朝、目を開けた。この部屋に引っ越してきてから一ヶ月が過ぎた。天井はもう見慣れたものとなっている。静かに息を吐いて、体を起こした。違和感にはすぐに気がついた。けれど、久しぶり過ぎてこういう時にどうするのか忘れてしまった。まずは立ち上がっていつも通りに支度を始める。家を出て、職場である歯医者に向かう。
職場に着くと唯一の上司である院長が、すぐに口を開いた。
「こりゃやめといたほうがいいね」
「え?」
「具合悪そうだから今日は大丈夫だよ」
「はあ」
「治ったらまた来てくれればいいよ」
「……ありがとうございます」
大丈夫だろうかこの職場は。院長先生の柔和な笑顔に誤魔化されて、いや、甘えて帰路につく。家に帰って着替えて布団に入ると天井を見上げる間もなく瞼が重くなった。
薄闇の中、目を開けた。窓の外は淡い赤と濃い青が混じっている。喉の渇きを感じて体を起こした。
「おまえんちってなんもねーのな」
「……どろぼー?」
「貴女のハートを盗みに怪盗銀さん登場でーす」
「わー、おまわりさーん」
漫画雑誌を手に、あぐらをかいた泥棒さんはまるで我が家かの如くくつろいでいた。そもそもどうやって入ったんだろう。ぐらぐらと揺れる頭で考える。
「おまえいくら無頓着って言ってもな、ここは田舎じゃないんだから鍵くらい閉めろよ。ほんとのドロボーさんが来ちゃうぞ」
「鍵、開いてた?」
「開いてた」
しまった、閉め忘れた。自分の迂闊さに頭を押さえて、よくある冷却シートが貼ってあるのに気がついた。驚いて彼のほうを見れば、台所からコップを持ってきてこちらに差し出していた。
「ありがと」
「どーも」
渇いた喉に冷えた水が心地良い。相変わらず無気力な目でこちらを見下ろしている。
熱を出すなんていつぶりだろう。少なくとも、一人になってからはその記憶がない。だから、当然体温計や薬なんて持っていない。でも無くてもきっと平気だ。原因は気の緩みだ。しっかり眠ればすぐによくなるはずだ。
「なあ」
「うん?」
気がつけば目の前に彼の顔があった。どうやら、私と彼の間では流れる時間が違うらしい。
押し付けられた唇からはイチゴのような甘ったるい香りがした。もう一度、もう一度。
こんなことしてもいいのかな。でも、頭が上手く働かない。されるがままに受け入れる。
「そういえばなんでうちにいるの?」
「今それ?」
「うん」
天井が目に入って、いつの間にか頭が枕についていることに気がついた。おまけにベッドの上、というより自分の上に銀時が乗っていることにも気がついてしまった。
「歯医者に行ったらおまえが風邪で休みって聞いたからよォ、間抜け面見ようと思って来てやったんだ」
「ふーん」
「ふーんて、それだけ?」
「ううん」
目を閉じると、じんわりと瞼の裏に熱を感じた。なにもかもが久しぶりの感触で戸惑う。
「勘違いしそう」
「しとけしとけ」
一度ベッドが軋んで、優しく前髪をすかれる。その時に触れられた指を直接感じることができないのが残念だった。
「なんか食うか?」
「……眠い」
「添い寝してやろうか」
目を開けば、想像通りのニヤニヤ顔を披露していた。それがおかしくて、口許が緩む。
「して」
「へいへい」
返事のわりにはその場に座り込んで、こちらの顔を眺めている。
「……して」
「アッチもコッチも元気な時にな」
「ばーか」
言って、自分が残念がっていることに気がついて、なんだかそのことが無性に恥ずかしくなった。火照った頬がどの熱のせいなのかは、知らないほうが良さそうだ。
「お嬢さん?」
「はい?」
「顔が真っ赤ですけど?」
「……熱のせいデスヨ」
「ふーん?」
じゃあそういうことにしとこうか、と笑って、イチゴの香りが瞼に降ってきた。それに身を任せて意識を手放す。熱い頬を、乾いた手が撫でていった。