明けか早朝か微妙な時刻だった。起き上がって、布団を畳む。隣をチラリと見ると、眉間に皺を寄せた銀時が丸まっていた。息遣いからするに、まだ夢の中にいるようだ。身支度をして、ダンボールを客間に持っていく。ガムテープで蓋をして荷造り完了だ。テーブルの上に合鍵と書き置きを残して、万事屋を後にした。
新しい住まいに到着して、掃除をしたり買い出しをしたり、時間はあっという間に過ぎていく。遅めの昼を食べ終わったあたりで、携帯がチカリチカリと光っているのに気がついた。確認すると、万事屋からの着信履歴だった。
「シモシモー?どちら様アルかー?」
電話に出たのは神楽ちゃんで、なんとなくホッとする。
「春です」
「あー!朝起きたらもういなくて寂しかったヨ!」
「ごめんね、引っ越しとか買い出しがあったから早く出てきちゃった」
「ところで、新しいおうちはどこアルか?」
「あ、」
新しい住所伝えるの、忘れてた。
それからしばらくして、インターホンが鳴った。初めて聞くそのメロディを覚えながら、玄関の扉を開ける。
「勘弁してくれよ」
買ったばかりの座布団の上で胡座をかいた銀時が小さな声で呻いた。
「昨日の今日でこんなことされたらほんとに駄目かと思うじゃん」
「ごめん、すっかり教えたつもりでいた」
「……昨日の続き、していい?」
自分も向かい側に座ってから、こくりと、黙って頷く。
「俺たちってなんか微妙な関係だよなァ」
「そうだね」
友達、というわけではないし、仲間とか同志という言葉もしっくりこない。恋人というには曖昧で、そうでないと否定するほど遠くもない。お互いに改めて確認するような性格でもないし、それで困ることもない。
「とゆーわけで」
なあに?と視線で問いかける。
どうしてだか、一瞬だけ銀時が焦ったような表情になった。何か後ろめたい話でもするのだろうか。こちらも自然と身構えてしまう。
「俺は堂々と心配したいし、おまえにも堂々と頼って欲しいし、だからその口実、みたいな?」
話に続きがありそうなのに、突然自分の懐に手を入れて、折りたたまれた紙を取り出した。途中まで広げたそれを、そのままこちらに差し出す。
「だからはいこれ」
受け取ってから最後まで広げて、ほとんど埋まっているそれに驚いて目を見開いた。顔を上げて銀時を見る。
「俺の奥さんになってください」
いつの間にか正座に座り直していて、まっすぐに私を捉えていた。
まったく想像していなかった出来事に、どう反応していいか分からなくて、ただただ馬鹿みたいに銀時を見つめ返す。
「奥さんて、お嫁さんてこと?」
「まあ、そうなるな」
「私と銀時が、結婚するってこと?」
「そうだね、春ちゃんがそれにハンコとサインをくれればね」
「つまりこれからは居酒屋とか屋台で『お姉さんは銀さんのコレなの?アチチなの?』って小指を立てられた時にそうです私がカナイですって答えるってこと?」
「そんなこと聞かれてたの?」
「たまに」
「へえ」
さっきまでの緊張した面持ちはどこへやら、昔から変わらない悪だくみをしている時の顔でニタリと笑った。
「俺と一緒にいる口実、欲しくない?」
たぶん私は、どんな時でも同じ答えを返すだろう。
「欲しい」
物事の終わりは突然やってくる。まるで風が吹くように、炎が揺らぐように、小さな泡が弾けるように。
嬉しい終わりもあるものだと、彼の腕の中でぼんやりと考えた。